なんでこういうことが起きたのか、興味がある。
位置: 169
後述するようにポル・ポト革命は、観念的で現実から遊離した革命だった。超農本主義のようで、農業や農民の実情を無視した生活や生産を押しつけた。農民との一体感が希薄だった。それは指導者たちのこうした経歴が影響しているのは間違いない。
超農本主義、というのが気になる。農業を大切に!というのは政治家が言いそうなきれいな話ですが、それがポル・ポトの蛮行の源流にあったというのは示唆深い。
位置: 367
とにかく、サルの中国初訪問が彼に与えた影響はひじょうに大きかった。大躍進(本当は惨めな結果に終わったが)、人民公社、土着革命論、毛語録、中国式情報活動と粛清、文化大革命の 萌芽 など、毛沢東革命の思考やノウハウが、後のポル・ポト革命に直輸入されることになったのだ。ポル・ポト政権出現のための第五のステップといえる。
「カンボジアも毛沢東革命のように!」と思ったんだろう、ということね。今の我々は毛沢東革命の歪さを知っているけど、当時は最先端のように思えたんだろうな。
位置: 373
ベトナム戦争の激化、米軍の猛爆撃の影響だが、サルたちにとって、少数山岳民族の地域に移り住んだことは、原始共産制の素晴らしさ、旧体制の腐敗文化にまみれていない「知識のない良さ」を認識させることになった。だが、辺境すぎて、次に述べるサムロート 蜂起 のような事態が起きると、その掌握が大変にもなった。
「知識のない良さ」、パワーワードですね。
位置: 753
全国民を農民、労働者にし、生産に 邁進 させる。敵をバラバラにし、選別を容易にする。それが都市への憎悪と警戒心に基づいた彼らの基本戦略だった
かなりいびつな分断作戦。ただ、これで人間というのは殺し合えちゃうからな。分断すると相手を「殺しても良い対象」と思えちゃうホモ・サピエンスってやっぱり怖いよ。
位置: 922
シアヌークは中国の周恩来首相に対し、かなり前から、内戦勝利後はクメール・ルージュとは協力できないという率直な気持ちを繰り返し打ち明けていた。周恩来は、それに理解を示したが、今それを公表したら「殿下の大義のために戦っている人民がたちまち戦意を失い、ロン・ノルとアメリカに負けてしまう」と釘をさした。
政治家の打算で人が死ぬ世界。あぁ、いやだ。
位置: 962
こうして七六年四月上旬、シアヌーク声明と政府声明で、国家元首辞任が発表された。政府声明は殿下の功績を認め、「偉大な愛国者」の称号を贈るとしたほかに、シアヌーク記念碑を建立すること、殿下と家族の一生の経費を政府が負担し、年8000ドルの年金を支払うことを明らかにした。年金は三ヵ月に一回、2000ドルずつ支払うということだった。しかし、殿下によれば8000ドルも記念碑もまったくの空手形で、実行されなかった。
シアヌークはどれくらい信用していたのか。まったく信用していたとしたら、坊やだね。シャアに嘲笑われちゃうよ。