『アニメの教科書』岡田斗司夫著 好きだった90年代を縦に観ることができる名著

文字通り、アニメの見方が変わる名著

オタキングによる自伝物語です。

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先日ドラマ化された『アオイホノオ』にもあった、庵野・山賀・赤井氏との『DAICONⅢ』あたりからの自らの歴史を解説しています。
岡田さんといえばGAINAXの社長ですから、結果、GAINAXの歴史を社長視点から振り返るようなことになります。
また、GAINAXの歴史って、言ってしまえば90年台からのアニメ・サブカル史を縦に観るようなものですから、結果、あたくしが最も多感でアニメをよく観た90年台~ゼロ年代の話になります。

あの時代、アタクシ的には『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』は中高時代に夢中になって観ましたから、岡田さんの言っていることはいわば「ヒーローたちの「あの時ホントはああだったんぜ、こんなこと考えていたんだぜ」という自分語りになります。大好き。

やはりこの人、あたまが猛烈に良いんだなあ

ウィキペディアによると

幼稚園2年目で既に漢字も読めるなど早熟であったため、幼稚園は無意味だから辞めたいと主張し、父母らの同意の上で1964年に退園する。
幼少時に学校で受けた知能検査で、自身の知能指数が148以上あることを知り、頭が良いのなら宿題などは単なる機会損失に過ぎない、と、以後の勉学を放棄

などとあります。本当かいな?
「本当かどうか知らないけれど、この人ならやりかねない」と思わせるのがこの人の魅力ですよね。

この本の語り口一つをとっても、この人の天性の頭脳の出来の良さは伝わってきます。

文章がとにかく明瞭で理解しやすく、それでいて辞書的でない

こういう自伝の良いところは、「〇〇とはこういうもんだ」というような事柄が辞書的でなく語られることです。
この本でも例外でなく、例えば

テーマとして入れた作り手側の思いは、永遠に届かない。  届かないけど、作り手と観客の中間に「作品」という形で共有してるから、それでいい。  作者は「作品」に自分のテーマを込める。おかげで「作品」はクオリティが上がって面白くなる。  結果、観客は「作品」を見たとき、自分が見たいテーマをその中に見つける。でも、自分なりの「テーマ」を見つけられるほど内容に没入できるのは「面白い」から。

とか

クリエイターとは全員「子供」なんです。子供でいいとは思わないんですけども、基本のポジションが子供。自分がやりたい事をやる。それが正しい。  なぜかというと、自分がやってることは新しくて面白いから。新しくて面白ければ、最終的にみんなが儲かるはず。だから正しい。  その通りなんですよ。最終的にみんなが儲かるんです。  でも、途中のリスクはどうなるのか。途中のデメリットはどうなるのか。  それを、誰かが引き受けなきゃならない。  それは「大人」が引き受けるんですね。  だから、誰かが「大人」にならなきゃいけないんです。

とか。
前者の引用は「作品のテーマ」論で後者は「クリエイター」論ですよね。
こういうのが、経験者から語られるのが、あたくしは大好きですね。

他にも

たとえどんなに売れると思っても、そんな理由だけで書けないんですよ、僕は。少なくとも三ヶ月とか半年必死になるには、もうちょいと高尚な動機がないと、やる気になれないんですよ。  でも、映画と同じく、やっぱり読者に僕の言いたいことが伝わらなくても気にしない。  もの書きとしての僕への最大の賛辞は、いつも「面白かった」「あっという間に読めた」「自分の考えてることを整理してくれたみたいだ」。  そして何よりも「なんだかわかんないけど、元気でました!」なんです。

とか

もう十年前くらいから「子供たちは、悪役にお金を使わない」ということが統計データからわかっている。ウルトラマンと、その怪獣のフィギュアを一斉に出したら、怪獣を買う子供がほとんどいない。ウルトラマンとかウルトラ兄弟ばっかり買う。昭和の時代なら怪獣もウルトラマンも同じように売れた。ガンダムなんか、主役のガンダムよりザクのプラモデルが売れた。でも平成になる以前から、消費者動向は変わりだした。子供たちはヒーローにのみ自分を投影して、主役やメインキャラしか買わなくなった。  あくまで消費者が欲しい物を与えるのをメーカーの使命だとすれば、今求められている『ウルトラマン』という作品は、登場してくる巨大キャラクター全てがウルトラマンの『ウルトラマン』。もしくは、登場してくる怪人すべてが仮面ライダーの『仮面ライダー』だってことですね。

なあんてのははっとさせられました。
確かにそうかも。

ちょっと引用が多めになりますが、とにかく文章が良い。

『ガンダム』が好きだというと、「本当の戦争を知らないくせに」ってよく言われるんですよ。朝日新聞とか筑紫哲也(一九三五~二〇〇八)みたいな偉い左翼系の文化人には必ず言われました。  アニメから戦争を学ぶ? そんなことより可哀想な人たちのところへボランティアに行け! ピースボートに乗って「本当の世界」を見てこい。そう言われるんですよ。  ギャルゲーとかやってると、そんなことをせずに本当の恋愛をすればいいとか言われるんですね。  僕、そういう批判が全部大ッ嫌いなんですよ。 「本当のものに価値がある」っていう考え、そんな貧乏根性が嫌いなんです。 「自分が感動したこと、その感動した心だけが本当なんだ。その感動が何によって起きたのか、それが現実であるかどうかは大したことじゃない。そんな安っぽいことに自分の感動が左右されたくない」って思っちゃうんですね。  映画をみて感動した、それは恥ずかしいことではないし、本物の感動です。ノンフィクションやドキュメンタリーを見て感動するのと変わらない。僕らの心が感動するから凄いわけであって、真実だから感動したわけじゃないんです。  感動したのは自分の心であり主体であるはずです。本当のことだから偉いとか、本当の戦争を知らないとか、本当の恋愛をしろとか、そういう言い草が全部嫌です。

キレキレですね。

あの当時、僕たちオタクは「俺たちオタクと宮﨑勤は違う!」と言ってはいたんですけど、違わないのを知ってたんですよ。  違わないけど、ほんのちょっと違う。  この「ほんのちょっと」の部分は、すごく説明しないと分かんないし、その説明するべき部分こそがもっともオタクの気持ち悪い本質であろうというのも見当がつくんです。  ロリコンとか幼女趣味とかだったら、まだ説明しやすいんだけど、僕たちはもうちょっとややこしいんです。もちろん、犯罪には手を染めないです。手を染めないんだけど、俺たちが心を傾けていることと宮﨑勤が好きだったことの差が、どうにもこうにもはっきりしない。  そういう犯罪を実行するか、実行しないけど現実の幼女が好きか、現実の幼女ではなくアニメの幼女が好きか、幼女を主人公にしたアニメが楽しく見ることができてしまうか。  その間に明確な線が引けないんですよ。明確な線を引こうとすればするほど、同族嫌悪に近くなってしまうし、普通の人からみたら似たようなものになっちゃうだろうな、とわかってしまうんです。

宮崎勤の事件の当時の記憶はほとんどありませんが、今書籍等でさかのぼって考えてみて、あたくしも同意権です。
宮崎勤と自分たちの差異なんて、「ほんのちょっと」。それが法律に反する行為かどうかだけ。

最後に、この文章。
現場の人だったからこそ分かる言葉です。

ガンダムを作りたいからサンライズに入社するとか、ウルトラマンを作りたいから円谷に入社する、という考え方は、完全に間違っています。その会社の初期に入社して、若いうちにその会社の黄金時代を作った人たちが年をとって引退するまで、新人たちの出番は回ってこないんです。だから、作品を作りたい人は、絶対に自分で会社作ったほうがいいんです。

若いころ読んでたら衝撃だったろうなぁ。

でも貞本君は「俺は宮さんにはなれないです。元々ルパンも大隅ルパン(『ルパン三世』第一シリーズ(一九七一)のうち、大隅正秋が演出した計八話)が好きなぐらいだし。大隅ルパンは、宮崎駿とか大塚康生(一九三一~)とかいろんな人間が関っていて、よいしょよいしょと作ったルパンだから好きなんですよ。『カリオストロの城』(一九七九)みたいに、宮崎さんが一人で作った作品は、俺、あんまり好きじゃないんです」て言うわけです。

貞本さんはあんまり表舞台に出てくるイメージないんですが、こういう人だったんですね。
すげー、なんか面白い。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』