確かに献身なんですよ。最後、石神も泣いたしあたくしも泣いた。
p268
「微分積分なんて一体何の役に立つんだよ――以前、森岡が発した質問を石神は思い出した。オートレースを例に出して、その必要性を説明したが、果たして理解できたかどうかは怪しい。
だがあんな質問をしてきた森岡の姿勢が、石神は嫌いではなかった。なぜこんな勉強をするのか、という疑問を持つのは当然のことだ。その疑問が解消されるところから、取り組む目的が生まれる。数学の本質を理解する道にも繋がる。
今なら何となく答えられます。なぜ微分積分が必要なのか。
でも、それが森岡に届くかどうか。
p269
石神は立ち上がった。深呼吸をひとつした。 「全員、問題を解くのはそこまででいい」教室を見回して彼はいった。「残りの時間は、 答案用紙の裏に、今の自分の考えを書くように」
生徒たちの顔に戸惑いの色が浮かんだ。教室内がざわついた。自分の考えって何だよ、 という呟きが聞こえた。 「数学に対する自分の気持ちだ。数学に関することなら何を書いてもいい」さらに彼は 付け加えた。「その内容も採点の対象とする」
途端に生徒たちの顔がぱっと明るくなった。 「点数くれるの? 何点?」男子生徒が訊いた。
結構ここのシーン好きでね。最後のほうに回想か何かで絡んでくるのかな、と思ったけど、来ませんでした。ここでおしまい。
何か気色ばむような回答が生徒から寄せられるかと思ったけどね。そこは生かさなかったんだな。
p383
石神は部屋で一本のロープを手にしていた。それをかける場所を探していた。アパートの部屋というのは、案外そういう場所がない。結局柱に太い釘を打 った。そこへ輪にしたロープをかけ、体重をかけても平気かどうかを確認した。柱はみしりと音をたてたが、釘が曲がることも、ロープが切れることもなかった。 思い残すことなど何ひとつなかった。死ぬことに理由などない。ただ生きていく理由もないだけのことだ。 台に上がり、首をロープに通そうとしたその時、ドアのチャイムが鳴った。 運命のチャイムだった。 それを無視しなかったのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。ドアの外にいる 誰かは、何か急用があって訪ねてきたのかもしれない。
ドアを開けると二人の女性が立っていた。親子のようだった。
隣に越してきた者だと母親らしき女性が挨拶した。娘も横で頭を下げてきた。二人を見た時、石神の身体を何かが貫いた。
何という奇麗な目をした母娘だろうと思った。それまで彼は、何かの美しさに見とれたり、感動したことがなかった。芸術の意味もわからなかった。だがこの瞬間、すべて 神を理解した。数学の問題が解かれる美しさと本質的には同じだと気づいた。
くだらないとは思うけど、そういう瞬間を経験するために、あたくしたちは生きているのかもしれませんね。ちょっと動機としては陳腐ですけど。
彼女たちがどんな挨拶を述べたのか、石神はろくに覚えていない。だが二人が彼を見つめる目の動き、瞬きする様子などは、今もくっきりと記憶に焼き付いている。
花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。二人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。世界という座標に、靖子と美里という二つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。
日曜日は至福の時だった。窓を開けていれば、二人の話し声が聞こえてくるのだ。内容までは聞き取れない。しかし風に乗って入ってくるかすかな声は、石神にとって最高の音楽だった。
彼女たちとどうにかなろうという欲望は全くなかった。自分が手を出してはいけない ものだと思ってきた。それと同時に彼は気づいた。数学も同じなのだ。崇高なるものに は、関われるだけでも幸せなのだ。名声を得ようとすることは、尊厳を傷つけることに なる。
このオタクの低い自己肯定感とか、突き詰めた考え方とか、とても好きですね。
オタクあるあるかもしれないけど、本当にこういう風に考える時があります。ゼロか百しかないんですよ、我々には。
「君にひとつだけいっておきたいことがある」湯川はいった。
なんだ、というように石神が彼を見返した。
「その頭脳を……その素晴らしい頭脳を、そんなことに使わねばならなかったのは、とても残念だ。非常に悲しい。この世に二人といない、僕の好敵手を永遠に失ったことも」
石神は口を真一文字に結び、目を伏せた。何かに耐えているようだった。
ここもいいですね。バドミントン部のエースから好敵手と指名されるオタク。いいじゃないですか。
そして最後の嗚咽のシーン。ここも涙なくて読めないところ。すきだなー。