『虞美人草』感想2 何度目かの挑戦でようやく読破

しかし漱石の文章はやはり親しみやすい。格調は高いけど、親しみやすい。

位置: 1,618
甲野 さんと 宗近 君は、 三春行楽 の興尽きて東に帰る。 孤堂 先生と 小夜子 は、眠れる過去を振り起して東に行く。二個の別世界は八時発の夜汽車で 端 なくも喰い違った。

このプロローグ的な語り、最高ね。

位置: 2,024
観ずるものは見ず。昔しの人は 想 こそ 無上 なれと説いた。 逝く水は日夜を捨てざるを、いたずらに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今 載せて 杳然 と去るを思わぬが世の常である。

難しいけどリズミカルなので何となく受け止めちゃう。である調が似合うなぁ。

位置: 2,156
家は小野さんが孤堂先生のために周旋したに相違ない。しかし極めて下卑ている。小野さんは心のうちに厭な住居だと思った。どうせ家を持つならばと思った。 袖垣 に 辛夷 を添わせて、 松苔 を 葉蘭 の影に畳む上に、切り立ての 手拭 が春風に 揺らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。 「御蔭 さまで、好い 家 が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら 情けない。ある人に 奴鰻 を 奢ったら、御蔭様で始めて 旨い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を 軽蔑 したそうである。
いじらしい のと 見縊るのはある場合において一致する。

なるほど、そう説きますか。
しかし奴鰻というのは浅草の鰻屋のことですよね。公式HPでも自慢気に「漱石の虞美人草にもでた」と書いてますが、これ、明らかにけなされた文脈ですよね。

位置: 2,357
「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を 利かなくっちゃいけない」
口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。

これは現代的なテーマですね。日本で言うなら戦後的というか。目の中が熱くなりますね。

位置: 2,400
ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。

迷惑党、という言い方も近ごろはしないね。しかしいい響きだ。

位置: 2,450
謎 の女は自分の思う事を 他 に云わせる。手を 下しては落度になる。向うで 滑って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような 泥海 を知らぬ 間 に用意するばかりである。

漱石の女性観は相変わらずひねくれていて最高だね。

位置: 2,488
せる。二十世紀の禁物は 疾言 と 遽色 である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を 揃えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――

早口な物言いと、慌てた顔つき。これが疾言遽色であります。どちらも法に触れやすいとな。これはよくわからない。

位置: 2,632
「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」
裁縫 の手を 休めて、火熨に 逡巡 っていた糸子は、 入子菱 に 縢った指抜を 抽 いて、 鵇色 に 銀 の雨を刺す 針差 を裏に、 如鱗木 の塗美くしき 蓋 をはたと落した。やがて 日永 の窓に赤くなった 耳朶 のあたりを、 平手 で支えて、右の 肘 を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた 膝 を斜めに 崩した。 襦袢 の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく 滑って、くっきりと 普通 よりは明かなる肉の柱が、 蝶 と傾く 絹紐 の下に 鮮 かである。

このあたりの動作描写の細かさね。恐ろしい想像力。そして物が多い。どんどんものが少なくなる現代において、これほどの描写は必要なくなっているかもね。

位置: 2,697
蟻 は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は劇烈なる 生存 のうちに 無聊 をかこつ。立ちながら三度の食につくの 忙 きに 堪えて、路上に 昏睡 の病を 憂う。生を縦横に託して、縦横に死を 貪るは文明の民である。文明の民ほど自己の活動を誇るものなく、文明の民ほど自己の沈滞に苦しむものはない。文明は人の神経を 髪剃 に 削って、人の精神を 擂木 と鈍くする。刺激に 麻痺 して、しかも刺激に 渇くものは 数 を尽くして新らしき博覧会に集まる。   狗 は 香 を 恋い、人は色に 趁 る。狗と人とはこの点においてもっとも鋭敏な動物である。 紫衣 と云い、 黄袍 と云い、 青衿 と云う。皆人を呼び寄せるの道具に過ぎぬ。 土堤 を走る 弥次馬 は必ずいろいろの旗を 担ぐ。担がれて懸命に 櫂 を 操るものは色に担がれるのである。天下、 天狗 の鼻より著しきものはない。天狗の鼻は古えより 赫奕 として赤である。色のある所は千里を遠しとせず。すべての人は色の博覧会に集まる。

何だかとても難しいけど、とっても真実に近いことを言っているような気がするのは、漱石の筆の力でしょうね。まったくすごい人だ。100年も昔になると文化がそもそも違うのね。

位置: 2,757
「俗じゃありませんか」
「何が、あの建物がかね」
「あなたの形容がですよ」
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だと云う御意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容は 旨く 中ると俗になるのが通例だ」
「中ると俗なら、中らなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合から答えた。

このやり取り。藤尾は魅力的だね。美しい上に教養がある。あたくしならイチコロで迷っちゃうな。

位置: 2,761
「だから、詩は実際に 外れる」と甲野さんが云う。
「実際より高いから」と藤尾が註釈する。
「すると 旨く中った形容が俗で、旨く中らなかった形容が詩なんだね。藤尾さん 無味 くって中らない形容を云って御覧」
「云って見ましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。 聴いて御覧なさい」と藤尾は鋭どい眼の 角 から 欽吾 を見た。眼の角は云う。――無味くって中らない形容は哲学である。

皮肉がすぎるよ。しかしある部分の真実を含むから無視できない。
やはり哲学というのはトンチンカンの象徴なのだ。100年前から、いや、もっと前からか。それを学んで何になるのか。

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