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マツオ氏いわく最高傑作というが。
上巻
p286
間宮中尉は綺麗に頭が禿げあがった背の高い老人で、金縁の眼鏡をかけていた。適度な肉体労働をしている人らしく、肌は浅黒く、いかにも血色がよかった。余分な肉もついていなかった。両目の脇には深い皺がきちんと三本ずつ刻み込まれて、まるでまぶしくて今にも目を細めようとしているかのような印象を与えていた。年齢はよく 判別できないが、七十を越していることはたしかだろう。若い頃はおそらくかなり頑健な人物であったのだろう。姿勢の良さや、無駄のない身のこなしに、それがうかが われた。物腰や物言いはきわめて丁寧だったが、そこには飾りのない確実さのような ものがあった。間宮中尉は自分の力でものごとを判断し、自分ひとりで責任を取るこ とに馴れた人物であるように見えた。
結構キャラクタライズしやすい登場人物。いわゆる元・軍人ですね。
p344
『少しずつ剥ぐ』とロシア人の将校は言いました。『皮に傷をつけないできれいに剥 ぐには、ゆっくりやるのがいちばんなんだ。途中でもし何か喋りたくなったら、すぐに中止にするから、そう言ってもらいたい。そうすれば死なずにすむ。彼はこれまでに何度かこれをやってきたが、最後まで口を割らなかった人間は一人もいない。それは ひとつ覚えておいてほしい。中止するなら、なるべく早い方がいい。お互いその方が楽だからな』
この人間の薄皮を一枚ずつ剥いでいく描写、たまんねぇんすよ。
そもそもこのノモンハンでの出来事が妙に鮮明で、また本編より面白く、困ったもんだ。普通に時代小説かけばいいのに、と思わないでもない。
p369
それ以来、私たちは何度か顔をあわせ、たまに手紙のやりとりをしまし た。しかし本田さんはあのハルハ河の出来事を話題にすることは避けているようでし たし、私もまたそのことについてあまり喋りたい とは思いませんでした。それは私た ち二人にとってあまりにも大きな出来事だったからです。私たちはそれについて何も 治らないということによって、その体験を共有しておったのです。
そういう関係もあるのかな、という印象。その「あるのかな」が素敵なんだな。このファンタジーに限りなく近いリアルを描くのは、村上春樹は本当に上手。ただ逸脱しすぎたときには全くあたくしはついていけません。
中巻
そして中巻。憎き綿谷ノボルが登場しますな。
p64
君たちが結婚してから六年経った。そのあいだに、君は一体何をした? なにもしていない—そうだろう。君がこの六年の間にやったことといえば、務めていた会社をやめたことと、クミコの人生を余計に面倒なものにしたことだけだ。今の君には仕事もなく、これから何をしたいというような計画もない。はっきり言ってしまえば、君の頭の中にあるのは、ほとんどゴミや石ころみたいなものなんだよ。
こんなこと面と向かって言われたら死なせてしまうかもしれません。ひどいことをいう。絶対悪として描きたかったのかしら。とにかく言い過ぎる。こういう「相手を打ち負かす」能力にやたら長けている人っているけどね。
p111
しばらくのあいだ半月が続くでしょう、と加納マルタは言った。彼女は電話でそう予言したのだ。
この井戸を下っていくときの描写、いいよね。確かに縄梯子って安定しなくて、難しいんですな。登るのは簡単ではない。下るのも。
p232
私は結婚前も、結婚してからも、悪いとは想うのだけれど、あなたとの間に本物の性的な快感を持つことが出来ませんでした。
これ妻から言われたくないセリフ、トップ3に入るんじゃないかしら。これはきつい。言われたら立ち直れないかもしれない。
p232
あなたに抱かれることは素敵だった けれど、でも私がそのときに感じるのはすごく漠然とした、まるで他人ごとのように さえ思える遠い感覚だけでした。それはあなたのせいではまったくありません。私が うまく感じることができなかったのは、純粋に私の側の責任です。私の中につっかえ のようなものがあって、それが私の性感をいつも入口で押し止めていたのです。でも その男の人との交わりによって、どういう理由でかはわからないけれど、そのつっかえが突然取れてしまうと、私には自分がいったいこれからどうすればいいのかわから なくなってしまったのです。
いや、これきついよ。
読んでて、気持ち悪くなる。「そんなこと言わないで」と泣きたくなる。村上春樹もここは書いていて辛かったんじゃないかな。楽しかったかな。作家としては楽しいだろうな。
下巻
p13
前からずっとねじまき鳥さんに手紙を書こう書こうと思っていたのだけれど、実は れじまき鳥さんの本当の名前がどうしても思いだせなくて、それでついつい書きそび れていたのです。だって世田谷区***2丁目「ねじまき鳥様」じゃ、いくら親切な 郵便やさんだって手紙は届けてくれないものね。たしか最初に会ったときにねじまき 鳥さんは私にちゃんと名前を教えてくれたはずなんだけれど、それがどんな名前だっ たかすっかり忘れてしまっていたの(だってオカダ・トオルなんて二、三回雨が降っ たらもう忘れちゃうような名前だものね)。でもこのあいだ突然、ちょっとしたきっ かけがあってはっとそれを思いだしたのです。
人を興味で殺そうとした女性が、急にこんな子供っぽい手紙を書く。その落差がまず受け止められません。いくらなんでも、やっていいことと悪いことって区別がつくでしょ。笠原メイ怖い。
p55
「名前はないんですね?」
女は初めて微笑んだ。それから静かに首を振った。「だってあなたに必要なのはお 金でしょう。お金には名前なんてあるかしら?」
僕も同じように首を振った。もちろん金には名前はない。もし金に名前があったな ら、それは既に金ではない。金というものを真に意味づけるのは、その暗い夜のよう な無名性であり、息をのむばかりに圧倒的な互換性なのだ。
彼女はベンチから立ち上がった。「四時に来られるわね?」 「そうすればお金が手にはいるんですか?」 「どうでしょうね」、微笑みは風紋のように彼女の目のわきに漂っていた。女はまわ りの風景をもう一度眺め、スカートの裾を形式的に手で払った。
息を呑むばかりに圧倒的な互換性、スカートの裾を形式的に手で払う、どちらも文学的。芸術的。時折こういう表現をするから困る。圧倒的にヘンな人格が村上さんの中に潜んでいるように思えて仕方ない。
p162
船客の何人かは緊張から説かれてその場に座り込んで声を上げて泣いたが、大部分の人々は泣くことも出来なかった。彼らはそれから何時間も、あるものは何日も、完全な放心状態に陥っていた。彼らの肺や心臓や背骨や脳味噌や子宮に鋭く突き刺さった長く歪んだ悪夢の棘は、いつまでもそこから抜け落ちなかった。
圧倒的な悪意や暴力を目の前にすると、人間ってそうなるよね。これは体験した人にしかわからない。村上さんも体験したのだろうか。
p253
そしてひとつのこぶりの部屋を仮縫いのための部屋にあてた。顧客たちはその仮縫い部屋に通され、ソファーの上でナツメグに「仮縫いされる」ことになった。
謎の仮縫い。なにこれ。オカダトオルにとってはアザを舐められることのようだけど。金持ちのマダムに限ってやりたいこと、ってなんだ?性的なことと無縁ではなかろうが、とはいえ直接性的なこととも考えにくい。なんなの?
p267
つまり私に はあざのないねじまき鳥さんで十分なんだ、ということかしら……。でもきっとこれ だけじゃ何のことだかわからないわよね。 ねえねじまき鳥さん、私はこう思います。そのあざはあなたに何か大事なものを与えてくれるかもしれない。でもそれは何かをあなたからうばっているはずです。見返りみたいにね。
おい、笠原。なんのことだかさっぱりわからん。どういうことだ?
p321
君は僕にすべてを忘れてほしいと言う。自分のことはもう放っておいてもらいたいと言う。でも、それと同時に君はこの世界のどこかから僕に向かって助けを求めている。それは、とても小さな遠い声だけれど、静かな夜には僕はその声をはっきりと聞き取ることができる。それは間違いなく君の声だ。
ストーカーの発想ですよね。あかんやつ。いや、最後の最後まで、この主人公の行動が意味不明なんですよ。正しいことをしているという信念しか感じないというか。客観性とかがまるで無い。本当の悪意は彼なんじゃなかろうか。
p335
いずれにせよ当時の帝国陸軍の将官で、石原ほど兵問題に強い関心を持ち、また造詣の深い人物はいなかった。たいていの軍人は兵站そのものを「女々しい」発想 として捉え、たとえ整備は足りずとも身を捨てて果敢に戦うことが陛下の軍人の道で あり、貧弱な装備と少ない人員で強力な相手に向かい、戦果をおさめることが真の武勲であると考えていた。「兵站の追いつかないほどの速さで」敵を駆逐して前進するのが名誉と見做されていた。優秀なテクノクラートである綿谷ノボルの伯父からすれば、そんな馬鹿げた考えはない。兵站の裏付けなしに長期的な戦争を始めるのは自殺 行為に等しい。
かといって、急に兵站の話をしたり。そしてここでも綿谷ノボルの伯父の正しさが強調される。やっぱり間違っているのはオカダトオルでは?
p337
彼はいつものように 「客」を運んでくる。僕と「客」たちはこの顔のあざによって結びついている。僕は このあざによって、シナモンの祖父(ナッメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは 満州蒙古の国境における特殊任務で結びついて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの人の家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。
なにかつながっているようでいて、実は何もつながっていないようにしか考えられない。被害妄想、誇大妄想ではなかろうか。客観的に間宮中尉とオカダトオルの井戸の底が継っているわけがあるか?
p407
シナモンは僕と綿谷ノボルの会話をモニターしていたに違いない。また何日か前の 僕とクミコの会話も、同じようにモニターしていただろう。おそらくそのコンピュー ターに起こったことで彼の知らないことはないのだろう。そしてシナモンは僕が綿谷 ノボルとの会話を終えるのを待って、「ねじまき鳥クロニクル」という物語を僕の前 に示したのだ。それが偶然やその場の思いつきでないことは明らかだ。シナモンはは っきりとした目的を持って機械を操作し、その物語のひとつを僕に見せようとした。 また同時にそこに長大な物語群が存在する可能性を僕に示唆した。
そうかもしれない。あるいはまったくそうでないかもしれない。なんて。詭弁。そして誇大妄想。シナモンはなぜその物語をオカダトオルの前に示したのか。動機がわからない。あざとか野球のバットとか、なんなんだ?繋がっているように思うのは我々読み手の陶酔ではないのか。
p553
完璧なスイングだった。
そして「やるべきこととして」男をバットで殴り殺すんですな。完全に発想がイかれてる。違いますか?