小説の神様と言われるくらい美文なのは納得。
位置: 5,494
二月、三月、四月、──四月に 入ると花が咲くように京都の町々全体が咲き賑わった。祇園の夜桜、 嵯峨 の桜、その次に御室の八重桜が咲いた。そして、やがて 都踊、 島原 の 道中、 壬生狂言の興行、そう云う年中行事も一ト通り済み、祇園に 繫 ぎ 団子 の赤い 提灯 が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した 楠 の若葉がもくりもくり 八坂 の塔や清水の塔の後ろに浮き上って眺められる頃になると、さすがに京都の町々も遊び疲れた後の落ちつきを見せて来る。
美しいですね。もくりもくり、なんてオノマトペは普通は使えませんよ。
日本人は京都が好きだ。
位置: 6,067
どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命と云うものが、自分に対し、そう云うものだとならば、そのように自分も考えよう。 勿論 子を失う者は自分ばかりではない、その子が丹毒で永く苦しんで死ぬと云うのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、それは分っているが、ただ、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、新しいもっと明るい生活に 転生 しようと願い、その 曙光 を見たと思った出鼻に、 初児の誕生と云う、喜びであるべき事を逆にとって、又、自分を苦しめて来る、そこに彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。 僻みだ、そう 想い直して見ても、彼は尚そんな気持から脱けきれなかった。
霊雲院は衣笠村からそう遠くなかったから、謙作はよく歩いてお参りをして来た。
悲しいときは存分に悲しみに浸ると良い。
そんな気持ちにさせてくれますね。時任謙作は己への同情が強くて感情移入しやすい。好きなタイプですね。鬱陶しいだろうけど。
位置: 6,294
謙作は何となく不愉快だった。直子の 従兄 が、来て泊る事に不思議はないようなものの、自分の留守に三日も泊り、その上、自身の友達を呼んで夜明しで花をしたというのは余りに遠慮のない失敬な奴等だと思った。又、直子も直子だと思った。
僅か十日間ではあるが、結婚してこれが初めての旅だった。彼は直子がその間、淋しさに堪えられないだろうと思い、敦賀行きを勧めた位で、自分も朝鮮でそう気楽にしている事が直子に済まない気がし、かつ自身も早く帰りたく、彼は直子に会う事にかなり予期を持って帰って来たのだ。然し会った最初から、何か、直子の気持がピタリと来ない事が感ぜられ、それに水谷の出ていた事がちょっと彼を不機嫌にすると、それが直ぐ直子にも反射した為か、直子の気持も態度も変にぎごちない風で、不愉快だった。
物語の重要なところですよ。謙作がたまには鋭いところをみせる。
他人の非常識を咎めるというのはなかなか骨が折れるところ。特に親族だしね。
位置: 6,471
要は「 亀 と 鼈」という遊びをしようと云い、直子に 赤間関 の 円 硯 を出して来さし、その遊びを二人に教えた。位置: 6,479
この遊びは下男から教えられた。そして、その卑猥な意味は要だけには幾らか分っていたが、直子には何の事か全く分らなかった。
この「亀とスッポン」という遊び、何が卑猥なのかさっぱりわからないのですが、とにかく卑猥らしい。何も知らない直子はそのままされるがまま。
位置: 6,526
「悪い事はしない。決してしない。頭が変で、どうにもならないんだ」これを繰返した。
こう云う争いを二人は暫く続けていたが、仕舞いに直子は自分の身体から全く力が脱け去った事を感じた。それから理性さえ。
直子は静かに二階を降りて来た。仙に 覚られる事が恐ろしかった。そして、床に 就いたが、いつまでも眠られなかった。
なかなか衝撃的なシーンですよ。実際にそういうことにあうと、力や理性がぬける感じなのでしょうか。宮本から君へ、という漫画にそういうシーンが出てくるのですが、何だかそれを思い出しましたね。
位置: 6,601
謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。然し過去の数々の事を考えると、多くが結局一人 角力 になるところを想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。
あたくしもよく一人角力するので、何だか分かる気がする。
最大の敵は自分の性ですからね。常に。
位置: 6,660
末松は 少時 黙った。それから又こんな事を云った。「よくは分らないが、そういう事は十中の七八は疑心暗鬼を作っている場合が多いらしいな。そんな事ではないのかね」
「疑心暗鬼ではない。然し事件としては何もかも済んでいて、迷う所は少しもないのだ。ただ、僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいるんだ。それだけなんだ。それは時の問題かも知れない。時が自然に僕の気持をそこまで持って行ってくれる、それまでは駄目なのかも知れないんだ。が、とにかく今は苦しい」
「…………」
「然し一方ではこうも思っている。今直ぐ徹底的に僕が平和な気持になろうと望むのは 却って、自他共に虚偽を作り出す事だとも。その意味で、取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが 本 統 だと云う考えもあるんだ」 「…………」
時間が解決するのを待つしか無い。苦しみながら。それしか長い目で見たときの解決方法はないってことだ。何もしないのではない、苦しみながら耐え抜く。それだけで十分辛い。
悩むときはそんなことを、思い出しますね。謙作、頑張れ。