アーサー・C・クラークの世界観とは『2001年宇宙の旅』

猿人で混乱し、中盤はしっかり読ませ、終盤でまた混乱させる。クラークに翻弄される本です。

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はじめるぞ、とボーマンは心にいった。おれがしろうと脳外科医をやることになるとは思わなかった。──それも、木星の軌道のそとでロボトミーなんて。

映画でもこのあたりはシリアスで分かりやすい。手に汗握るシーンでしたね。

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て、これは太陽を動力源とする──というか、少なくとも太陽を引金とする──ある種の信号装置だろうという結論に達した。日の出の直後にパルスを発し、それが三百万年間地中にあって、はじめて日の光にさらされたときだったというのは、偶然にしてはできすぎている。  しかも、物体は 意図的に 埋められている。──その点は疑いない。深さ九メートルの穴を掘り、底に物体を据えたあと、周到に埋め直してあるのだ。

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だが、なぜ太陽が動力源の装置を、地下九メートルに埋めたのか? われわれより三百万年も進んだ生物の動機などわかるのかという疑問はわきに置いたうえで、たくさんの理論を検討してみた。

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日の光にあたって活動する装置を暗やみに隠すのは──それがいつ光にさらされたかを知りたいとき以外にない。いいかえれば、モノリスはある種の警報装置と考えられる。その引金を引いてしまったわけだ。

モノリスについての考察。このへんが映画では全然足りてなくて、視聴者に混乱をもたらす所。あたくしも混乱しました。本を読んで、やっと、「なるほど」と思えたところ。

映画では説明シーンを極端に、むしろやりすぎなくらい省いていて、潔いというか不親切というか。世の中には説明を必需品ではないように思っている教養人がたくさんいらっしゃる。分かる人にしか分からない、では芸能は廃れてしまう。

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このミッションは、たんなる発見の旅以上のものとなる。これは未知の、潜在的な危険を含む領域への偵察飛行であり、きみはいわば 斥候 なのだ。カミンスキー博士が率いるチームは、その任務のために特別の訓練を受けていた。しかしいま、きみは単独でやるしかない……  最後に──目標を教える。土星に高度な生命体が生きているとは考えにくいし、衛星のどれをとっても、そうしたものが発生しているとは思えない。はじめは全衛星系の調査を予定していたが、簡略化したかたちでの実行は、いまでもきみに期待している。だが当面は、目標を第八衛星にしぼるしかないだろう。──ヤペタスだ。最終行動のときが来たら、この変わった天体とランデブーすべきかどうか、きみに伝える。

ジュビロのすごいGKもカミンスキーですね。あたくしもかなり仮眠スキーです。

このあたりは本当に物語としてよく出来ていて、読みながらソワソワ、ワクワク。文章に力があるよね。映画じゃこれも、まるで語られないけど。

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いちばん外側のフェーベは、土星から離れること千三百万キロという桁外れの偏心軌道を逆まわりする変わり種だが、その衛星が区切る境界はとうにうしろに去っていた。この先には、ヤペタス、ハイペリオン、タイタン、レア、ディオネ、テチス、エンケラドス、ミマス、ヤヌス──そして環が待っている。

ふむふむ。土星だもんね。映画じゃ木星だったかな。木星蜥蜴ってなでしこで居ましたね。

ハイペリオン、そういえば読まずに積んであります。はよ読まな。

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ややあって、あるかなきかというほどの衝撃があり、ポッドは何やらかたい表面に降り、安定した。  しかし 何の上に? ボーマンは信じられぬ思いで自問した。やがて光がもどり、懐疑はたちまち失意と絶望に席をゆずった。──なぜならあたりを見まわしたとたん、自分が発狂したとしか思えなくなったからである。
どんな不思議に出会おうと動じないつもりでいた。予期していなかった唯一のものは、まったく日常的な世界だった。
そこは地球のどんな大都市にでもありそうな上品なホテルの続き部屋で、スペースポッドはそのつややかなフロアに降りていた。

ここからは、まったくのイリュージョン。読んでいながら?の連続。何を読まされているんだ?という不安な気持ちでいっぱいに。

ヤペタスに着いたらホテルにいる?まったく笑えない。

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逆行の速度がとうとう衰えはじめた。記憶の泉はかれかかっている。時の流れはますますのろくなり、停止のときが近づいた。──揺れる振子が、つぎの位相に移る直前の測り知れぬ短い瞬間、弧のふちで凍りつくように。
その超時間的一瞬がすぎた。振子は運動方向を変えた。地球から二万光年隔たった二重星の、その業火のまっただなかに浮かぶ 空っぽの部屋で、赤んぼうが目をひらき、うぶ声をあげた。

幼年期の終わり、でもこんな感じの最後じゃなかったです?結局アーサー・C・クラークの中では地球の終わり=赤ん坊登場、なのかしら。映画では最高に??な場面ですよね。それにしても言葉足らずすぎるでしょ。小説読んだってイミフです。

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目のまえには、スター・チャイルドに似合いのきらめく 玩具、惑星・地球が、人びとをいっぱい乗せて浮かんでい

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手遅れになる前にもどったのだ。下の込みあった世界では、いまごろ警告灯がどのレーダー・スクリーンにもひらめき、巨大な追跡望遠鏡が空をさがしていることだろう。──そして人間たちが考えるような歴史は終わりをつげるのだ。
千キロほど下方の気配が、意識にはいった。軌道上でまどろんでいた死の積荷が目をさまし、もそもそと身じろぎしている。そんなひよわなエネルギーなど何の脅威でもないが、彼はきれいな空のほうが好きだった。意志を送りだすと、空をゆくメガトン爆弾に音もなく閃光の花が咲き、眠る半球に短いいつわりの朝が訪れ

アルマゲドン感。どこまで本気でクラーク氏は書いているのかしら。地球は未だに胎児、という世界観はどこから?地球人の反抗が虚しい。

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ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー紙にのったエリオット・フリマント・スミスの書評の抜粋。    ……映画『2001年』は、その基底にある観念を表現するにはあまりに直接的すぎ、その驚異を伝えるにはあまりにも機微に欠け、その荘厳さをほのめかすには方法が限定されすぎていた。映画は観念の周囲をめぐっていただけであり、つらぬいてはいなかった。映画では不可解なかたちでしか終わりえなかった『2001年』は、小説となってはじめて澄みきった全体像をあらわしたのだ。

あとがきより。
観念にすぎる、とはみんな思っているんですね。正直な所、小説読んだってわかんないものはわかんないけどね。

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