やっぱり刺さるんだよなぁ、漱石の言葉が。
位置: 5,998
「だって人の口は 五月蠅 じゃありませんか」
「人が何と云ったって――それがなぜ悪いんでしょう」
「だって御互に世間に顔出しが出来ればこそ、こうやって 今日 を送っているんじゃありませんか。自分より世間の義理の方が大事でさあね」
「だって、こんなに出たいとおっしゃるんですもの。 御可哀想 じゃありませんか」
「そこが義理ですよ」
「それが義理なの。つまらないのね」
「つまらなかありませんやね」
「だって欽吾さんは、どうなっても構わない……」
「構わなかないんです。それがやっぱり欽吾のためになるんです」
「欽吾さんより 御叔母さんのためになるんじゃないの」
「世の中への義理ですよ」
「分らないわ、 私 には。――出たいものは世間が何と云ったって出たいんですもの。それが 御叔母さんの迷惑になるはずはないわ」
「だって、こんな雨が降って……」
「雨が降っても、御叔母さんは 濡れないんだから構わないじゃありませんか」
よくある自分と世間体とのせめぎあい。昔から旧世代が世間体を気にして新世代は自分を気にするんだ。それは令和だろうと明治だろうと変わらないんですね。やっぱり人間、老化すると体制側に回るように出来ているんだな。
位置: 6,068
「藤尾さん。小野さんは新橋へ行かなかったよ」
「あなたに用はありません。――小野さん。なぜいらっしゃらなかったんです」
「行っては済まん事になりました」
小野さんの句切りは例になく 明暸 であった。 稲妻 ははたはたとクレオパトラの 眸 から飛ぶ。何を 猪子才 なと小野さんの額を射た。
「約束を守らなければ、説明が 要ります」
「約束を守ると大変な事になるから、小野さんはやめたんだよ」と宗近君が云う。
「黙っていらっしゃい。――小野さん、なぜいらっしゃらなかったんです」
小野さんが悪いんだ。藤尾は性悪だがそれほど悪いことはしていない。
位置: 6,077
「藤尾さん、これが小野さんの妻君だ」
藤尾の表情は 忽然として 憎悪 となった。憎悪はしだいに 嫉妬 となった。嫉妬の最も深く刻み込まれた時、ぴたりと化石した。
「まだ妻君じゃない。ないが早晩妻君になる人だ。五年前からの約束だそうだ」
小夜子は泣き腫らした眼を 俯せたまま、細い首を下げる。藤尾は白い 拳 を握ったまま、動かない。
「噓 です。噓です」と二遍云った。「小野さんは 私 の 夫 です。私の未来の夫です。あなたは何を云うんです。失礼な」と云った。
「僕はただ好意上事実を報知するまでさ。ついでに小夜子さんを紹介しようと思って」
「わたしを侮辱する気ですね」
化石した表情の裏で急に血管が破裂した。紫色の血は再度の 怒 を満面に 注ぐ。
小野の煮え切らない態度がすべてを招いた。ラノベ主人公的でもありますね。青年と成人とのメンタリティの相克ともいえますか。
位置: 6,199
あなたは小野さんを藤尾の養子にしたかったんでしょう。私が不承知を云うだろうと思って、私を京都へ遊びにやって、その留守中に小野と藤尾の関係を一日一日と深くしてしまったのでしょう。そう云う策略がいけないです。私を京都へ遊びにやるんでも私の病気を 癒すためにやったんだと、私にも人にもおっしゃるでしょう。そう云う 噓 が悪いんです。――そう云うところさえ考え直して下されば別に家を出る必要はないのです。いつまでも御世話をしても好いのです
まぁ、叔母さんも意地は悪いね。小野よりも同情の余地はないかもしれない。けれど、やはり小野は不義をしたよ。いいやつだけど。
位置: 6,233
問題は無数にある。 粟 か米か、これは喜劇である。工か商か、これも喜劇である。あの女かこの女か、これも喜劇である。 綴織 か 繻珍 か、これも喜劇である。英語か 独乙語 か、これも喜劇である。すべてが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。これが悲劇である。
語るなぁ。シェイクスピアを意識しているのかしら。と、なると、藤尾が自ら命を断つまではすべてが喜劇ということになりますね。
位置: 6,261
二ヵ月 後 甲野さんはこの一節を抄録して 倫敦 の宗近君に送った。宗近君の返事にはこうあった。―― 「ここでは喜劇ばかり 流行る」
厭世観ね。まさにそうなのかもしれない。藤尾はそういう意味じゃ世間とは違った生き方なのかもしれない。恋に生き、死ぬ。
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