村上龍の代表作だそうで。
1972年夏、キクとハシはコインロッカーで生まれた。母親を探して九州の孤島から消えたハシを追い、東京へとやって来たキクは、鰐のガリバーと暮らすアネモネに出会う。キクは小笠原の深海に眠るダチュラの力で街を破壊し、絶対の解放を希求する。毒薬のようで清々(すがすが)しい衝撃の現代文学の傑作
とにかく不快感にまみれた世界観。暴力・ドラッグ・セックス・ミュージック。著作に通底する作者の世界観みたいなのと相容れないと評価できないでしょう。
あたくしもそんなに好きじゃない人間のひとり。
疾走感も描写力もずば抜けているのは間違いなくて、合う人にはこれくらい楽しい本はないだろうなと素直に作品のレベルの高さを認める一方で、あまり肌には合わないというのは本音ですね。暴力もドラッグもセックスもミュージックも、それほど目にせず気にせず耳にせず恵まれず、だから本ばっかり読んでるんですよ、こちとら。
p83
「いやあ、ごめんごめん遅くなっちゃった」
戻って来た運転手を見てアネモネは叫び声を上げそうになった。顔とシャツが血塗 れだったのである。
「意外とあっけないもんですね、人間の肉って柔かいんだなあ、驚きました、金はあるよ、早く逃げよう」
運転手は震え声で言うと、車を舗道に乗り上げ強引に反転して渋滞を縦に抜けようとした。アネモネは声を出そうと思ったがだめだった。どうしていいのかわからなかった。体中に鳥肌が立って寒気が走り頭だけが熱かった。こんなことやってたら馬肉が腐ってしまう、そう思うと怒りが込み上げて来た。
運転手も運転手なら、アネモネもアネモネだ。
運転手は見るからに狂ってるけど、この状況で馬肉の心配をするアネモネも重症であります。
ちなみに順序が逆なのはわかっていて言うけど、アネモネがどーしても脳内でエウレカセブンのキャラクターで再生されてしまう。
多分モデルなんでしょうけどね、性格もどことなく似ている。
p79
坂の下に薬島と俗称される一画が見えてきた。薬島は毒物汚染地域である。五年前 に突然この区域で小動物や鳥が死に始めた。調査の結果、土壌に塩素系の強い毒物が 発見された。皮膚に付着すると痙瘡を引き起こし、体内に入ると肝臓や神経をやられ 妊婦にとっては流産や奇形児出産の恐れがある有毒な化学物質である、とだけ発表さ れた。なぜ土に混じっていたのか原因は明らかにされなかった。近辺に化学工場がな いので、運搬中の車から洩れたか、不法投棄されたか、建築工事の衝撃や地熱で特殊 な化学変化を起こしたか、いずれかだろうと言われている。特殊な毒物は水に溶け ず、熱処理も不能で微生物も分解できない。衛生局は住民に多額の保障を与えて退去 移転させ、汚染地区を閉鎖した。コンクリートで固め周囲に鉄条網を張り陸上自衛隊 が警備をした。
都内一等地にこんな危険な場所があるという世界観。馴染めませんが、このほんの世界観にはうってつけ。どうしようもなく、危険が必要なんでしょうね、物語を紡ぐのに。
ホテルの番頭が、タツオのすぐ横で、「やむを得ないな」と呟いた。タツオは、「え?やむを得ないんですか?」と確かめた。番頭 は、当り前じゃないか、と言って電話の前に走った。タツオは狂喜した。ついに、「やむを得ない場合」が訪れたのである。拳銃を取りに宿舎に戻り大急ぎでホテルの 宴会場に引き返した。宴会場のドアを足で蹴り、叫んだ。「みんな、手を上げろ!」 乱闘は終わってみんなは後片付けをしていた。泥酔して暴れていた男達は警官の前で 頭を掻きながら水を飲んでいた。しかし興奮したタツオは引き金を引いてしまった。 三発。一発が、ガラスの破片を掃いていた女中の肩に当たった。
たしか『五分後の世界』にも出てきますよね、タツオ。
ちょっとオツムが足りない感じだけど、どこか憎めない。
上記の間違いなんかまさに与太郎。
コメディだがリリーフではない、むしろ混沌の先導者という感じ。
p215
これからはおしゃれしなきゃだめよ、おしゃれしなさい、車の中でニヴァはそう話 しかけた。ハシはハンドルを握るニヴァの手の甲が別な人間のもののように皺が多い ので気になって仕方がなかった。おしゃれしなきゃだめよ、おしゃれは世界で一番空 しい遊びなんだから、だから楽しいのよ、洋服や化粧は何のためにあるか知ってる? 脱がされて裸にされるためにあるのよ、見る人にね自分のあそこを想像させるために あるの、裸にされてぶたれて顔に水をかけられて犬みたいに這わされてしまうと、全 てゼロ、だからいいのよ、そう言ってニヴァは初めて笑った。
ニヴァの枯れた感じ、好きだな。
「だからいいのよ」ってセリフが似合う、退廃的な女性。素敵だね。
手の甲に皺が多い感じとか、村上龍は本当に意地悪なくらいよく見ている。観察眼には舌を巻く以外にないですね。
しかし、文字をギュウギュウに詰め込んで命令口調やら独り言やらを散文的に書くの、すごいビートを生み出しますね。音楽が好きなんだろうな、ってのはよくわかる。
p220
ニヴァは聞いていて鳥肌が立った。ハシの歌声は動物の細い毛で編んだ薄い膜の彼 方から届くような音、それは流れるのではなく店内に立ち込める。弱々しいはずの音 の波は消えずに肌に貼り付く。耳からではなく毛穴から侵入して血に混じっていくよ うだ。空気の揺れは止むことなく溜まり次第に密度が濃くなっていく。ニヴァは粘つくジャムのような店内の空気が自分の中で何かを思い出させようとするのを拒もうとした。消そうと努力したが、ある情景が頭に浮かんだ。浮かび上がるというより、一 つの記憶に繋がる神経の回路に引きずり込まれた感じだ。突然目の前で始まった映画 の中へ引っ張り込まれた気がした。それは夕暮れの町の情景だった。空の稜線だけが オレンジ色で残りは全て暗い青に沈んでいく中を電車が走っていく情景である。ニヴ ァは頭を振って店内を見回した。全員が動かない。ピアニストは手で顔を被って体を 震わせている。止めさせなければならない、とニヴァは思った。
『蜜蜂と遠雷』のときも思いましたけど、音楽を文章で書くとき、やたらと風景を描写したがるのなんでしょうね。しかし、村上ドラゴンのはすごい。イリュージョンの描写が卓越しすぎてて、飲み込まれます。筆に力がある人の描写はここまで想像力をかきたてるのか。
ハシはタツオと会っていやな気分になった理由を考えていた。ブラウン管の鏡に映 った自分が塗り換えた記憶は過去の知り合いに会うと崩れそうになる。丹念に築き上げた、屈辱感のない新しい意味に満ちた思い出は過去を知る生きた人間に出会うと簡単に壊れる。ハシはそう思ってゾッとした。あいつらみな死ねばいいんだ、と思った。前歯のないタツオの顔が浮かんできた。
過去を消したがるハシ。
なんだか悲しいね。しかし、そういう人間臭い感情を「丹念に築き上げた、屈辱感のない新しい意味に満ちた思い出は過去を知る生きた人間に出会うと簡単に壊れる」なんて書けちゃうの、かっこいいなぁ。
p361
個々の演奏家に関してハシが提出した条件は、金に困ってないこと、ホモセクシュアルであること、の二つだった。理由は何や? Dは聞いたがハシは答えなかった。 ハシを好きになって欲しいからだろう、とニヴァは思った。金目当てで参加する若い 演奏家はハシと衝突するかも知れない。ハシの音楽観は独特だからレコーディングで も反発する演奏家が多い。ハシは人間の感情を音で表現できるなどと信じていなかっ た。感情そのものが嫌いだった。音を独立させてくれ、ハシはいつも演奏家にそう注意した。君自身から音を切り離すように、裸の音を鳴らしてくれ、君の体温や匂いが 1 ついてない音だ。金に困っていない演奏家ならハシの音楽に共鳴する者だけが集まるだろう。そして彼がホモセクシュアルだったら、ハシを嫌いになることは絶対にな のい。ハシはホモを支配する技術を熟知している。
人間の感情を音で表現できるなどと信じていない、というのは村上ドラゴンの主観でしょうか。そんな感じはしない。そういう人間をバカにしてこういう表現をしているんでしょうか。
ドラゴン自身はすごく音楽というものを愛していて、人の感情をかきたてるものだと思っているのは間違いない。しかし、人の感情を音で表現できる、ということについては懐疑的なのかどうなのか。興味はありますね。
しかしこの、ホモへの憧憬はなんでしょうか。別に普通の人間なだけだと思うけど。特別視しすぎで逆に不安定。サイドストーリーが秀逸。
p378
冷たい刃に触れると火傷の痛みが薄れた。小さい頃乳児院でシスターに読んで貰った童話に舌を切られる雀の話があった。おばあさんが雀の舌を切 るのだ。確か雀は後で復讐するのだが、どんな方法だったのか、短い間それを思い出そうとしたがだめだった。顎の震えを止めようとする。なかなか止まらない。刃の上で舌の先端がピクピク動いている。舌が静止した一瞬ハシは鋏を思い切り閉じた。刃 の上をヌルヌルした柔い肉が滑りすぐに血が噴き出した。ハシはガーゼを口に突っ込 んだ。痛みよりも血の量が多くてそれが恐かった。体中が震えだした。次から次にガ ーゼを口に押し込む。詰め込み過ぎて息ができなくなった。よろよろと立ち上がり真赤になったガーゼを吐きだす。アロエを噛み砕いて舌先に当てるが血は止まらない。 床に鋏が転がっている。舌の切れ端が刃の上にある。ハシは舌を切られた雀がどうやって復讐したか思い出した。 化物を詰めた箱をおばあさんにプレゼントするのだ。ハシは血が止まるまで口をガーゼで押さえてその場に立っていた。その間ずっと考えていた。化物を詰めた箱を誰にプレゼントしてやろうか、そのことをずっと考えていた。
ハシが舌をきって声の変質および己のメタモルフォーゼを期する場面。
こわいよ、迫りすぎてて。行動の恐ろしさと自覚の幼稚さがいいコントラストになっていて素敵。
あなたを待てば雨が降る、濡れて来ぬかと気にかかる、ああビルのほとりのティー ルーム、雨も愛しや歌ってる甘いブルース、挑発的な尻の隙間から熱い汁を垂らした 女が日当りのいい部屋でタイプライターを打ってるのを、縛られたまま眺めている気 分になる、戦時下のロンドンでVロケットの猛爆に会いながら盲人のピアニストが弾く甘ったるい夜想曲みたいなものかって? その通りだ、爆撃に似たリズム隊の彼方 からハシのノクターンが耳に届くとかすかな恐怖が芽生える、恐怖だ、爆撃が地下の 退避壕に及ぶかも知れないという恐怖ではない、その逆、Vロケットの閃光を見たく て叫びをあげ外に飛び出してしまうのではないかという恐怖だ、自分は何かとんでもないことをこれからやろうとするのではないか、例えば隣に坐っている少女を殺して 犯すのではないか、座席に火をつけやしないか、そんなザワザワとした恐怖が頭 で騒ぎ始める、ハシはそんな時を逃さず最初のアクションを起こす、ギターのフィードバックより鋭い叫び声をあげる、
こういうのを格好いいと思う人もいるでしょう。あたくしはその手のタイプではないというだけ。ただ力があるのはわかる。ジョニー・ウィンターが上手いのはわかるけど好きじゃないというのと同じ。
有楽町で逢いましょうからはじまって、『戦時下のロンドンでVロケットの猛爆に会いながら盲人のピアニストが弾く甘ったるい夜想曲みたいなものかって? その通りだ、』とくる。なんのことやねん。さっぱりだ。しかし、圧倒的だ。
p488
答えてよ、ねえ、大事なことなんだよ、答えてくれよ、僕はみんなの役に立ってるだろうか、みんな僕の せいで幸福になってくれているだろうか、僕が願ってるのは、それだけなんだ、あと は何も要らない、D、本当に僕が欲しいのはそれだけだよ、みんなが楽しそうに笑う ことだけなんだ
翻訳された歌詞みたいだ。
村上ドラゴンにとって「自分は人の役に立っているか」という疑問がいかに切実なものかがわかります。
確か『五分後の世界』にもあったんじゃなかったかな、己の有用性を確認するシーン。よっぽど根底にある疑問なんでしょうね。