『21世紀の落語入門』 そりゃまぁ、叩かれるわな……

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悪意のある本ではないと思うのですが、そりゃまぁ、嫌われるでしょうね。

ファン歴三十数年の著者が、業界ヨイショ・しがらみゼロの“客目線”で親しみ方を大胆指南。「聴く前に、興津要(おきつかなめ)編の作品集『古典落語』を読むと理解倍増」「寄席へ行くより名人のCD」「初心者は志ん朝から聴け」「志ん生は皆が褒めるが江戸弁がキツくて分かりづらい」……定説に時に突っ込みながら、うまい噺家(はなしか)、聴き方のツボ、演目の背景・歴史を一挙紹介。落語ツウも開眼多数の新感覚の入門書。

帯に「寄席へ行くより名人のCD」「初心者は志ん朝から聴け」と書いてあったので「ほう」と思い購入。小さい子供持ちは寄席に行けないし、志ん朝師匠のCDは未だに愛聴していて、「なかなかいい事言うじゃないの」と思いましてポチる。

内容についても、悪意は感じられませんでした。アマゾンレビューではボロカス言われてますけどね。どうやったって「落語評論」というのはケチがつきます。

広瀬は、週刊誌に連載も持っている売れっ子の評論家だが、ここで、「寄席へ行け」と言う評論家は、要するに落語協会のようなところの回しものである、ヨイショであると言っている。それはまったくその通りだと思うのだが、この本は、前のほうでいいことを言っているのに、後のほうへ行くと、「立川流ヨイショ」本になっていくのである。立川流というのは、落語界の風雲児とも言うべき立川談志が、落語協会から独立して作った流派である。
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初っ端から広瀬和生氏への批難。あたくしは広瀬さん何冊か読んでますけど、この筆者よりは好きだなぁ。広瀬さんが「立川流好き」なのは間違いないけど、別にヨイショだとは思わぬ。

よく玄人的評論家は、マルクスならまず『資本論』を読めとか、下手をすると、原典で読めとか無茶を言うが、その手のものなら、まず有斐閣新書や、放送大学の教材のような入門書から入るほうがいいのである。  落語についても、寄席へ行け、興津要など許せん、というのは、落語家としては分かるが、一般人が従う必要はない。
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口先ばかりで腸はなし、とまでは言いませんが、なるほど言っていることは好ましく思います。入門書の重要性、マニアがジャンルをダメにする。そういうことです。

さて、落語というと、今では「お笑い」のうちに入れられることが多い。  私は、この「お笑い」という言葉が嫌いなのである。つまり、漫才とか、お笑い藝人とか、そういうものを、落語とは全然異なるものとして見ているということである。  昔は、というのは、私の中学生のころだが、それが一般的な見方だった。谷崎潤一郎は落語が好きで、桂春団治が死んだ時に文章を書いていたりするが、それ以外の笑い藝にはさして関心がなかった。
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笑いというのは、文化依存度が高く、一般的な物語ほどの普遍性を持っていない。フランスの喜劇作家モリエールが、名高い割に、日本では人気がなく、上演されることも少ないのは、そのせいである。
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たとえば、漫画というのを、いま、笑うものだと思っている人はあまりいないだろうが、つい二十年ほど前までは、漫画は笑って読むものだと思われていて、漫画の中で子供が漫画を読んでいると、たいていゲラゲラ笑っていたものだ。
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まったく同意ですね。「お笑いじゃない」とまでは言いませんが、お笑いというジャンルではないでしょう。笑ってもらうことが主眼ではない芸能だと改めて思います。漫画もそうですな。今はゲラゲラ笑いながら読む漫画というのは減りました。ギャグよりも共感に走っているというか。ま、漫画を語るほど漫画読んでないんですけどね。

私は「現場主義」というのが嫌いなのである。警察の捜査のつもりででもあろうか。ノンフィクション作家やルポライターなら、現場へ行くのは重要であろうが、野球を観るのに野球場へ行く必要などない。その昔、蓮實重が、野球が好きなら野球場で観ろ、というようなことを言ったのに対して、それは野球場がある大都市に住む者の勝手な言い分ではないかと書いたことがある。するとさる先輩から、蓮實先生にとっては、大都市に住むのも才能のうちなのだ、と言ってきた。まあシャレ(冗談)だろうが、けったくそ悪い。
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ヴァルター・ベンヤミンというドイツの哲学・文学者の、「複製技術時代の藝術」(一九三五)という有名な文章があって、複製藝術、つまりレコードとかラジオのようなものからは、本物が持っているオーラが失われると書いてある。しかし、それがいいことなのか悪いことなのか書いていないので、難解だとされ、それゆえにかよく言及される。ベンヤミンは裕福なユダヤ人の家庭に育ち、ナチスの迫害から逃れようとして果さず自殺した人だから、これは民主主義に対する曖昧な感情を表したものだと言っていいだろう。ヒトラーがとりあえず国民の支持を得て政権を握ったこともあり、民主主義はファシズムに通じることもあるからである。
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でた、結論。
「私は現場主義が嫌い」これで大体の筆者の意見は説明がつきます。確かに落語を聞くというのは環境に左右されるところもあって、自室で酒飲みながらゆったり狸の話なんぞを聞くのは非常に好ましい。逆に団体客がおしゃべりしながらお弁当を食べる横で人情噺などを聞くというのは生でも非常に残念であります。
あたくしは一概に現場主義でも古典主義でもないですが、筆者の言っていることの半分は理解・共感できます。

落語はこんな風に、勉強になる。面白くてためになるのである。しかし、こんなことを言うと、不快がる落語ファンというのがいる。「落語で勉強するだあー、冗談じゃねえぜ」ってなことを言うやつらである。勘違いである。落語を聴くにも勉強は必要だし、落語を聴いて勉強になるのなら、これほどいいことはないのである。勉強が嫌な人間は「笑点」でも観ていればいいのだ。
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自分じゃ痛快に言っているつもりでしょうが、毒の切れ味が悪いから単なる「いちゃもん」に聞こえます。これがこの筆者のレビューが低いところでしょう。批判するにも品が必要です。
ただ、あたくしは半分は同意できます。

小さい子供がいるとなかなか寄席には行けない、行っても今は鈴本以外は酒が飲めない。
そんな環境では、あたくしもなかなか「寄席に行かなきゃ落語ファンじゃない」風潮に迎合はできません。

早く子ども育て上げて、酒のんで落語聞きたいなぁ。

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都内在住のおじさん。 2児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』
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