読み返すと、むしろみぞれに苛ついてきました。
位置: 3,240
「希美にとってはなんでもなくても、私にとっては特別だったの。だから、」 そこで、みぞれは言葉を詰まらせた。光に濡れる瞳をゆがませ、彼女はふるりと首を横に振った。白色の光を放つ外灯が広場を照らし出している。ジジジ、とうなる虫の羽音が静寂のなかを泳いでいた。
「……ごめんなさい、本当はこんなこと言うつもりじゃなかった。私、希美に感謝してる。ただ、それを言いたかっただけ」位置: 3,249
「感謝されるようなことしてないよ。むしろみぞれは怒っていい。音大を受けるって言い出したのは私なのに」
「怒れない」
「どうして?」
「だって、希美の選択だから。私は、希美が幸せならそれでいい」
宵の口となり、夕日は山間の奥にその身を隠した。充満する夜の気配が、先ほどまでそこにあったはずの柔らかな赤を追いやる。紫とも青とも取れる、透き通った御空色。みぞれの短い黒髪が、光の加減によってその色を変えている。それは朝焼けに 凪ぐ湖面のような、穏やかで曖昧な美しさを持っていた。希美がくしゃりと破顔する。ぐっと短く鳴った喉が、その奥で感情を押し潰した。
「それ、みぞれに言われるの、なんかキツイ」
みぞれは、希美との「リズ」関係が逆転していることに気づかぬまま。
自分の一言が希美を追い込んでいることに無自覚。ちょっとひどくないですか。
希美も無自覚だったし、みぞれは未だに無自覚。
天才と凡才の違いのようで、理不尽ではあります。
ただ再三言いますが、才能があるないというのは「大騒ぎするほどのことじゃない」んですよ。これはあくまであたくしのスタンスですがね。
踏み出された一歩が、二人のあいだに存在していた距離を縮める。希美はその腕のなかに飛び込むと、みぞれの背中に腕を回した。ぎゅうっと力の込められた両腕は、ぬいぐるみを抱き締める幼子のようだ。
「私、希美がいなかったら、きっと楽器を吹いてなかった。なんにもなかった。だから、ありがとう。全部、希美のおかげ」
「うちはなんもしてへんって。みぞれが全部自分で頑張ったことやん」
「それでも。私は、希美のためにここまで吹いてきたから」
みぞれが瞼を閉じる。噛み締めるようにつぶやき、みぞれは希美の肩に額をうずめた。
「最初に会ったとき、優しくしてくれてうれしかった。私みたいなやつに声をかけてくれて、友達になってくれて。みんなを引っ張っていくところ、すごいなって思ってた」
「うちも、みぞれの努力家なところ尊敬してる。明後日のコンクール、ちゃんとみぞれの音を支えるから、うちが」
「私、希美のこと、大好き」
位置: 3,273
「ありがとう……私も、みぞれのオーボエ大好き」 優しい動きで、希美がみぞれの肩を押し戻す。みぞれは何も言わず、ただ黙ってうなずいた。
みぞれの暴力的なまでの真っ直ぐさ。嘘じゃないだけに希美には辛かろう。
「私も、みぞれのオーボエ大好き」って悲しいセリフ。みぞれのことじゃないんだ。精一杯紡ぎ出せた言葉だろうな。
「そろそろ行くわ。長居したら邪魔やろうし」
「もう行っちゃうんですね」 「何? 久美子ちゃんってばそんなにうちのことが恋しかったん?」
身をくねらせるあすかに、久美子は言葉を詰まらせた。そのとおりだった。 うつむく久美子に、あすかがふと口元を緩める。
「もー、しゃあないなぁ。じゃ、久美子ちゃんには特別、この魔法のチケットを授けよう」
ふざけた口調でそう言って、あすかは一枚の絵葉書を取り出した。一面にひまわりが咲き乱れている、美しい風景だ。
「ほんまに困ったら、一回だけ助けたげる」受け取った絵葉書を、久美子はそっと裏返す。そこには、見覚えのない住所があすかの文字で書き込まれていた。
夏紀はにやりとその口元をゆがめると、乱雑な手つきで奏の頭をなでた。何するんですか、と奏が唇をとがらせる。その反応に、夏紀は愉快そうに肩を揺らした。吊り目がちな両目が、やわらに細められる。「去年、うちはここにおらんかった。みんなを見守ることしかできんかった。だけど、今年はここにいる。そのことが、びっくりするほどうれしい」
「久美子ちゃん」
二人の会話に、緑輝が強引に割り入る。赤色のストローを唇に触れさせたまま、緑輝はにっこりと笑顔を浮かべた。
「入部してきたときね、求くん、親戚に吹奏楽関係者の人はいないって言ってた。だからね、それ以上のことを探る必要はないんとちゃうかなって緑は思う。求くんは求くん、緑たちの可愛い後輩。ただ、それだけのことなんやから」
よくよく考えれば、強豪校オタクである緑輝がその名の意味に気づいていないはずがなかった。それでも緑輝がそれを追及しなかったのは、ひとえに求が嫌がったからだろう。記憶をたどると、いまさらになって求に対する奏の挑発的な台詞の意味が理解できる。おそらく、奏も初めから求の秘密に気づいていた。だからこそ、求は苗字で呼ばれることを拒絶したのだ。
「……緑ってすごいね」
「何が?」
「そういうところが」
久美子の言葉に、緑輝が大きく腕を振った。跳ね上がる太ももが、アスファルトの地面を蹴る。
「ぜーんぜん! 緑は好き勝手してるだけやから」
カッコよすぎる、と真顔でつぶやく久美子に、麗奈が顔を逸らして噴き出した。
久美子の優柔不断さは副部長向きだと思います。
「私、いっぱい考えた。わかるって言われて、それで」
最初、久美子はその言葉の意味が理解できなかった。不自然に空いた間を埋めるように、みぞれが「合宿」と短くつぶやく。そのひと言で、ようやく久美子は合宿時にみぞれと交わしたやり取りを思い出した。
「あのときの、」
「うん。私、頑張ろうと思う」
「音大受験をですか?」
「それだけじゃなくて、音楽を。希美がいなくても、私、オーボエを続ける。音楽は、希美が私にくれたものだから」
だから、とみぞれが気恥ずかしそうに下を向いた。頬に刺さる前髪が、柔らかに緩んでいる。
「私、応援してます。みぞれ先輩のこと」
「……うん」
心臓が痛い。細い鎖と化した罪悪感が、久美子の良心を締め上げている。それでも、久美子は言わねばならない。秀一が不機嫌そうに眉をひそめた。彼には、その権利がある。
「最後の一年間、部長の仕事に専念したいの。私、優子先輩みたいに要領がよくないから、多分、いろんなことを同時にやったりはできない。だからね、秀一とは距離を置こうと思う」
恐ろしくて、顔を上げられない。砂まみれのスニーカーを凝視しながら、久美子は一気にまくし立てた。
「もしも一年後、部活がすべて終わって、それでも秀一が私と付き合ってやってもいいって思ってくれたら、そのときにもう一度それを渡してほしい。ほかの誰かにあげてほしくはないけど、もし秀一が私以外の子を好きになったとしても仕方ないと思う」
まぁ、秀一は待っちゃうよね。待っちゃうよ。惚れた女の頼みだもん。
ま、これが脳内じゃ流れちゃうけどね。
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