『行人』③ 現代人の悩みっていうけどさ

どんどん神経衰弱していくんですよ、登場人物が。

位置: 4,065
自分の想像は、この時その美しい眼の女よりも、かえって自分の忘れようとしていた兄の上に逆戻りをした。そうしてその女の精神に祟った恐ろしい狂いが耳に響けば響くほど、兄の頭が気にかかって来た。兄は和歌山行の汽車の中で、その女はたしかに三沢を思っているに違ないと断言した。精神病で心の憚が解けたからだとその理由までも説明した。兄はことによると、嫂をそういう精神病に罹らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思ってるかも知れない。そう思っている兄の方が、傍から見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂いを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂い廻らないとも限らない。

もうね、思考が負のスパイラルに入っちゃってね。
参っちゃってるんですな、お兄さん。

位置: 4,078
外は十文字に風が吹いていた。仰ぐ空には星が粉のごとくささやかな力を集めて、この風に抵抗しつつ輝いた。自分は佗しい胸の上に両手を当てて下宿へ帰った。そうして冷たい蒲団の中にすぐ潜り込んだ。

いい風景描写。

位置: 4,271
彼らはすでに過去何年かの間に、夫婦という社会的に大切な経験を彼らなりに甞めて来た、古い夫婦であった。そうして彼らの甞めた経験は、人生の歴史の一部分として、彼らに取っては再びしがたい貴いものであったかも知れない。けれどもどっちから云っても、蜜に似た甘いものではなかったらしい。この苦い経験を有する古夫婦が、己れ達のあまり幸福でなかった運命の割前を、若い男と若い女の頭の上に割りつけて、また新しい不仕合な夫婦を作るつもりなのかしらん。  兄は学者であった。かつ感情家であった。その蒼白い額の中にあるいはこのくらいな事を考えていたかも知れない。あるいはそれ以上に深い事を考えていたかも知れない。あるいはすべての結婚なるものを自ら呪詛しながら、新郎と新婦の手を握らせなければならない仲人の喜劇と悲劇とを同時に感じつつ坐っていたかも知れない。

行くところまで行って、もはやシニカルになってる。
あたくしも妻がいますが、シニカルに考えると色々と不都合がありますので、あくまで前向きにしか考えないようにしています。人間、考えようによっていくらでも幸せだったり不仕合わせだったりになれるものです。

位置: 5,497
兄さんは書物を読んでも、理窟を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができないのだそうです。何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。 「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」と兄さんは云います。

兄さん、かなり辛そう。

位置: 5,689
「君は僕のお守になって、わざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠を装う偽りに過ぎないと思う。朋友としての僕は君から離れるだけだ」  兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取残したまま、一人でどんどん山道を馳け下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸しる Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit !(孤独なるものよ、汝はわが住居なり)という独逸語を聞きました。

ドイツ語吐いちゃうあたりが、もう、今で言う中二臭いってやつ。
もうシニカルも底まできてて、単なる面倒くさい青い臭い奴になってる。そこで漱石は、まだまだ兄貴に七転八倒させるわけです。

位置: 5,770
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」  兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴く人のように見えました。

位置: 5,772
「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖くてたまらない」  兄さんは立って縁側へ出ました。そこから見える海を手摺に倚ってしばらく眺めていました。それから室の前を二三度行ったり来たりした後、また元の所へ帰って来ました。 「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」  兄さんのこの言葉は、好い加減な形容ではないのです。昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。

頭でっかち、といえばそれまでですが、なんとなくそういう思考になる時があります。
『こころ』にもありましたが、漱石は超エリートでありながら、どこかそのエリートの危うさについて意識的だったんでしょうな。

位置: 6,036
親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和して納まるべき特性をどこか相互に分担して前へ進めるというつもりなのです。

黄色のハイライト | 位置: 6,043
兄さんは私のような凡庸な者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具えた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。人格から云えばそこに隙間があるのです。

『行人』をよく現代人の悩みっていう人が居るけど、違うと思いますな。
エリートです、頭でっかちです、見栄っ張りです、四角四面です。
そういう人の悩みがよく出てる。伊集院さんとか、読んでみたら好きなんじゃないかしら。

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