ちょいと小噺!

鴻巣友季子著『NHK「100分de名著」ブックス マーガレット・ミッチェル 風と共に去りぬ 世紀の大ベストセラーの誤解をとく』感想

ちょっと前に名作映画を観たんですが、違和感があったんですよね。本著を読んだらすごく腑に落ちた。

「世紀のロマンス小説」ではない?

20世紀のロマンス小説として知られる大長編『風と共に去りぬ』。しかし、原文を精緻に読むと、その本質が「恋愛」ではないことがわかるという。「ヒロインは二人いる」「実は戦争小説である」「ディストピア小説としても読める」「養護と扶養という視点で読むと面白い」――。翻訳を手がけた著者だからこそたどり着いた、実に多様な読み方を味わう。Eテレ「100分de名著」テキストに、特別章・ブックガイドなどを大幅加筆のうえ、書籍化。

映画が古典であることは間違いがありませんが、ただ、何となく観ていて違和感があったんです。簡単に言うと、思っていたより「南部礼賛!」のような映画に思えたんですが、このポリコレの現世界で、そんな思想の濃い作品がいつまでも名作でいられるはずがない、と思ったというか。

本著を読んだら、徐々に謎が解決していきました。映画は古典かもしれないが、原作者の本旨を遂げているとは思えない。

はじめに 原作の知られざる世界を味わう

位置: 7

刊行した最初の年だけで、アメリカで百七十万部を売り上げ、著者の生前に四十か国で翻訳、八百万部が売れたと言われる世紀のベストセラーでもあります。ミッチェルは本作で一九三七年のピューリッツァー賞を受けています。

ピューリッツァー賞というと、どうしても写真とかのイメージですけどね。文学でも受賞するんだ。調べたら「報道的価値、社会的洞察力、歴史の証言性」が求められるんだとか。確かに原作の中にこれらの要素はありますね。

位置: 42

です。ミッチェルが描きだそうとしたのは、たんなる白人のロマンスというよりは、多人種、多階層をバックグラウンドとした多文化混交の物語だったのだと思います。

ジャズ・エイジの申し子

位置: 115

父ユージン・ミッチェルは弁護士、母メアリー・イザベル(メイベル)は〝完璧なレディ〟と言われた人で、婦人参政権運動のリーダーを務めるかたわら、つねに慈愛の精神を持ち、1917年にアトランタで大火事があったときには率先して人の命を救いました。そして火事の翌年、インフルエンザの流行でも看病に尽力しますが自身も感染し、19年に亡くなってしまいます。これは、『風と共に去りぬ』において、主人公スカーレットの母エレンが 貧乏白人(*1) を看病して死んでしまう場面に重なります。

こういう情報、本当にありがたい。さすが文学者。確かに重なる。

モダニズムに背を向けて

位置: 142

 さきほどフォークナーの名前を出しましたが、ミッチェルは、スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ とも同世代です。つまり、いわゆる「ロスト・ジェネレーション」の作家と完全に同世代

フィッツジェラルドヘミングウェイも、そんなに好きじゃないんだよな。彼らと比べるなら、ミッチェルは頭抜けて面白いと思います。

新たなアメリカ南部像の創出

位置: 175

一度、当時 流行りだったジャズ・エイジ小説(短編)を書き始めたことはあるのですが、酒とパーティに明け暮れるジャズ小説の世界が自分の一人目の夫を思い出させたこともあり、この手の小説はフィッツジェラルドに任せておけばいいと考えるに至り、ジャズ・エイジにも背を向けることになります。
 結局、ミッチェルは南部のプランテーションを舞台にした小説を書くことにします。しかし、伝統的な南部小説──南部を 称揚 するために書かれた、貴族然とした白人富裕層が恋をしたり、英雄的な活躍をしたりする一方で、マグノリアの花が揺れ、そこに気のいい黒人奴隷が出てきてバンジョーを弾いたりする物語──を書くつもりは、彼女にはまったくありませんでした。

ここが一番の衝撃かな。違うんだ!ってね。

いままで、『風と共に去りぬ』は南部礼賛・南部称揚小説だと思っていました。実際、映画なんかはそんな感じになってない?

冒頭一行目でわかる映画との違い

位置: 249

実際、小説ではどんな容姿だと書いてあるのか。第一巻の一行目はこう書き出されています。「スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが」。驚きですね。

映画はヴィヴィアン・リーの傲慢な美しさ全開なのに?
あたくしのように映画から入った人も多いはず。驚き桃の木。

全然コンセプトが違うのね。

<タラ>邸の描かれ方の違い

位置: 265

映画と原作でもう一つ大きく違うのは、スカーレットの実家〈タラ〉の外観です。映画のそれは、建物の前面に立派な支柱が四本立つギリシア復興様式的な邸宅ですが、実はこれは、ミッチェルが「頼むからこういう豪邸は絶対につくらないでください」とさんざん頼んだものそのままなのです。ミッチェルは、スクリーンで初めてこれを見たときは「死ぬほどショックだった」と言っています。

原作厨なら激怒するところだね。映画は古典となったが、原作の本旨とは外れたものだったわけだ。

位置: 280

ミッチェルは固定化された南部のイメージを相対化しようとし、白亜の豪邸に象徴されるステレオタイプではなく、素朴でときに粗野な田舎の暮らしを描きました。彼女はたしかにそれを描いたのですが、映画が完成し大成功を収めるに及んで、すべては伝統的な南部イメージに塗り直されてしまった。

むー。面白い指摘。ミッチェルは決して南部礼賛をしたかったではないわけだ。

「萌え」文学の源泉

位置: 363

日本の古い文化にたとえて言えば、『枕草子』の中で清少納言が日常の何気ないものに目をとめて「いとをかし」「うつくし」などと言う、あれが「萌え」だと思います。

重要な指摘。そうか、「いとをかし」が萌えか。

位置: 377

レットはここで、激情家スカーレットの心意気に惚れ込み、彼女を愛し、支えるようになるのですが、この「 庇護 者 としてのドS男」というのも、日本の少女文学に伝統的に欠かせないものです。たとえば、連載四十年を超えるベストセラー漫画『ガラスの仮面』の速水真澄。芸能事務所の若社長として、情熱的な天才演劇少女・北島マヤを、いたぶりつつも 陰日向 に支える役どころですが、レット・バトラーはその原型とも言えるようなキャラクターです。

確かに!真澄社長はレット・バトラー感あるね。あえて嫌われ役をやる感じも、ダディ感ある。

「ミセス・チャールズ・ハミルトンに -百五十ドル、金貨で」

位置: 420

メラニーは「こんなこと──こんなこと、奴隷の競売みたいだと思わない?」と声をひそめて言うのですが、ここには、同じことをしても白人が黒人を買うのなら問題ないと思っている南部人への、作者ミッチェルによる 辛辣 な批評がまぶされていることも付け加えておきましょう。

辛辣な批評が入っているとすると、なおさら南部礼賛ではなく、どちらかというと南部自嘲という感じがします。

文体は最先端、キャラクターは「リユース」

位置: 466

ミッチェルは、ときに前衛作家もかくやという斬新な文体と話法を取り入れてこの小説を書いているのですが、人物造形にはあえて既視感のある、「ああ、これ知っている」という前時代的なストック・キャラクターを 再利用 したのですね。これが、スタイリッシュだけれど読みやすい、世紀のベストセラーが生まれた秘密だとわたしは考えています。

文体と話法は新しく、人物はテンプレ。これって、他の創作にも転用できる話だよね。とかくキャラクターの新しさが持て囃される時代ですが、一方でテンプレのほうが分かりやすいのは間違いない。学びたい要素ですね。ただ、文体と話法を新しくするのが大変なんだけどね。

南北戦争とその後の混乱

位置: 813

 スカーレットたちがいたジョージア州は、フロリダ、アラバマ両州と 併せ、北部軍の将軍が管理する「第三軍管区」になります。州議会の議席は共和党員が占め、アトランタの重要なポストにも黒人が就くようになる。加えて、混乱に乗じて儲けようと北部から乗り込んでくるカーペットバッガーと呼ばれる人たちや、南部への忠誠を捨てて北部人や共和党に取り入って厚遇を得ようとするスキャラワグと呼ばれる人たちが町を 闊歩。一方、名誉を重んじる旧家名家の人々は、食うや食わずの貧乏生活を強いられていました。
 南部の人にとっては「いまやゲームのルールが丸ごと変わってしまい、まじめに働いても正当な見返りが得られない時代」になっていたと書かれています。かつて富んだ南部の大農園から財産を、さらには土地をも搾り取ってやろう──そう考えるスキャラワグたちの格好のターゲットにされた元大農園の一つが〈タラ〉だったということです。このようにミッチェルは混迷の時期を物語として描きますが、北部と南部のどちらかを糾弾しようというのではありません。

カーペットバッガーは今でも選挙とかに言われますよね。なんの関係もない選挙区から、政局だけを頼りに立候補する人に対する蔑称ね。ただ、良い言い方をするなら時流に敏感な人、ということ。生き馬の目を抜く時代には必要な素養でしょう。裏切り者や投機家が闊歩する状態。日本の敗戦時にもいくつもこういう話はあります。アメリカはすでにそれを経験していた、ということでしょうね。

赭土の大地と幻の故郷

位置: 834

赭土はジョージアの北部丘陵地を象徴するものであり、いかなるときもスカーレットを拒まず、つねに大きく包んで受け止めてくれるものです。この思いは、序盤の父ジェラルドの言葉とも呼応し、ラストのスカーレットの有名なセリフとも呼応することになる。ジェラルドはこう言っています。

「スカーレット・オハラよ、おまえはこうしてここに立ちながら、〈タラ〉が、この土地が、なんの価値もないと言うのか?」(中略) 「土地こそがこの世でただひとつ価値をもつものだ」(中略) 「なぜなら、この世で確かに残るものは土地だけだからだ。よく覚えておけ! 土地こそ、われわれが労力を注ぎ、わがものにせんと争い──ときには命までも懸けるに値する 唯一 のものなのだ」

 この強い思いは、やはり移民の家系であるからこそでしょう。ジェラルドたちアイルランド移民は、一度土を離れ、長く不安な航海をし、再び土を踏んで自分たちのサンクチュアリ(聖地)を手に入れた。その切実さは大きいと思います。

赭土(しゃど)、というのは赤土のこと。

ジェラルドたちがアイルランド移民であることを念頭におけば、このセリフの理解もだいぶ変わってきます。そう、彼らにとっては土地がすべて。というか長らく人類にとっては土地こそがアイデンティティだったわけです。日本人にとっては一所懸命といえば馴染み深いか。

極論のようなものかもしれませんが、確かに血の通ったギリギリの本音、という感じです。

位置: 855

屋敷や、畑や、そこに暮らす人たちは、風と共に去ってしまったかもしれない。しかし、土地だけは残る。そんな思いがタイトルに表れているのではないでしょうか。

今はどうだろうね。あたくしなんかは根無し草のほうが気楽だと思っているので、その限りではないように思います。たぶん一生土地は買わない。

ディストピア小説としての『風と共に去りぬ』

位置: 862

ミッチェルが本作を執筆していた期間、および発表当時は、長い目で見ると1890年代の景気停滞から長らく続く〝大不況〟の最中でもありました。

またまた面白い指摘。こういうのがあるから解説書を読むのは面白いんだ。

位置: 886

かつて富んだ支配層には選挙権がなく、不正選挙が繰り返し行われ、政治汚職も横行する。不当逮捕、リンチ、略式裁判……。一方、誓約書にサインをして体制に忠誠を誓えば優遇され、ユートピアが待っている。

北が戦勝し支配する南部。それをディストピアだとする見立て。確かに、管理された人間の暗部という感じがしないでもない。ディストピアというと未来感がある言葉だけど、過去でも当てはめて考えることは可能かも。

落語でディストピア、とか面白いかもね。大岡越前によるディストピア、とか発想はあり。

位置: 904

『風と共に去りぬ』も、過ぎ去った昔日を懐かしむ時代小説ではありません。むしろ、わたしたちの現在と未来を照射する〝予見〟にみちた作品、いまを生き抜こうとあがく人々のしたたかな物語なのです。

てっきりそう思っていたよ。まるきり勘違い、とは言い切れない(少なくとも映画は懐古主義的だと思う)けど、少なくとも原作はもうちょっと複雑なんだね。

性悪型のヒロインがなぜ嫌われない?

位置: 1,014

こんなにあこぎなヒロインが嫌われない理由として、一つには彼女の性格があると考えられます。恋愛小説のヒロインなのに、スカーレットは恋愛のことでうだうだ悩みません。結ばれない運命に悲観して哲学的なことを考える、などということは一切ない。思い立ったらすぐ行動し、ドカンと派手に撃沈する。スカーレットはこれを繰り返すのです。そして、一晩寝たら立ち直る。このあたりは、現代の女性の共感を大いに得るところではないかと思います。

現代に限らず、歴史上ずっと愛されてきたんじゃないかな。不屈のヒロインは割と人気あると思う。我々の世代では逢坂大河とか、そうじゃないかな。ある種の一途で、不屈。

位置: 1,025

 しかし、スカーレットが嫌われない一番の理由は、作者マーガレット・ミッチェルの文体にあるのではないかというのが、本作を訳し通したわたしの一番大きな〝発見〟です。語り手は、しじゅうスカーレットに共感を寄せて語ります。「そうよね、そうよね」と言うように彼女の気持ちを優しく代弁してあげながら、最後には「何言うてんねん!」とばかりに、彼女のいけずぶりを暴露したり辛辣に批評したりする。わたしはこれを「ボケとツッコミ文体」と呼んでいるのですが、ミッチェルの場合はこの間合いが絶妙なのです。

確かに、コミカルでリズミカルなんだよね。いつの間にかスカーレットとともに怒ったり恋したり失望したり希望を持ったりしている。引き込みの強いキャラクターなんだよね。

ボケとツッコミ文体の妙技

位置: 1,087

もしこの小説がスカーレットの一人称で書かれていたら、スカーレットの勘違いや自己欺瞞 に対して読み手がいちいち自分で「おいおい」とツッコミを入れることになり、非常にストレスの溜まる小説になっていたのではないでしょうか。ミッチェルはつねに、自分の分身である主人公との好適な距離を取りながら攻めてくるので、読者としても、ときどき溜飲が下りてカタルシスが得られる。これが効果を上げています。この文体は、なぜこの大長編が一気呵成に読めるかの秘密でもあるでしょう。

まさにその通り。第三者視点で描かれて、隙が多くも、それでも愛嬌がある。いわゆるシンデレラとは程遠いけど、共感はずっとこっちのほうが強い。

才能を開花させるスカーレット

位置: 1,106

フランクと結婚したスカーレットは、彼が製材所を買うために貯めていたお金を取り上げて〈タラ〉を救います。恋人を奪われた妹スエレンからいくら罵倒の手紙が届こうと、「〈タラ〉は守られたという喜びが薄れることはなかった」とスカーレットは言っています。このあたり、作家によっては好きでもない男と結婚したことや、妹を裏切ったことに対する良心の痛みにフォーカスして描くところかもしれませんが、ミッチェルはそうしない。スカーレットにとって、それらすべては〈タラ〉の存在と比べれば小さなことだからです。『風と共に去りぬ』の重心がどこにあるのかがはっきりとわかる書きぶりだと思います。

土地のためなら妹も泣かす、潔い強さ。まったく姑息ではないところが、スカーレットが人気である理由だと思いますね。清々しい。

「拡張的家族」を背負うスカーレット

位置: 1,691

本作中の重要な語にgumption(世才、世渡りの度量)というものがありますが、これに欠けているのです。

自分にも割とかけているところですんで、何となく身につまされる思い。この場合は商才、と言い替えてもいいんじゃないかな。スカーレットには多分にある。

おわりに

位置: 1,835

ミッチェルは南部についてまわるこの「月影とマグノリア」的なものをいちばん嫌がっていました。

皮肉よね。映画はまさにこの「月影とマグノリア」だもの。

位置: 1,839

さらに、映画はのっけから「かつて南部には古き良き生活があった。しかしそれは風と共に去ったのだ」というノスタルジックな字幕が流れます。まさにその「古き良き南部」を批評し、その固定観念を 払拭 しようと、奥ゆかしいサザン・ベルの正反対をいくような、先進的なベンチャー起業家である女性をヒロインに小説を書いたミッチェルは、目を覆わんばかりだったでしょう。

あまりいい言葉ではありませんが、「原作レイプ」ということでしょう。ただ、これがウケた。複雑だったでしょうね、ミッチェル。

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