『旅行者の朝食』 教養とユーモアに富んだ、飯の噺

飯の噺としても、本としても、十分に優秀な良著ですな。

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その名を聞いただけでロシア人なら皆いっせいに笑い出す「旅行者の朝食」というヘンテコな缶詰や、数十年前たった一口食べただけなのに今も忘れられない魅惑のトルコ蜜飴の話、はたまたロシアの高級輸出品キャビアはなぜ缶詰でなく瓶詰なのかについての考察や、わが家を建てる参考にとはるばる神戸の異人館を見に行くも、いつのまにか食べ歩きツアーになっていたエピソードなど、ロシア語通訳として有名な著者が身をもって体験した、誰かに話したくなる食べ物話が満載です!

よく存じなかったのですが、この米原万里さんという方は既に亡くなられている方で、通訳であり執筆家でありグルメである方だったそうです。
その出自は共産党常任幹部の娘。それからロシア文学に系統するってんだから筋金いり。
きっと血は真っ赤でしょう。

兎に角この本、教養に富んでいて読み応えが凄い。

『パンと塩』(R・E・F・スミス+D・クリスチャン著、鈴木健夫他訳 凡社)。イギリス人研究者による「ロシア食生活の社会経済史」(同書の副題)をなんでわざわざ日本語訳するのか、そんな疑念を吹き飛ばす名著である。  年代記や公文書、統計や外国人の旅行記、大黒屋光太夫の口述した『北槎聞略』まで、気も遠くなるほど膨大な資料を駆使していて、しかも引用部分がいちいち面白い。白眉は、ロシアの農村においてウォトカが果たした経済的というよりも祝祭的役割について述べるくだり。 「祝祭日の食べ物のほとんどがそうであるように、アルコールは、栄養になると同時に社会的意味も持っていた。諺によれば、『飲んで踊るのは他人のため、食べて寝るのは自分のため』、『パンがなくては働けない。ウォトカがなくては踊れない』」 「草刈り、脱穀あるいは家屋建築材の運搬などといった緊急の仕事を片付けなければならない家長は、多くの働き手を招き、集団ができる。働く人々には報酬は支払われないが、……一日が終わればいつも大がかりな食事と火酒が振る舞われる。そして、それは、貨幣支払いよりもはるかに魅力的となっている」
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家元がよくロシアのジョークを話してらしたなぁ。

ウォトカを前にすると、ロシア人はたちまち己の心と身体に潜む遠い祖先たちの記憶がうずき出して、共同体的な祝祭的な世界にワープできるのだろう。 「これほど飲み仲間として理想的な人々はいない。しかし、ビジネスの相手としては……」  と、これはすでに引退した日本人商社マンの言葉である。
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まずくて売れ行きが最悪な缶詰を生産し続けるという膨大な無駄と愚行を中止するか、缶詰の中身を改良して美味しくするために努力するよりも、その生産販売を放置したまま、それを皮肉ったり揶揄する小咄を作る方に努力を惜しまない、ロシア人の才能とエネルギーの恐ろしく非生産的な、しかしだからこそひどく文学的な方向性に感嘆を禁じ得ないのだ。
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ユーモラスで皮肉っぽくて。
いいなぁ、米原さん。東欧のユーモアを色濃く受けている印象がありますな。

 旧大陸の人々がトマト、ジャガイモ、トウモロコシなどの食材を知るようになったのは、コロンブスがアメリカ大陸を発見して帰国した一四九三年以降のことである。しかし、今のわたしたちにとって馴染みのこれら食材が実際に普及していくテンポは、実に気の遠くなるほど遅々たるものであった。
よく知られているように、ヨーロッパの人々は、最初、トマトを観賞用植物にしてしまったようだし、ジャガイモにいたっては、悪魔の食いものとして気味悪がった。次項の「ジャガイモが根付くまで」に記したように、ヨーロッパ各地で頑強な抵抗にあい、フランスで受け入れられるのは十八世紀末、ロシアでは十九世紀半ばすぎである。
ところが、トマトも、ジャガイモも、トウモロコシも、今や欧米料理に欠かせない存在となっている。トマト無しのイタリア料理、ジャガイモ無しのドイツ料理やロシア料理、トウモロコシ無しのアメリカ料理など今では考えられない。
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たとえば、トウモロコシは、一五七九年に、ジャガイモは一六〇一年頃に、トマトは一六七〇年頃に、オランダ船やポルトガル商人たちによって長崎にもたらされているが、いずれも日本に定着はしなかった。再び、明治初期に欧米からトマトの品種が導入され、赤茄子の名で試作されたようだが、独特の臭みが嫌われて普及しなかった。
トマトやジャガイモが現代日本の食卓に欠かせぬ存在となるのは、戦後のことである。植物性食材だけではない。豚や牛の肉を、大多数の日本人が常食するようになったのは、明治以降のことであるし、乳製品だって、つい最近まで、「角が生える」と恐れられていたのである。
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面白い。
こういうのを教養というんでしょう。

 十七世紀末、兄弟たちとの凄惨な政争を勝ち抜き、玉座を手中にしたピョートル一世は、職工に身をやつしてオランダやイギリスなどヨーロッパの先進国の技術を学びに出る。そこで初めて口にしたジャガイモの美味なることに感動し、国に持ちかえり、熱心に普及につとめた。わざわざドイツから大量に種芋を取り寄せ、ロシア全土すべての郡当局に、これを栽培し広めよとの勅令とともに配布したほどだった。それでも誰もが気味悪がって食べてさえくれないのだから、作付けなどするはずがない。
仕方なく、天領でつくらせるのだが、絶対君主のピョートル大帝が命じても、農民たちは怖がって食べてくれない。大帝は、非常手段に訴えることにした。農民たちを御前に呼び出し、茹でたてのジャガイモを山と盛った大皿を何枚も並べた。
「いま朕の目の前で食って見せなければ、その場で打ち首にいたす」
震えおののきながら、それでも、農民たちは迷っていた。この気味悪い食べ物の毒に当たって苦しみ悶えながら死ぬよりも、一気に首を刎ね落とされたほうが楽だと思ったのかもしれない。
「見るがいい、朕も食しておる。これほど美味く滋養のある食いものはないのじゃ」
ムシャムシャと美味そうに食べて見せる。でも、大帝陛下は悪魔の申し子だという噂も絶えないことだし……農民たちがいつまでももじもじしているのに、業を煮やした大帝は、一番前にいた男の首根っこをひっ捕まえて、首筋に剣をあてがった。
「食えっ、食わんかーっ」
農民たちは、一斉に手をのばしてジャガイモに食らいついた。うーん、こりゃ、まずくない。いや、かなり美味いぞ。そんな表情を素早く見て取った大帝は、満足そうに髭をなでた。
しかし、農民たちは次の瞬間、きっと明日の朝は冷たい骸になっているかもしれないという予感に震えおののく。
翌日も翌々日も農民たちはピンピンしていた。一週間経っても身体に異常は認められない。それでもジャガイモはなかなか受け入れられなかった。作付けが始まったものの、天領の農民たちどまり。さらに、ジャガイモがロシア全域に広まっていくには、気の遠くなるような長い年月を必要としたのだった。  R・E・F・スミスとD・クリスチャンは、ジャガイモが「七年戦争の終わりにプロイセンから帰国してきた兵士たちによって持ち帰られた可能性もある」(『パンと塩』)としながら、その受容の困難さは、中毒死の恐れというよりも、死んでから地獄に堕ちるのを恐れたためだとみている。そういう迷信を広めたのは、最大の抵抗勢力たる旧教徒たちであった。
なかには、それは「最初の二人の人間が食べた禁断の木の実である。それゆえ、それを食べるものは誰でも神に背き、聖書を冒瀆し、決して神の国を受け継ぐことはないだろう」と信ずる者もいた。北ロシアの大部分では蕪がとにかく伝統的な主要作物であり、ジャガイモがそれに取って代わることは、ほぼ一八世紀を通じてなかったのである。
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それでいて文章がリズミカル。
理想とするところであります。

また、飯の噺以外のところも面白い。

 『かちかち山』の十分の九は、婆さんを殺して婆汁にしてしまった狸に対して、死んだ婆さんと、その連れ合いの爺さんに可愛がられていた兎が復讐を遂げる話に割かれている。そのやり口が、まさにいまどきの子どもたちのイジメを連想させるほど、姑息で凄惨で情け容赦ない。
最後は騙されて泥船に乗せられ溺れ死ぬ狸が、では、それほど悪逆非道なことをしたのか。
確かに、婆さんを婆汁にしてしまったのはひどいが、もとはと言えば、爺さんにつかまり、狸汁にされるところだったのだ。
それを考えると、狸の受ける仕打ちが、あまりにも理不尽である。その証拠に、太宰治にはじまり、倉橋由美子にいたるまで、実に多くの物書きが、『かちかち山』のパロディーを創作するという形で、「原作に異議申し立て」を行っている。
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太宰から倉橋由美子まで、なんてなかなかスラスラでてくるもんじゃない。
只者じゃないです。そりゃそうか。

再読したい、名著に出会えました。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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