『エロゲー文化研究概論』 感想③ 考察編

最後に、この本の本当にすごいところ。考察について考えてみたいと思います。
ほとんど引用ばっかりになっちまってすいません。あまりに素晴らしい内容すぎて、言葉を失うほどなのです。

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素晴らしい考察

最後に、この本のすごいところは考察にもある。
今じゃ当たり前になった、トゥルーエンドや

ビジュアルノベルを含め、多彩な分岐を備えたAVGの登場がもたらしたものがいくつかある。たとえば、すべてのヒロインとの関係がワンプレイでは網羅できない、「あちらを立てればこちらが立たず」という作りは特に促進された部分だ。 ほかにもある。一本道ならばドラマとしての結論はひとつで、あとは単純に「ハッピーエンド/バッドエンド」や「クリア/ゲームオーバー」というふうに、プレイヤーやキャラクターのやることがうまくいく・いかないのざっくり二分類で足りていた。しかし何種類ものパラレルなエンディングをもつ形式は、作り手側が「エンディングがたくさんあるけど、この結末こそが作品いちばんの総まとめになりますよ」と格をつけることを可能にした。誰かが消えたり亡くなったり失敗したり、ぱっと見で悲痛だとしても「そうあるべき」着地点として納得できるものなら、それをハッピーエンド以上の結論に位置づけてもいい。真なる結末……トゥルーエンドの誕生である
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また、ムキムキ女性に犯される『The ガッツ』を取り上げた際の論考。

ひとつ、当シリーズをみるうえで注意したいのは「『Theガッツ!』はコミカルな演出の作品である」というのは事実でも、同時に、マッスル女体のエロス自体は本当に深く興奮する人がいる分野で、そこはネタで茶化して済むものではないということだ。これはどんな分野のエロについてもいえる。触手、ふたなり、獣姦、スカトロ、屍体愛好、人体改造、巨大娘、そのほか諸々……世界には様々な欲望があり、それにガチで対応する作品も様々にあるのだ。
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深い。深いですよ。
その通り。性の趣向こそ十人十色。そこに細かく対応していることも、エロゲーの大きな魅力の一つ。実写では到底叶えられないものも、エロゲーなら比較的容易になります。

ポルノメディア全般が厳しい目にさらされるなか、アダルトゲームにおいてもソフ倫が求める自主規制は強まっていた。一九九〇年代後半に入ってまもないころまでは、まだ18歳未満のキャラクターや血縁関係のキャラクターのからみを明示する作品もあったが、だいたい九七年ごろからはほとんどが義理設定にしたり年齢への言及を避ける策をとるようになった。
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二〇〇〇年代後半からはソフ倫の規制強化で、性描写のあるヒロインを五頭身以下にデザインできなくなるなど商業のロリ系エロゲーは基本的な表現のレベルから厳しい状況におかれているが、それでも火は途絶えずいまに至っている。
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へー。児童ポルノ法による配慮は、97年ごろから始まっていたのですか。
当時、バリバリエロゲーマーだったけど、全然気にしてなかったなぁ。

五頭身以下はダメ、とか。表現の自由的にもどうなのよ。

いくら泣きゲーと呼ばれ、エロが省略可能でも、エロシーンは実際そこにある。むしろ悲劇の中だからこそ性(生)の感覚を刺激されて抜くユーザーもいるだろう。一方、抜きゲーと呼ばれるものでも、セックスの最中やその前後で起きるキャラクター同士の関係や心理の変化に注目し、それをドラマとして嗜むユーザーもいるだろう。作品を問わず泣きながら抜き、抜きながら泣くひともあるだろう。結局エロゲーはすべてエロく、同時にすべて心に迫るのだ。私たちが体液を漏らすのが下半身からであっても上半身からであっても。
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本書で最も好きな文章。エロゲーの魅力を数文で表した、素晴らしい文章です。
あぁ、何だか久々にエロゲーやりたくなってきた。

複数回/強制的に/時間空間を戻されて、ごく近似した状況を強いられる(そしてそこから抜け出そうとあがいたり、あきらめちゃったりする)というループ構造の物語は、SF分野では古式ゆかしいお話の型である。フレデリック・ポール「幻影の街」(一九五五)、J・G・バラード「逃がしどめ」(一九五六)、J・T・マッキントッシュ「第十時ラウンド」(一九五七)など一九五〇年代後半にループものの短編小説が集中しているほか、ループへの言及があるものでアシモフ『永遠の終わり』(一九五五)、この話題でよく参照されるケン・グリムウッドの『リプレイ』(一九八七)などがある。日本でも筒井康隆をはじめ様々な作家が手がけた題材だ。ごく最近のものなら人気ライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの一編「エンドレス・エイト」……そのアニメ版では劇中の八度のループを律儀に一周一話かけて八話も費やしたのがいろんな意味で反響を呼んだ。近未来の戦場で新米兵士が幾度とないループの中で熟練の勇士になるという、桜坂洋の『All You Need Is Kill』がトム・クルーズ主演でハリウッド実写映画化されると報じられたが、これもループものの傑作だ。 映画ではビル・マーレイ演じるイヤな男が同じ二四時間を繰り返すなかで改心してロマンスを得る『恋はデ・ジャ・ヴ』(一九九三)の知名度が高い。同年に『タイムアクセル 1210』という映画もあり、そちらはあまりパっとしなかったが設定的には立派なループものSFだ。ほかにもちょっとしたテレビドラマの一エピソードまで含めれば古今東西、数多く制作されている。
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とにかく、この著者の知識量、はんぱない。
そこにシビれる憧れる。エロゲーだけじゃなく、コンテンツ全般にめちゃ詳しいでないの。

黎明期のエロゲーはヒロインがただ服をひんむかれて肌をさらして終わりのポルノだった。しかし内容が発展するなかで、エロゲーはいつしか心のベールをひんむくものに変質してきた。主人公にそっぽを向く振れ幅も出てきたなかで、エンタメとして成るにはヒロインの好意をどう確かなものとして示すかが問題になる。その際、「心を壊すくらいなのだから、ほんとうに好きなのだな」という証明としてヤンデレキャラクターが立つのは、たしかにひとつの解だろう。業の深いニーズではあるけどもね。
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何度も繰り返し書くが、たとえばツンデレは気持ちに嘘をついて嫌い嫌いと意地を張ることの向こう側に「逆にいえばその隠している好意は本物ってことだな」という保証を演出する。ヤンデレは「心を壊すくらいなんだから、その愛は本物ってことだな」という保証を演出する。裏読みのいらない一直線なポルノだったエロゲーに、心の裏を描くドラマや複数ヒロインへのパラレルな分岐システムを引き込んだことで、キャラクターの恋愛感情にメタレベルの極端な不確かさが生じ、その反動で確認のニーズも極端になったという歴史のなりゆきによる部分はある。
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ヤンデレの考察。的を射ているとはまさにこの事。度を過ぎた愛情を“病む”ほど、と体現しているからこそ、承認欲求の強い人々にヤンデレが評価されるのかもしれぬ。

とにかく、本著が素晴らしい経験と知識と教養に基づいたものであることは理解いただけたと思います。
これを読まずして、エロゲーを語るなかれ。
ま、語るケースがほぼ無いんですけれどもね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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