不義の子として生まれ、父に冷遇され、祖父の家で育てられた主人公・時任謙作が、暗い運命に創作をもって立ち向かう自我発展の経過を、美しい自然描写とともに、明晰な文体で表現。祖父の妾で20も年上の女に恋する謙作の出生の秘密とは? 現代日本文学の記念碑とも称すべき名作長編。17年間を要した著者唯一の長編小説である。

前半はひたすら読みづらかったです。美文と評判の志賀直哉ですが、正直、前半は冗長に感じました。『小僧の神様』のようなキレッキレな感じはしませんでした。筋は面白いだけに残念。

後半は面白かった。慣れてきたのかもしれません。

調べたら書くのに17年もかかっていました。前半と後半の間に筆癖とか変わっててもおかしくない。明らかに後半のほうがリズミカルでしたもんね。

位置:122
お栄は普段少しも美しい女ではなかった。然し湯上りに濃い化粧などすると、私の眼にはそれが非常に美しく見えた。そう云う時、お栄は妙に浮き浮きとする事があった。祖父と酒を飲むと、その頃の 流行歌 を小声で唄ったりした。そして、酔うと不意に私を 膝 へ抱き上げて、力のある太い腕で、じっと抱き締めたりする事があった。私は苦しいままに、何かしら気の遠くなるような快感を感じた。
私は祖父を仕舞いまで好きになれなかった。 寧ろ嫌いになった。然しお栄は段々に好きになって行った。

主人公、時任謙作は生まれてすぐ母を亡くしているんですな。そこで、祖父の妾が母代わりになる。なかなかしびれる出だしですよ。

この、祖父の下品な感じって何だか日本人が歴代感じてきた感情なのかもしれませんね。
あたくしのまわりにも祖父の下品さが嫌いって人、何人かいます。

位置: 136
「どうだ、謙作。一つ 角力 をとろうか」父は不意にこんな事を云い出した。私は恐らく顔一杯に嬉しさを現わして喜んだに違いない。そして 首肯いた。 「さあ、来い」父は坐ったまま、両手を出して、かまえた。  私は飛び起き 様 に、それへ向って力一ぱい、ぶつかって行った。 「なかなか強いぞ」と父は軽くそれを突返しながら云った。私は頭を下げ、足を小刻みに踏んで、又ぶつかって行った。  私はもう有頂天になった。

この作品で父親の描写って、なんだか記号的なんですよね。味わおうと思うとすごく味わいのある人物設定なんですが、どこかぎこちない。出生の秘密が分かってから読むと、何だか複雑な気持ち。この相撲のときの父親はどういう気持だったのか。

位置: 184
謙作はその気楽な講談本を読みながら、朝露のような湿り気を持った 雀 の快活な 啼声 を戸外に聴いた。

朝露のような湿り気を持った雀の快活な啼声、ってね。これが志賀だ!って感じですね。

位置: 654
三の輪まで電車で行って、そこから暗い土手道を右手に 灯りのついた 廓 の家々を見ながら、彼は用事に急ぐ人ででもあるように、 さっさと歩いて行った。
山谷 の方から来る人々と、 道 哲 から土手へ入って来た人々と、今謙作が来た三の輪からの人々とが、明るい 日本堤 署の前で落合うと、一つになって敷石路をぞろぞろと廓の中へ流れ込んで行く。彼もその一人だった。

実際に吉原に入っていくってのはどういう気持だったんでしょうか。こればっかりはもう、想像の域を出ません。落語でも何度も出てきますが、やっぱり想像の域を出ない。想像のほうが良いってこともあるでしょうがね、どうだったのかな。

位置: 1,250
彼は夕方から竜岡を誘って、西緑へ行った。登喜子も小稲も来たが、少しもその座は はずま なかった。 夜 が更けるに従って、彼は 寧ろ苦痛になって来た。登喜子との気持も二度目に会って彼が自分のイリュージョンを捨てたと思った時が寧ろ一番近かった時で、それからは弾力を失ったゴム糸のように間抜けてゆるく、二人の間は段々と延びて行くように感じられた。彼は今も 猶 登喜子を好きながら、それが熱情となって少しも燃え立たない自分の心を悲しんだ。愛子との事が自分をこうしたと云いたい気もした。然し実は愛子に対する気持が既にこうであった事を思うと、彼は変に淋しい気持になった。
彼は自身がいかにも下らない人間になり下ったような気がした。彼はそれを 凝 と一人我慢する苦しみを味わいながら 夜 の明けるのを待った。そしてつくづく自分にはこう云う場所は性に合わないのだと思った。

キャバクラって若い頃一度行ったことがありますが、こんな気持ちになりましたね。かわいい子が隣にいてくれるのは分かるんですが、全然気持ちがのってこない。性に合わないってことはあるんです。

また、恋もそうですね。このときの時任謙作というのは恋に恋している状態とでもいいますか、なかなか厄介。このあたりは純文学の皮を被ったラノベ的でもありますが、畢竟、彼は足りない部分を埋めようと必死になっても絶対埋まらない。その繰り返しにハマっているんです。

相手が入る分、たちが悪い。
そもそも時任謙作は遺産で遊んでいる放蕩者ですからね。作家だとはいいながら。

位置: 1,323
登喜子と云い、電車で見た若い細君と云い、今日の千代子と云い、彼は近頃殆ど会う女毎に惹きつけられている。そして今は中でも、そんな事を云ったと云うお加代に惹きつけられている。 「全体、自分は何を要求しているのだろう?」  こう思わず思って、彼ははっとした。これは自分でも答える事のいやな、然し答える事の出来る問いだったからである。

誰でもいいから受け入れて欲しい、そういう童貞のような感情ですかね。穴に惹きつけられてるんですよ。これはもう仕方がない。そういう時期があるもんです、若い頃というのは。

位置: 1,725
夜中 悪い精神の 跳梁 から寝つけなくなると、本を読んでも読んでいる字の意味を頭が 全 で受けつけなくなる。ただ 淫蕩 な悪い精神が内で傍若無人に働き、追い 退けても追い退けても 階下 に寝ているお栄の姿が意識へ割り込んで来る。そう云う時彼は居ても 起ってもいられない気持で、万一の空想に胸を 轟かせながら、 階下 へ下りて行く。お栄の寝ている部屋の前を通って便所へ行く。彼の空想では前を通る時に不意に 襖 が 開く。黙って彼はその暗い部屋に連れ込まれる。──が、実際は何事も起らない。

妄想がすごい。とにかく受け入れてもらうことしか考えていない。謙作くん、だいぶ末期ですよ。

位置: 1,751
生活が乱れるにつれ、頭が濁って来るにつれ、彼のお栄に対する悪い精神の跳梁は段々烈しくなった。彼はこのままの状態を続けて行ったら、自分達はどうなる事か知れないという気がした。 殆ど二十も年の違う、その上祖父の長い間の 妾 だったお栄とのそう云う関係は何かの意味で自分を破滅に導くだろうと云う考えの前に彼は立ちすくんだ

志賀直哉は妄想爆発の状態を「跳梁」と言い表します。
そして、祖父と自分の好みが似ているというしょうもない隔世遺伝にヘドが出る思いです。さすが志賀。

位置: 2,153
高浜と云う処で下りて、汽車で道後へ行って、彼はそこで二泊した。そして又同じ処から船に乗り、 宇品 で降り、広島から 厳島 へ行った。尾道より気に入った処があれば彼はどこでもよかったが、結局四日目に又尾道へ帰って来た。  淡い旅疲れで、彼は気分も頭もいい位にぼやけていた。荷は未だ着いていなかったが、翌日千光寺の中腹の二度目に見た 家 を借りる事にして、彼は町から畳屋と提灯屋を呼んで来て、畳表や障子紙を新しくさせた。

結構謙作は金遣いが荒い。いとこの遺産?だったかしら。とにかく荒い。文筆業をしていて、それなりに読者もいるようだが、なんだかんだいって放蕩。高等遊民というやつかしらね。

位置: 2,598
一ト言に云うとお栄さんは承知しなかった。お前がお栄さんに出した手紙を見せて貰ったが、お栄さんはあれで、大概想像していたらしくお前の手紙を見てそれ程驚かなかった。そして 寧ろ立派な態度で、それはいけない、と云う意味を云われた。俺は感心した。こういうとお前は俺をいかにも頼み 甲斐 のない、お栄さんがそう云ってくれるのを待っていたように思うかも知れないが、──実際そういう気持もあったが、それにしろ、お前の手紙の意味を説明して一ト通りは勧める気で行ったのだ。ところが、お栄さんの態度はそういう隙を 全 で見せない程きっぱりしたものだった。

お栄と謙作とでは人生経験が違いすぎる。とくに男女についてはね。お栄さんはおそらく、謙作の中に祖父を見出し、微笑んでいたんだと思われます。謙作、押せばいけたかもしれん。しかし、それは積極的にお栄の願望ではないということか。

位置: 2,640
その上に一番俺に問題だったのはお前が小説家である以上、若し知れば、そしてその事で苦しめば尚の事、きっとそれがお前の 作物 に出て来ない筈はないと思ったからだ。こういうとお前の仕事にいかにも理解がないと思うだろうが、俺としては今更に母上のそういう過失を世間に知らして、今、 漸く老境へ入られようとする父上に又新しく苦痛を与える事がいかにも 堪えられなかったのだ。

この兄貴というのは物語の良心。小物ではあるが良心ですな。
弟思いでもあり、常識もある。しかしどこか足りない。

位置: 2,673
読みながら、謙作は自分の頰の冷たさを感じた。そして、いつか手紙を持って立ち上っていた。 「どうすればいいのか」彼は独り言を云った。狭い部屋をうろうろと歩きながら、「どうすればいいんだ」と又云った。殆ど意味なく彼はそんな言葉を小声で繰返した。「そんなら俺はどうすればいいのか」

まー、実際、どうなるかね。己の出自をはじめて聞かされたときの気持ち。
即座に受け入れられる人は少なかろう。

位置: 2,953
大袈裟 に三角巾で 頰 被りをした謙作が窓から顔を出していると、爺さん、婆さんは重い口で 切りに別れを 惜しんだ。彼もこの人達と別れる事は 惜しまれた。然しこの尾道を見捨てて行く事は何となく嬉しかった。それはいい土地だった。が、来てからの総てが苦しみだった彼にはその苦しい思い出は、どうしてもこの土地と一緒にならずにはいなかった。彼は今は一刻も早くこの地を去りたかった。

勝手な気持ちだが人間とはそんなもんですね。

位置: 3,413
実際会えばどうだかわからなかった。が、離れていて考えると彼は心から栄花に同情出来た。それには、一方不確かな感じもあった。会ってどうだか知れない人間に対し、離れているが為に同情出来るのだという事は仕事の上からも面白い事ではなかった。

人間、やっぱりそんなもんですよ。

位置: 3,455
謙作は今、栄花の事を書こうと思うと、 嘗て見たその女を憶い出さずにはいなかった。彼は現在の栄花を考え、気の毒なそして息苦しいような感じを持ちながら、然し所謂悔い改めをしてお政のような女になる事を考えると一層それは暗い絶望的な 不快 な気持がされるのであった。本統の救いがあるならいい。が、真似事の危なっかしい救いに会う位ならやはり「 斃 れて後やむ」それが栄花らしい、 寧ろ自然な事にも考えられるのであった。

どこまでも勝手な謙作。人の人生をどうのこうの言っている場合ではないのだ。しかし彼はそれをやめない。そこに身勝手な人間の本質がある気もします。

全体的に謙作は己の身の上を中心に考えすぎて、他人の大きな世話を焼きますね。そういうところ、自分を見ているようで辛い。

位置: 3,592
結局ただ一つ、彼が 家 を出る時から漠然頭にあった、悪い場所だけが気軽に彼の為に戸を 開いている、そう思われるのだ。彼の足は自然その方に向うのである。

パチンコとか賭場にフラフラ寄っていってしまう人間の性とはそんなものかしら。あたくしはあまりギャンブルわからないのですが。酒場やゲーセンに行く人の気持なら分かるかな。

位置: 3,772
彼は然し、女のふっくらとした重味のある乳房を柔らかく握って見て、云いようのない快感を感じた。それは何か値うちのあるものに触れている感じだった。軽く揺すると、気持のいい重さが 掌 に感ぜられる。それを何と云い現わしていいか分らなかった。 「豊年だ! 豊年だ!」と云った。
そう云いながら、彼は幾度となくそれを揺す 振った。何か知れなかった。が、とにかくそれは彼の空虚を満たしてくれる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴として彼には感ぜられるのであった。

遊女の乳を揉みながら「豊作だ!」と叫ぶいいシーン。前半のハイライトでもあります。やはりいつの時代も乳房は正義。

そして話は後半へ。ハーレムラノベから一気に話が展開します。

  • 後篇

位置: 3,967
暫くして二人はそこを出、連れ立って東三本木の宿へ帰った。そして謙作は前日からの事を割に 精しく高井に話した。 「随分真剣なんだね」高井は二十前後の青年かなぞのような 初々しい謙作の感情をちょっと意外に感じたらしかった。 「僕としては純粋な気持だ。然しこれからどう進ませるか、それは今のところちょっと見当がつかない。若しこのままにしていると今までの経験では、又、 有耶無耶 になりかねないが、何となくそうはしたくない気があるんだ」

放蕩息子が、それなりに真面目に考えています。根は放蕩なんですがね。

位置: 4,947
謙作は直子を再び見て、今まで頭で考えていたその人とは大分 異う印象を受けた。それは何と云ったらいいか、とにかく彼は現在の自分に一番いい、現在の自分が一番要求している、そういう女としていつか心で彼女を築き上げていた。一ト言に云えば 鳥 毛 立 屛風 の美人のように古雅な、そして優美な、それでなければ気持のいい喜劇に出て来る品のいい快活な娘、そんな風に彼は頭で作り上げていた。 総ては彼が初めて彼女を見た、その時のちょっとした印象が無限に都合よく誇張されて行った傾きがある。そして現在彼は同じ 鶉 の 枡 に大柄な、 豊 頰 な、然し眼尻に 小皺 の少しある、何となく気を沈ませている彼女を見た。髪はその頃でも少し 流行らなくなった、旧式な所謂 廂 髪 で、彼は初めて彼女を見た時どんな髪をしていたか、それを 憶 い出せなかったが、恐らくもっと無雑作な、少しも眼ざわりにならないものだったに違いないと思った。

放蕩息子はそれなりに客観性を持っていると自負しています。だから冷静に直子のこともみているつもり。己の思い込みやご都合主義にもちゃんと向き合っている。

位置: 4,963
それにしろ、彼女は彼が思っていたように美しい人でなかった事は事実である。

ここだけ抜き出すとひどいね。

位置: 4,979
舞台では「 紙屋治兵衛」 河 庄 うちの場を演じていた。謙作は何度もこの狂言を見ていたし、それにこの役者の演じ方が 毎時、余りに予定の如くただ上手に演ずる事が、うまいと思いながらも面白くなかった。そして彼は何となく中途半端な心持で、少しも現在の自身── 許婚 の娘とこうしている、楽しかるべき自身を楽しむ事が出来なかった。彼は 寧ろ現在眼の前にいる直子を見、二タ月前 の彼女を憶い、それが同一人である事が不思議にさえ思われた。

ここもひどい。しかし、そういう時あるよ。恋に恋する魔法が抜けた時、ふと我に返って己の恋人の顔を見るとね。

しかし、あれだ。この「うまいと思いながらも面白くない」ってのは本当によくある。落語なんざ本当にそう。古典落語の名手だけど、どーも肌に合わないなんてのはある話。

位置: 5,151
「貴方もなかなかお茶人なのね。今日のお買物を見てもそうらしいと思ったわ」
こんな事を云って直子は笑った。
「兄さんはどうなの?」
「兄さんも私もお母さんの子ですもの、そう云う方は一向いけない方よ」
「その方がいい。若い人のお茶人はあまりいいものじゃないよ」
「貴方のは何でも解らない方がいいのね。文学も解らない方がいいし、風流も解らない方がいいし」
「本統だよ」と謙作は云った。「文学が解ったり、風流が解ったりすると云う事は一種の悪趣味だ」
「妙なお説ね。私、それも解らないわ」直子は大きな声をして笑い出した。謙作も笑った。直子はそれを 覗き込むようにして、「やはりそれも解らない方がいいの?」と云って自分でも堪らなそうに笑いこけた。

仲睦まじい感じがよく出ている。やっぱり後半の方がよほど読みやすい。
言葉が現代風になった印象があります。なんだろうね。

位置: 5,389
「芸者も赤切符なら、茶屋も赤切符なんだよ。どうもヴァニティを傷つけるからな」

vanity : 虚栄心
だそうです。赤切符とは無許可、ってことかしらね。今「赤切符」でググっても車のことしか出てこない。

位置: 5,494
二月、三月、四月、──四月に 入ると花が咲くように京都の町々全体が咲き賑わった。祇園の夜桜、 嵯峨 の桜、その次に御室の八重桜が咲いた。そして、やがて 都踊、 島原 の 道中、 壬生狂言の興行、そう云う年中行事も一ト通り済み、祇園に 繫 ぎ 団子 の赤い 提灯 が見られなくなると、京都も、もう五月である。東山の新緑が花よりも美しく、赤味の差した 楠 の若葉がもくりもくり 八坂 の塔や清水の塔の後ろに浮き上って眺められる頃になると、さすがに京都の町々も遊び疲れた後の落ちつきを見せて来る。

美しいですね。もくりもくり、なんてオノマトペは普通は使えませんよ。
日本人は京都が好きだ。

位置: 6,067
どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命と云うものが、自分に対し、そう云うものだとならば、そのように自分も考えよう。 勿論 子を失う者は自分ばかりではない、その子が丹毒で永く苦しんで死ぬと云うのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、それは分っているが、ただ、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、新しいもっと明るい生活に 転生 しようと願い、その 曙光 を見たと思った出鼻に、 初児の誕生と云う、喜びであるべき事を逆にとって、又、自分を苦しめて来る、そこに彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。 僻みだ、そう 想い直して見ても、彼は尚そんな気持から脱けきれなかった。
霊雲院は衣笠村からそう遠くなかったから、謙作はよく歩いてお参りをして来た。

悲しいときは存分に悲しみに浸ると良い。
そんな気持ちにさせてくれますね。時任謙作は己への同情が強くて感情移入しやすい。好きなタイプですね。鬱陶しいだろうけど。

位置: 6,294
謙作は何となく不愉快だった。直子の 従兄 が、来て泊る事に不思議はないようなものの、自分の留守に三日も泊り、その上、自身の友達を呼んで夜明しで花をしたというのは余りに遠慮のない失敬な奴等だと思った。又、直子も直子だと思った。
僅か十日間ではあるが、結婚してこれが初めての旅だった。彼は直子がその間、淋しさに堪えられないだろうと思い、敦賀行きを勧めた位で、自分も朝鮮でそう気楽にしている事が直子に済まない気がし、かつ自身も早く帰りたく、彼は直子に会う事にかなり予期を持って帰って来たのだ。然し会った最初から、何か、直子の気持がピタリと来ない事が感ぜられ、それに水谷の出ていた事がちょっと彼を不機嫌にすると、それが直ぐ直子にも反射した為か、直子の気持も態度も変にぎごちない風で、不愉快だった。

物語の重要なところですよ。謙作がたまには鋭いところをみせる。
他人の非常識を咎めるというのはなかなか骨が折れるところ。特に親族だしね。

位置: 6,471
要は「 亀 と 鼈」という遊びをしようと云い、直子に 赤間関 の 円 硯 を出して来さし、その遊びを二人に教えた。

位置: 6,479
この遊びは下男から教えられた。そして、その卑猥な意味は要だけには幾らか分っていたが、直子には何の事か全く分らなかった。

この「亀とスッポン」という遊び、何が卑猥なのかさっぱりわからないのですが、とにかく卑猥らしい。何も知らない直子はそのままされるがまま。

位置: 6,526
「悪い事はしない。決してしない。頭が変で、どうにもならないんだ」これを繰返した。
こう云う争いを二人は暫く続けていたが、仕舞いに直子は自分の身体から全く力が脱け去った事を感じた。それから理性さえ。
直子は静かに二階を降りて来た。仙に 覚られる事が恐ろしかった。そして、床に 就いたが、いつまでも眠られなかった。

なかなか衝撃的なシーンですよ。実際にそういうことにあうと、力や理性がぬける感じなのでしょうか。宮本から君へ、という漫画にそういうシーンが出てくるのですが、何だかそれを思い出しましたね。

位置: 6,601
謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。然し過去の数々の事を考えると、多くが結局一人 角力 になるところを想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。

あたくしもよく一人角力するので、何だか分かる気がする。
最大の敵は自分の性ですからね。常に。

位置: 6,660
末松は 少時 黙った。それから又こんな事を云った。「よくは分らないが、そういう事は十中の七八は疑心暗鬼を作っている場合が多いらしいな。そんな事ではないのかね」
「疑心暗鬼ではない。然し事件としては何もかも済んでいて、迷う所は少しもないのだ。ただ、僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいるんだ。それだけなんだ。それは時の問題かも知れない。時が自然に僕の気持をそこまで持って行ってくれる、それまでは駄目なのかも知れないんだ。が、とにかく今は苦しい」
「…………」
「然し一方ではこうも思っている。今直ぐ徹底的に僕が平和な気持になろうと望むのは 却って、自他共に虚偽を作り出す事だとも。その意味で、取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが 本 統 だと云う考えもあるんだ」 「…………」

時間が解決するのを待つしか無い。苦しみながら。それしか長い目で見たときの解決方法はないってことだ。何もしないのではない、苦しみながら耐え抜く。それだけで十分辛い。

悩むときはそんなことを、思い出しますね。謙作、頑張れ。

位置: 6,669
露骨にいえば水谷の友達で直子の 従兄 がある。それと直子が間違いをしたんだ」
「…………」
「それも直子自身に少しもそういう意志なしに起った事で、僕には直子が少しも憎めないのだ。再びそれを繰返さぬように云って心から赦しているつもりなのだ。実際再びそういう事が起るとは思えないし、事実直子には 殆ど罪はないのだ。それで 総てはもう済んだ筈なんだ。ところが、僕の気持だけがどうしても、本統にそこへ落ちついてくれない。何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」

「間違い」って言葉、面白いですね。違うのは間なんだ。

こういう分かっちゃいるけど腹に落ちない、ってことですね。まま、ありますな。実生活だとね。腹いっぱい食べて酒のんでひっくり返るくらいしか、できることはないように思いますね。

位置: 6,701
その後、衣笠村の 家 では平和な日が過ぎた。少なくも外見だけは思いの外、平和な日が過ぎた。お栄と直子との関係も謙作の予想通りによかった。それから謙作と直子との関係も悪くはなかった。然しこれはどういっていいか、──夫婦として一面病的に 惹き合うものが出来たと同時に、そこにはどうしても全心で抱き合えない 空隙 が残された。そして病的に惹き合う事が強ければ強い程、あとは悪かった。
妻の過失がそのまま肉情の 刺戟 になるという事はこの上ない恥ずべき事だ、彼はそう思いながら、二人の間に感ぜられる空隙がどうにも気になるところから、そんな事ででも尚、直子に対する元通りなる愛情を呼び起したかったのである。病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を 精しく描写させようとさえした。

NTRってやつですかね。今の日本語でいうなら。
逆に刺激になるっていうね。しかしココロはどこか満たされない、そこを肉欲で埋めるという感じかな。

位置: 6,756
謙作は 毎年 春の終りから夏の初めにかけきっと頭を悪くした。殊に梅雨期のじめじめした空気には 打 克てず、肉体では半病人のように弱る一方、気持だけは変に苛々して、自分で自分をどうにも持ちあつかう事が多かった。

「自分で自分をどうにも持ちあつかう」って状態、あたくしにも覚えがありますね。どうにもならない。他人事のようですが、己ではいかんともし難い。

位置: 6,850
「お前はいつまで、そんな意固地な態度を続けているつもりなんだ。お前が俺のした事に腹を立て、あんな事をする人間と一生一緒に居る事は危険だとでも思っているんなら、正直に云ってくれ」
「私、そんな事ちょっとも思っていないことよ。ただ腑に落ちないのは貴方が私の悪かった事を赦していると 仰 有りながら実は少しも赦していらっしゃらないのが、つらいの。

赦しているつもりだが、どうにも身体が意地悪になっていけない。そんなこと、あたくしにもよくあります。

位置: 6,890
実際お前の云う事は或る程度には本統だろう。然し俺から云うと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったように寛大な俺の考えと、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば、何もかも問題はないんだ。イゴイスティックな考え方だよ。同時に功利的な考え方かも知れない。そういう性質だから仕方がない。お前というものを認めていない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局そこへ落ちつくより仕方がないんだ。いつだって俺はそうなのだから……。

もはや説明になっていない。分かるように説明するのが困難な問題だから。しかしそれを共有しないことにはどうにも前に進めない。こういうときは多くを語らず、普通に過ごすように勤め、時間によって己のココロと身体がぴったり一つになるのを待つべきなんじゃないかしら。

位置: 7,009
応挙寺へ向う。香住駅から

位置: 7,032
左甚五郎 が彫った竜という

google検索しても、左甚五郎の竜の話は出てきません。実在しないのかしら?

位置: 7,113
竜胆、 撫子、 藤袴、 女郎花、 山 杜若、 松虫草、 吾亦紅、その他、名を知らぬ菊科の美しい花などの咲乱れている高原の細い路を二人は急がず登って行った。

山陰の景色。
花にまるで造詣がないのでまったく想像のつかない。無念すぎますね。

位置: 7,396
絶えず面倒な事が起った。それは竹さんを入れた 所謂 三角関係ではなく、竹さんを除いたそう云う関係で、面倒が絶えなかったのである。竹さんは女の不身持よりもこの面倒を見る事に堪えられなくなった。さりとてきっぱり別れようとはしなかった。
「それはお話にならんですわ。男が来て嫁さんと奥の 間 にいる 間、竹さんは台所で御飯 拵えから汚れ物の洗濯まですると云うのですから。時には嫁さんに呼びつけられ、酒買いの走り使いまですると云うのですから」
「少し変ってるな。それで竹さんが腹を立てなければ、余っ程の聖人か、変態だな。一種の変態としか考えられない」
謙作は竹さんを想い浮べ、そう云う人らしい面影を探して見たが、分らなかった。然し彼にもそう云う変態的な気持は想像出来ない事はなかった。

変態的な気持ちを全く匂わせないのではなく、少しはあるように思う。
この辺がいい具合ですよね。谷崎でもなければ、のっぺらぼうでもない。ほど良い。志賀直哉自身も少し曲がったくらいが気に入っていたんじゃないかしら。

位置: 7,613
謙作は母の場合でも直子の場合でも不貞というより 寧ろ過失と云いたいようなものがいかに人々に 祟ったか。自分の場合でいえば 今日 までの生涯はそれに祟られとおして来たようなものだった。 総ての人が竹さんのように超越出来れば、まだしも、──その竹さんとても不幸である事に変りはないが、──そうでない者なら、何かの意味で血塗れ騒ぎを演ずるような羽目になるのだ。

総ての人が竹さんのように。
難しいことだけれどわかります。何かを超越するってことだ。漱石がいう諦観というやつか。

何事にも惑わされず。こんな時代だけどね。

位置: 7,742
「何遍いうのや。そんなに心配なら、自分で 担いで行け」
「お前等も飲むものを一人で 担いで行けるか。 阿呆」
皆 が元気なだけ、謙作はその 夜 の自分の体力に不安を感じた。一緒に行って途中で自分だけ弱る事を考え、負けまいと意地張る事で 尚 苦しい想いをし、同年輩という事、そして自分だけが関東者だという事で下らぬ競争意識など持ちかねないと思うと不安を感じた。

関東者の余所者感もしっかりだす。当時は今より遥かに関東弁は変な目でみられたろうしね。

位置: 7,783
疲れ切ってはいるが、それが不思議な陶酔感となって彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶け込んで行くのを感じた。その自然というのは 芥子粒 程に小さい彼を無限の大きさで包んでいる気体のような眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、──それに還元される感じが言葉に表現出来ない程の快さであった。

自然に溶け込む快楽というのはありますよ。野宿して目覚めた朝なんか、感じたな。
野生に帰る感覚って好ましいですよね。ゆるキャンプが流行ってるのってそれもあるんじゃないかしら。

位置: 7,802
山裾の靄は晴れ、 麓 の村々の電燈が、まばらに眺められた。 米子 の 灯 も見え、遠く 夜見ケ浜 の 突先 にある 境港 の灯も見えた。或る時間を置いて、時々強く光るのは 美保 の 関 の燈台に違いなかった。湖のような 中 の 海 はこの山の陰になっている為 未だ暗かったが、 外海 の方はもう海面に鼠色の光を持っていた。
明け方の風物の変化は非常に早かった。 少時 して、彼が振返って見た時には山頂のむこうから 湧き上るように 橙色 の 曙光 が昇って来た。それが見る見る濃くなり、やがて又 褪せはじめると、 四辺 は急に明るくなって来た。

まさに夜明け。名分ですね。

位置: 7,954
「私は今、実にいい気持なのだよ」と云った。
「いや! そんな事を 仰有っちゃあ」直子は発作的に思わず烈しく云ったが、 「先生は、なんにも心配のない病気だと云っていらっしゃるのよ」と云い直した。
謙作は疲れたらしく、手を握らしたまま眼をつむってしまった。穏やかな顔だった。直子は謙作のこういう顔を初めて見るように思った。そしてこの人はこのまま、助からないのではないかと思った。然し、不思議に、それは直子をそれ程、悲しませなかった。直子は引込まれるようにいつまでも、その顔を見詰めていた。そして、直子は、「助かるにしろ、助からぬにしろ、とにかく、自分はこの人を離れず、どこまでもこの人に 随 いて行くのだ」というような事を 切りに思いつづけた。

そして体調を崩し、直子がかけつけ、大団円。
直子に視点が移りますね、最後だけ。

畢竟、どうしようもない気持ちを乗り越えるには時間と自然が必要だ、ということです。本質かもしれませんね。

後半はとくに面白かったです、『暗夜行路』。

投稿者 写楽斎ジョニー

都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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