『狸ビール』 思ったより狩猟の噺

森見登美彦氏の『有頂天家族』のあとがきで参考資料にあったのです。

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ネーミングがまず素敵。
狸ビール。いいじゃないの。

老若男女が秘密のように鍋を囲み、むさぼるように狸を食う、食う、食う。食う合間にビールを各々が手酌で注ぎ、泡が溢れるか溢れないかのうちにグビグビ飲む。
いいですね。これが牛や馬でないところがなおいい。狸とビール。いいじゃないの。

金曜倶楽部もびっくりな勝手なイメージを持って読んだら、なんのその。
狩猟の噺でした。

伊藤礼さんは伊藤整さんの息子さん

作者の伊藤礼さんは文芸評論家の伊藤整の息子さん。
漱石の研究や谷崎の支持などで有名でいらっしゃる。
ただその二代目は、その二代目としての重圧に当然のように負けて屈折するわけで。
その様が『狸ビール』に書いてあります。

あのころはろくな道もなかった。夜東京を出て、途中で朝になって、それから夕方暗くなる頃に花巻に着く。そんなに苦労してまで花巻まで走っていったのは、若かったし、ひとりものだったし、お金は親がくれるからそうちゃんとした職業にもついていなかったし、なによりも、私などいたっていなくったっていいんだし、いつどこで死んだって勝手だと思って暮らしていたからだ。小説家の息子などにこういうのが多い。  暮れになったって私はちっとも忙しくならないのに、世のなかのひとびとは忙しい忙しいと嬉しそうにしているのが業腹だった。

父親が立派過ぎて、ってね。
『有頂天家族』もそんな噺でもありますな。立派過ぎる父、重圧を視ないようにするとどんどん曲がっていく息子。難しい。あたくしもそういう面が少なからずある。

でも、この本。こんな小難しいことばかり書いてあるわけじゃない。

集まった十人ぐらいの男女はビールを飲みながら、「狸はビールによく合う。うまい、うまい」と言ってよろこんで食べてくれた。みんなが喜んでくれたので私も得意だった。  ところが、そのうちにみんなは、 「なんだか身体じゅう狸くさくなってきたような気がする」と言って、おたがいの身体のにおいを嗅ぎはじめた。 「あ、やっぱり狸くさいぞ。たいへんだ、たいへんだ」とみんなは言いはじめた。  狸をたくさん食べてビールを飲んだので、胃袋のなかに狸ビールができてしまい、それが身体じゅうにまわってくさくなってきたのだ。  身体から狸のにおいが完全に抜けるまで二週間ぐらいかかった。私はさいわい鉄板をこするのが忙しくてたくさん食べなかったので、二、三日でもとどおりになった。  いまは、狸を食べたことは悪いことだったと深く後悔しているし、もう狸をつかまえたり食べたりする気はないが、いいわけを言えば、狸をつかまえることになったのはカナザワさんといっしょだったせいだ。私が鳥撃ちだと知っているくせに、カナザワクニオさんが「狸をとろう」と言いだしたのだ。

なかなかユーモラス。ここで本当に狸臭くなってさあ大変でござい、ってぇのが森見節ですけどね。そうはしない。ただ現実的に、かつユーモラスに書く。それがこの伊藤礼さんの味ですね。

狩猟をやめて本作は終わる

淡々と読んでいるうちに、読了してしまうんですな。

これは犬とキジと狸と鉄砲のお話です。  私は三十年ちかく鉄砲うちをしました。冬になると犬を連れ鉄砲を担いで野山を歩きまわっていたのです。しかし三十年ちかくの間に自然環境はどんどん変ってきて、もう日本の野山は鉄砲をうつ場所ではなくなってしまいました。それどころか、野山を歩いていると自然の荒廃に心が痛むことが多くなりました。それで私は鉄砲をやめました。

最後に、彼は、以上のように述べて終わります。
確かに、この本は犬とキジと狸と鉄砲の噺でした。ただ、それが妙にリズミカルで。
何だか辺に心に残る作品でしたね。