筒井康隆著『狂気の沙汰も金次第』感想 文筆家の無法さ

このコンプライアンスの時代に、最後までインモラルでいていい仕事は作家だけじゃなかろうか。

言語道断、歩行者横断、脳に鉢巻、鉄火巻!
ギャグてんこ盛り。痛快エッセイ集!!

確固とした日常に支えられたこの地平を超えて遙か向うを眺めれば、果しなく自由で華麗なる狂気の世界が拡がる――著者は、あたかもささやかな身辺雑記を綴るかのごとく筆を進めながら、実はあなたをアイロニカルな現代批評と潜在的狂気の発掘へと導いてくれるのです。
随筆のパロディとも言えるユニークなエッセイ118編は、山藤章二の傑作イラストとコンビを組んでいます。

芸人すらもコンプライアンスを守れといわれる時代。もはや文筆家くらいしかインモラルでも良い人種は居ないのではないか。

これは偏に、文字を読める程度にリテラシーの高い人はコンプライアンスを守れと言わないから……なんてね。

煙草

位置: 233
常識を基礎とした分析は堂堂めぐりであり、なまぬるく、 虫酸 が走り、もぐらもち的であり、しかもなめくじ的である。いやらしいことこの上もない。

とはいえ、いうほど筒井さんは非常識的でもないけど。ただ、常識への懐疑心は常にある御方のようだ。

受胎

位置: 464
もじもじはずかしがって受胎を告げる妻の、お前もオーバーに喜べといわんばかりのいやらしさに気がつかず、オーバーに喜ぶ男は、女にのせられているのだ。

これは、あるかもしれない。「父としてどんなもんか」を計られている気持ち悪さはある。あたくしは苦にせず喜べたタイプで良かった。

ヒロイン

位置: 603
若い組合員たちは酔った勢いで、ついに学校から帰ってきたヒロインをつかまえて輪姦してしまう。ヒロインはその夜、自室で首を 吊って死んでしまう。  いかがであろう。どこかの少女雑誌から、この話を書いてくれといって原稿依頼にこないだろうか。ま、こないだろうなあ。

来ないよねぇ。こういうこと、書いても平気なのは、もう文筆家だけじゃなかろうか。もちろん、有料の媒体だけだけどね。

痰壺

位置: 1,014
痰壺の中味のうまさは、すでに小説に二、三度書いているが、もう一度ここで紹介しておこう。まず、老人の白眼を思わせるどろどろと濁った青痰がすばらしい。最初はちゅるちゅると、透明感のある塩味のきいた液体がのどを通る。それからずるりっ、と、生ガキのような感触の青痰が、ひとかたまりになってのどを通り抜けるのである。甘ったるいような、辛いような、 酸っぱいような、鉄 錆びの味に似た独特のうまさである。

こ、これは……生牡蠣も名誉毀損で訴えて良い。

信用

位置: 1,817
いずれも救い難いほどのでたらめなことばである。特に「信用組合」「信用金庫」などという組織など、まったく信用できない気分になる。信用できる経済用語は「信用恐慌」ということばだけだ。これは信用取引が決済不能になることで、手形は不払いになるわ、破産は起るわ、銀行はつぶれるわ、紙幣は使えなくなるわといった、ぼくにいわせれば、信用しすぎたために起ったいちばんまともな状態を指すことばだからである。

こういうこと言うの、昔は作家だったんだろうな。今はYouTuberなのかな。ひろゆきとか、こういうスタンスで捉えられているのかな。ガーシーとか、立花孝志とか。

ちょっと筒井さんってアナーキスト的なところあるかも。

悪食

位置: 2,292
ところが食糧が豊富になっても父の悪食はおさまらない。それどころか同好の仲間を集めて次第にエスカレートした。台湾ハブ、ナメクジ、毛虫、セミ、タヌキといったものを次つぎに食べ、評判になった。そんなものがうまいわけはないので、当時新しく自然科学博物館ができ、そこの館長におさまったばかりだったから、その宣伝とか売名とかの意図もあったのだろう。テレビにも出た。
「なぜ悪食をなさるのですか」
そんなアナウンサーの質問に、父は答えた。「わたしたちが悪食しているのではない。世間の人が偏食しているのです」

父も父だ。切り返し方に遺伝を感じる。

喧嘩

位置: 2,326
ぼくは口喧嘩が下手だ。 厭味、悪口、雑言を投げつけられても、ある種の女性たちのようにそれ以上の鋭いことばでお返しをする、ということができないのである。まず最初に、 茫然 としてしまうのである。なぜこいつはぼくに悪意をもっているのか、ぼくのどこがこの男の気にさわったのだろうか、と、そんなことを考えているうちに相手は、言いたいだけのことを言ってしまい、あっちへ行ってしまうとか、他に人がいる座談の席上だと話をそらせたりする。つまりこっちが、悪口を言い返す機会を逃がしてしまうわけである。言い返したところで口下手だから、女同士の喧嘩みたいにうまくは言い返せないに決っている。

ちょっと分かるんだよな。上手く当意即妙な形で答えが出てこないんだよな。ただ、言いたいだけのことを言ってしまわせる、ってのは一つの手かもしれませんね。

機会を逃して、後から「言い換えしてやればよかった」とか思う。ただ血が登った頭で言い換えしても良いことにならないのは知ってるから、その場で何も言えなくなるんだな。

禁忌

位置: 2,503
飛行機事故があって大量の死者が出ると、どの新聞もどの新聞も遺族の悲しみを大きく報道し、まるで新聞社までが遺族の一部ででもあるかのように、涙びたりのおろおろ声で航空会社を責める。なぜ、ひとつぐらい、ぼくが前からあちこちに書いているような「飛行機は落ちてあたり前。飛んでいる方がおかしい。乗る人は決死の覚悟で乗れ」といったようなことを書かないのか。それがふざけすぎているというなら、空港周辺の住民で騒音に悩まされ、ふだんから「どうしてそんなにいそいで飛行機に乗る必要があるのか」という疑問を持っている人はいくらでもいるわけで、なぜそういう人たちの「いい気味だ」という本音をひとことでも取材しようという気にならないのだろうか。「遺族の立場になって考えろ」と言われそうだが、ぼくだって遺族の立場になれば悲しみで 動顛 し、正気を失い、そんな記事が出れば怒るだろう。だからといって新聞までが動顛し、正気を失うことはない。
法律で禁じることがはばかられるようなことを、暗黙のうちに社会の制約として国民に課する、いわゆる 禁忌 の多い国ほど未開の国である。日本には、こういったその時その時の言論の禁忌以外に、ご存じ天皇禁忌その他の禁忌がたくさんある。

鋭いなぁ。いい気味だ、とは思わないけど、ただ実際そういうところはあるよね。「だからって新聞までが動揺することはない」というのはまさにその通り。

悪口

位置: 2,903
他人の悪口を楽しく喋りあうためには一種の技術がいる。ただ、その人間を 罵倒 しているだけではしらけてしまう。その人間がなぜそんなことをしたかということを心理分析し、当時の状況を解釈したり、時にはある架空の状況を設定し、もしその人物ならどうするかを想像したりして笑いころげたりするのだが、これはその人間に自己の一部を投影して類推しなければならない。つまりその悪口が上質であれば、その中には当然自己批判や、人間性に関する問題が含まれている 筈 なのである。他人の悪口を言って嫌われる人間には、こういった才能がなく、だから悪口を喋りあう仲間にも恵まれないのだろう。

悪口にもスキルが要る。そうなんだよな。カラッとした悪口というのはスッキリする。ドロドロのやつは後に残る。見立てが美味かったりするとなお面白い。

恐怖

位置: 3,002
昔は映画などを見ていて、怖い場面だと顔を伏せる女性がよくいたらしいが、最近ではそんな女性はあまりいないようだ。むしろ手術のシーンなどで、メスで腹の皮をすうっと裂くところで顔を伏せたりする。超現実的なものに対する原始的な恐怖がまったくなくなり、残るは生理的な 嫌悪 感だけになったということだろうか。
だからぼくも、「末期的だなあ」と自分で思いながらも、恐怖小説を依頼された時など、ついつい生理的嫌悪感に訴えかけるものを書いてしまう傾向がある。

あたくしがよくいう、「後ろからワッ」演出と近いかもしれない。脊髄反射で「そりゃびっくりするよね」ってやつ。生理的嫌悪も、「そりゃ観たくないよね」というやつでしょう。それを使うのは、「余命◯日」と同じでコックの腕を問わないものになってしまう。

位置: 3,013
なぜ、死刑を公開でやらないのかな、と思う。
死刑を見たいという人は、たくさんいる 筈 だ。
物好きなのではなく、人間は本来こういうものを見るのが好きなのである。  だいいち公開で死刑を執行した方が潜在的犯罪者に対するいましめにも、見せしめにもなるではないか。
今みたいに、死刑を国民の眼から隠すようにこそこそやったのでは、国民全体が、現在日本に死刑という制度があったのかどうか忘れてしまう。

死刑制度があるなら、確かに公開しても良いとは思いますね。「なんだって人の見ている前じゃ切れねぇんでい」という『たがや』のセリフじゃないけどさ。合法的に人の命を奪うなら、それをみたい欲にも寄り添ってよいかもしれない。

見たい人がいるなら、ね。

フロイト

位置: 3,228
フロイトにかぶれると、悪いことがふたつある。ひとつは、本人にフロイトかぶれであるという自覚がないこと、もうひとつは、人間心理の 奥義 を極め尽したような気になり、他人を 軽蔑 したり、人間を単純に考えてしまったりすることである。当時のぼくも、自分がフロイトにかぶれているだけとは夢にも思わず、マルクスにかぶれているやつを見て、ふんと鼻で笑い、内心軽蔑していたものである。実は同病者なのに。
今から考えれば、友人にとってあの頃のぼくは、おそらく非常にいやなやつであったろう。特定の科目の成績だけが悪い友人を見ると、「君はあの教師に父親を投影し、激しいエディプス・コンプレックスによって抵抗しているのだ」などと言い、喫茶店でコップを割った女子大生に「君には処女を失いたいという無意識的願望がある」などと言い、ぼくの名前を間違えてばかりいる友人に「ぼくを無視したい気持を抑圧しているからだ」などと言い、時間に遅れてきたやつに「来たくなかったんだろう」などと言い、妙な癖のあるやつに「 手淫 コンプレックスだ」などと言ったりしたのだから、まあ、嫌われて当然である。

心理学とかってその傾向あるように思いますね。あたくしも若い頃、そうなりかけた事がある。日常生活が破綻しつつあることに気付いてすぐ修正しましたけど。危ない危ない。

参観

位置: 3,504
教育パパなどという存在は誰が見ても滑稽である。よく仕事のできる男ほど、職場では、自分には妻も子供もいない、といった顔をして働いている。なぜかといえば家庭は男の弱味だからである。家庭を持っている男には責任感があるから信頼される、などというが、あれは 嘘 だ。弱味につけこまれているだけなのである。

自称教育パパとしては辛いところ。ま、仕事はそれほど出来ないから良いんだけどね。しかしSF作家ともあろう方が、パターナリズムを標榜するとは、世の中わからんもんだ。

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