とにかくうつ病まっしぐらのような考え過ぎの作品。心の平安を保ちながら読まなければ、逆にヤラれてしまうかもしれない。

明治期の文学者、夏目漱石の長編小説。初出は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」[1909(明治42)年]。「三四郎」の後に書かれ、次の「門」とあわせて三部作とされる。漱石自身の予告によれば「「三四郎」には大学生の事を描(かい)たが、此(この)小説にはそれから先の事を書いたからそれからである」。主人公の代助は三十歳を過ぎても親からの仕送りを受けて優雅に暮らしている知識人「高等遊民」である。かつて親友に譲った三千代と再会して、人妻である彼女との愛を貫く決心をする。愛を代償に社会から葬られる夫婦はどうなるのか。

『三四郎』が大学生なら、『それから』は高学歴ニート。しかもボンボンで親と兄の脛をかじって生きている。当人も家族もそれでいいとしている。一見なにも起こりようのない、落ち着いた生き方である。

親と兄の事業も、色々ありそうながらも何とかなっているし、当人(代助)も本を読みながら寝たり起きたり酒を飲んだり。まったく良い身分ですな。

位置: 174
代助はこんな場合になると 何時 でも此青年を気の毒に思ふ。代助から見ると、此青年の 頭 は、 牛 の 脳味噌 で一杯詰つてゐるとしか考へられないのである。 話 をすると、平民の 通る大通りを半町位しか 付いて 来 ない。たまに横町へでも 曲ると、すぐ 迷児 になつて仕舞ふ。論理の地盤を 竪 に切り下げた坑道などへは、てんから足も踏み込めない。 彼 の神経系に至つては猶更粗末である。恰も 荒縄 で組み立てられたるかの感が起る。代助は此青年の生活状態を観察して、彼は必竟何の 為 に呼吸を敢てして存在するかを怪しむ事さへある。それでゐて彼は平気にのらくらしてゐる。しかも 此 のらくらを以て、暗に自分の態度と同一型に属するものと心得て、中々得意に 振舞 たがる。其上頑強一点張りの肉体を 笠 に 着 て、却つて主人の神経的な局所へ肉薄して 来る。自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた 報 に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に 為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。 門野 にはそんな事は丸で分らない。

この門野という人物が憎めなくって良いんだ。決して良いやつではないが、どこか憎めない。その「どこか」についての記述のリアリティが、漱石が他の追随を赦さないところよね。また代助の自負が青臭くって良いんだ。

自分の神経は、自分に特有なる細緻な思索力と、鋭敏な感応性に対して払ふ租税である。高尚な教育の彼岸に起る反響の苦痛である。天爵的に貴族となつた 報 に受る不文の刑罰である。是等の犠牲に甘んずればこそ、自分は今の自分に 為れた。否、ある時は是等の犠牲そのものに、人生の意義をまともに認める場合さへある。

なんて、言えないよ、普通。何のことだか分からんような、よく分かるような。衒学的のようで、真に迫る阿呆くささ。これがいいんだ。

位置: 348
「好いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな 真似 が 出来る 間 はまだ気楽なんだよ。世の中 へ 出ると、 中々 それ 所 ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。 其所 でこんな答をした。 「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」  平岡は酔つた 眼 を心持大きくした。 「大分 考へが 違 つて 来 た様だね。――けれども其苦痛が 後 から 薬 になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」 「そりや不見識な青年が、流俗の 諺 に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」 「だつて、君だつて、もう大抵世の中 へ 出 なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」 「世の中 へは 昔 から 出 てゐるさ。ことに君と 分れてから、大変世の中が 広くなつた様な気がする。たゞ君の 出 てゐる 世の中 とは種類が 違 ふ丈だ」 「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」 「無論食ふに困る様になれば、 何時 でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を 嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」

まったくニートで非生産的なことを、恥じない。羨ましい神経と環境であります。あたくしなんざ、やっぱり駄目ですね。半月以上仕事しないと、どうも、社会に適合てきていないような気持ちになって。

働くことで自己をやっと肯定するというような、旧世紀型の価値観がまだ、あたくしの中にある。それではいかんのです。いかんけれども、生きやすくはあるか。

位置: 374
つまり 楽 といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。 麵麭 に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。 麵麭 を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」  平岡は 巻莨 の灰を、 皿 の 上 にはたきながら、 沈んだ 暗い調子で、 「うん、 何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其 重い言葉の 足 が、 富 に対する一種の呪咀を 引き 摺 つてゐる様に 聴 えた。

「パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくっちゃ人間の甲斐はない」なんてね。クソ生意気なボンボンです。ただ、こいつが憎めないから不思議。

位置: 505
代助は月に 一度 は必ず 本家 へ 金 を貰ひに行く。代助は 親 の 金 とも、 兄 の金ともつかぬものを 使 つて生きてゐる。 月 に一度の 外 にも、退屈になれば出掛けて行く。さうして子供に 調戯 つたり、書生と 五目並 をしたり、 嫂 と芝居の評をしたりして帰つて 来る。

こんな身分でも、女中がいて、書生がいて。
金持ちに生まれてニートをやるというのはこんなにも余裕が違いますか。格差の違いというのが身にしみますな。

またこの家というのが余裕なんだ。裏山しい。

位置: 528
縫 といふ 娘 は、何か云ふと、 好くつてよ、知らないわと答へる。さうして日に何遍となくリボンを掛け易へる。近頃はヷイオリンの稽古に行く。帰つて 来ると、 鋸 の 目立ての様な声を出して御浚ひをする。たゞし人が見てゐると決して 遣らない。 室 を 締め切 つて、きい〳〵云はせるのだから、 親 は可なり上手だと思つてゐる。代助丈が 時々 そつと戸を 明けるので、 好くつてよ、知らないわと 叱られる。

この、『猫』にも通ずる皮肉たっぷりに語る日常風景ね。漱石ファンにはたまりません。

位置: 574
親爺 は戦争に 出 たのを頗る自慢にする。 稍 もすると、御前 抔はまだ戦争をした事がないから、度胸が 据 らなくつて 不可 んと一概にけなして仕舞ふ。恰も度胸が 人間 至上な能力であるかの如き 言草 である。代助はこれを 聞かせられるたんびに 厭 な心持がする。胆力は 命 の 遣り取りの 劇 しい、 親爺 の若い頃の様な野蛮時代にあつてこそ、生存に必要な資格かも知れないが、文明の今日から云へば、古風な弓術撃剣の 類 と大差はない道具と、代助は心得てゐる。

「近頃の若いものは……」問題です。しかしわからないのは漱石はどちらに同情的だったのか。読む度に違う気がする。本作は全体的に皮肉に出来ているので、もしかしたら親爺の方に肩を持っているのかしらん。

位置: 633
親爺 から説法されるたんびに、代助は返答に窮するから好加減な事を云ふ習慣になつてゐる。代助に云はせると、 親爺 の考は、万事 中途半端 に、 或物 を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有してゐない。しかのみならず、今利他本位でやつてるかと思ふと、 何時の間にか利己本位に変つてゐる。言葉丈は滾々として、勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる 空談 である。

生意気な代助の親爺評が記されています。
漱石は「こころ」でも親爺を小馬鹿にした文を書いてますよね。「インテリにすると生意気になっていかん」とかなんとか。
漱石もきっと方々で言われたんでしょうね。

位置: 1,088
三千代 は 美 くしい 線 を奇麗に重ねた 鮮 かな 二重瞼 を持つてゐる。 眼 の恰好は細長い方であるが、 瞳 を据ゑて 凝 と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。

この頃にはもう、目が大きいのが美人という価値観なんでしょうか。昔は切れ長の目のほうがいいとされていたような気がするのですが。ソースは落語ですが。

位置: 1,277
代助は、何事によらず 一度 気にかゝり 出すと、 何処 迄も気にかゝる男である。しかも自分で其馬鹿 気 さ加減の程度を明らかに 見積る丈の脳力があるので、自分の気にかゝり 方 が猶 眼 に付いてならない。三四年前、平生の自分が 如何 にして 夢 に入るかと云ふ問題を解決しやうと試みた事がある。 夜、蒲団へ這入つて、 好い案排にうと〳〵し掛けると、あゝ 此所 だ、 斯 うして 眠るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に 眼 が 冴えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら 此所 だと思ふ。代助は殆んど毎晩の様に此好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も 繰り返した。仕舞には自分ながら辟易した。どうかして、此苦痛を逃れ様と思つた。のみならず、つく〴〵自分は愚物であると考へた。自分の不明瞭な意識を、自分の明瞭な意識に訴へて、同時に回顧しやうとするのは、ジエームスの云つた通り、 暗闇 を検査する 為 に蠟燭を 点したり、 独楽 の運動を吟味する 為 に 独楽 を 抑 へる様なもので、生涯 寐 られつこない訳になる。と 解 つてゐるが 晩 になると又はつと思ふ。

この下らない言葉遊び感。これがいいんだ。心に平穏が訪れます。
人間、他人の下らない習性をみると、安心しますね。あれ、あたくしだけかしら。またたとえが良いんだ。暗闇を検査するために蝋燭を灯す、独楽の運動を吟味するために独楽を抑える、いいじゃないですか。
どうでもいいけど、独りで楽しむとかいて独楽、何だか皮肉ね。

位置: 1,381
さうかと思ふと。時にトルストイと云ふ人は、もう死んだのかね抔と妙な事を聞く事がある。 今 日本 の小説家では 誰 が一番 偉いのかねと聞く事もある。要するに文芸には丸で無頓着で且つ驚ろくべく無識であるが、尊敬と軽蔑以上に立つて平気で聞くんだから、代助も返事がし 易い。

権威主義的、というんでしょうかね。とにかく力関係や有名・無名で物事を計る。無頓着で無識だが、質が悪いですな。

位置: 1,737
渡金 を 金 に通用させ様とする 切ない工面より、真鍮を真鍮で 通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が 楽 である。と今は考へてゐる。

位置: 1,739
代助が真鍮を以て 甘んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を 来たしたといふ様な、小説じみた歴史を 有 つてゐる 為 ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に 渡金 を自分で剝がして 来 たに 過ぎない。代助は此 渡金 の大半をもつて、 親爺 が 捺摺り付けたものと信じてゐる。其 時分 は 親爺 が 金 に見えた。多くの先輩が 金 に見えた。相当の教育を受けたものは、みな 金 に見えた。だから自分の 渡金 が 辛 かつた。早く 金 になりたいと 焦 つて見た。所が、 他 のものゝ 地金 へ、自分の眼光がぢかに 打つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ 出した。

分かるような分からんような。居島さんが先日ライブで「男の嫉妬ほど醜いものはない。己の道をただ歩くのみ」とおっしゃっていましたが、しかり。とかく陥り安い罠だけれども、他人と比較して気持ちをささくれ立つほど馬鹿らしいものもないですね。

位置: 1,782
君は世の中 を、 有 の 儘 で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは 噓 だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに 違 ない。僕は僕の意志を現実社会に 働き掛けて、其現実社会が、僕の意志の 為 に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の 価値 を認めるんだ。

世の中に自分の功績を認めないと存在の価値を認められない、というこの男。成功体験に満ち、また成功を人間の価値の指針とするとこういう様になるんじゃないでしょうか。負けの多い人生を歩んだあたくしは、こういう輩が苦手です。

位置: 1,853
そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば 遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て 来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂 有 の儘の世界を、有の儘で受取つて、其 中 僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで 外 の人を、 此方 の考へ通りにするなんて、到底 出来 た話ぢやありやしないもの――」

人生論だね。まさに。あたくしは代助に非常に共感します。根が臆病で遊民的なんでしょうな。高等になれないのが恥ずかしいですが。「いかにして生きるか」という問題なんですよ。平岡も昔は同じ土俵に立っていたのにね。
こういうこと、学生時代の友人には多々ありえますな。

位置: 1,898
「働 らくのも 可 いが、 働 らくなら、生活以上の 働 でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな 麵麭 を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な 眼 をして、代助の 顔 を 窺 つた。さうして、 「何故」と 聞いた。
「何故 つて、生活の 為 めの労力は、労力の 為 めの労力でないもの」
「そんな論理学の 命題 見た様なものは 分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり 食 ふ 為 めの職業は、誠実にや出来 悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には 働 らけるかも知れないが誠実には 働 らき 悪いよ。 食 ふ 為 の 働 らきと云ふと、つまり 食 ふのと、 働 らくのと 何方 が目的だと思ふ」
「無論 食 ふ方さ」
「夫れ見給へ。 食 ふ方が目的で 働 らく方が方便なら、 食 ひ 易い様に、 働 らき 方 を 合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を 働 らいたつて、又どう 働 らいたつて、構はない、只 麵麭 が得られゝば 好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」

そして仕事論へ。今だにこういう話をしますよ。仕事と人生と。とかく代助は物事をキレイに割りたがる。しかし、世の中はそうキレイに出来ていない。だからといってキレイに割れるように作るのも大人の役目であって、平岡に全てを同意はできない。

位置: 2,262
生涯 一人 でゐるか、或は 妾 を置いて 暮すか、或は芸者と関係をつけるか、代助自身にも明瞭な計画は丸でなかつた。 只、 今 の彼は結婚といふものに対して、他の独身者の様に、あまり興味を 持てなかつた事は 慥 である。是は、彼の性情が、一図に物に向つて集注し得ないのと、彼の 頭 が普通以上に 鋭 どくつて、しかも其 鋭さが、日本現代の社会状況のために、 幻像 打破の方面に 向 つて、今日迄多く費やされたのと、それから最後には、比較的金銭に不自由がないので、ある種類の女を大分多く知つてゐるのとに帰着するのである。

頭が鋭くってお足に不自由がない。明治という時代にこれほど無敵な人がいたでしょうか。そして親の金で遊女を買っている。まるで若旦那ですよ。こういう人種に生まれてみたかったといえばそうだが、やはり堕落するんでしょうね。

位置: 2,405
手紙 は 古風 な 状箱 の 中 にあつた。 其 赤塗 の 表 には 名宛 も 何 も 書かないで、 真鍮 の 環 に 通した 観世撚 の 封じ目 に 黒い 墨 を着けてあつた。代助は 机 の 上 を 一目 見て、此手紙の 主 は 嫂 だとすぐ 悟 つた。 嫂 は 斯 う云ふ旧式な趣味があつて、それが 時々 思はぬ方角へ 出 てくる。代助は 鋏 の 先 で 観世撚 の 結目 を 突 つつきながら、面倒な 手数 だと思つた。

この代助のまるで粋に通じない様が好ましい。観世縒りをハサミで切って「面倒だ」としか思わぬなんぞ、なかなか出来ることじゃない。漱石にもそういう無粋なところがあったんでしょうかね。

位置: 2,674
代助は人類の 一人 として、 互 を 腹の中 で侮辱する事なしには、 互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた 海嘯 と心得てゐた。

位置: 2,707
代助は凡ての道徳の 出立点 は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから 頭 の中に 硬張 つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。

代助のあたまでっかちっぷり。この隅から隅まで理屈でおしなべて揃えて並べて、それで世の中をわかったつもりになって斜に構える感じは、まさに頭でっかち。好きですよ。漱石もそういうふうに思っていたのかしらね。

位置: 2,848
代助は 父 を 怒らせる気は少しもなかつたのである。 彼 の近頃の主義として、 人 と喧嘩をするのは、 人間 の堕落の一 範鋳 になつてゐた。 喧嘩 の一部分として、 人 を 怒らせるのは、 怒らせる事自身よりは、 怒 つた 人 の 顔色 が、如何に不愉快にわが 眼 に 映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を 傷 ける打撃に 外 ならぬと心得てゐた。 彼 は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を 有 つてゐた。けれども、それが 為 に、自然の儘に振舞ひさへすれば、 罰 を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を 斬 つたものゝ受くる 罰 は、 斬られた 人 の 肉 から 出る血潮であると 固く 信じてゐた。 迸 しる血の色を見て、 清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから 顔 の 色 を赤くした 父 を見た時、妙に不快になつた。

理解できるような出来ないような。とにかく代助が変人でとても繊細で横柄であることは間違いないのです。

まだ全然物語が進まないね。

位置: 3,927
友人は 時々 鮎 の 乾したのや、柿の 乾したのを送つてくれた。代助は其返礼に大概は新らしい西洋の文学書を 遣 つた。すると其返事には、それを面白く読んだ証拠になる様な批評が屹度あつた。けれども、それが長くは 続かなかつた。仕舞には 受取 つたと云ふ礼状さへ 寄こさなかつた。 此方 からわざ〳〵問ひ合せると、書物は難有く頂戴した。読んでから礼を云はうと思つて、つい 遅くなつた。実はまだ 読まない。白状すると、 読む 閑 がないと云ふより、読む気がしないのである。もう一層露骨に云へば、読んでも 解らなくなつたのである。といふ返事が 来 た。代助は 夫 から書物を 廃 めて、其代りに新らしい 玩具 を 買 つて 送る事にした。  代助は友人の手紙を封筒に入れて、自分と同じ傾向を 有 つてゐた此旧友が、当時とは丸で反対の思想と行動とに支配されて、生活の 音色 を 出してゐると云ふ事実を、 切に感じた。さうして、 命 の 絃 の 震動 から 出る 二人 の 響 を 審 かに比較した。

大学院などに進学していれば、こういう悩みも分かったのでしょう。ま、進学してまでやりたいことなど無かったので、進学しなくて良かったと思いますが。
とにかく、社会人になると、というか社会の歯車になると、知的好奇心は減退します。というか、自分とその四方の生活を維持するのが大変なので、それ以外の好奇心がまるで作用しなくなっていく。そういう経験、多々あります。

位置: 3,941
彼 は 理論家 として、友人の 結婚 を 肯 つた。 山 の 中 に 住んで、 樹 や 谷 を相手にしてゐるものは、 親 の取り極めた通りの 妻 を迎へて、安全な結果を得るのが自然の通則と心得たからである。 彼 は同じ論法で、あらゆる意味の結婚が、都会人士には、不幸を持ち 来すものと断定した。其原因を云へば、都会は 人間 の展覧会に過ぎないからであつた。彼は 此前提 から 此 結論に達する 為 に 斯 う云ふ径路を 辿 つた。  彼は肉体と精神に於て 美 の類別を認める男であつた。さうして、あらゆる 美 の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる 美 の種類に接触して、其たび 毎 に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を 動かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞 家 であると断定した。 彼 は 是 を自家の経験に 徴 して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の 引力 に於て、悉く 随縁臨機 に、測りがたき変化を 受けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延ばすと、 既婚 の 一対 は、双方ともに、流俗に 所謂 不義 の念に 冒されて、過去から生じた不幸を、始終 嘗めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替えるか 分らないではないか。普通の都会人は、より 少なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は 渝 らざる愛を、 今 の世に 口 にするものを 偽善家 の第一位に 置いた。

社会の安定のために一夫一妻制度があるのだとして、それを否定するのが知識人であり都会人であるわけかしら。
あたくしは結婚して、一夫一妻制に縛られて本当に良かったと今の所思っています。妙な嫉妬や承認欲求からある程度自由になれましたからね。多夫多妻制度だったら気が収まらないでしょうね、疲れちゃう。
知識人にはやはり、向かない。

位置: 4,250
すると 兄 が突然、 「一体 何 うなんだ。あの女を貰ふ気はないのか。 好いぢやないか 貰 つたつて。さう 撰 り 好みをする程女房に重きを置くと、何だか 元禄時代の色男の様で可笑しいな。凡てあの時代の 人間 は男女に限らず非常に窮屈な 恋 をした様だが、 左様 でもなかつたのかい。――まあ、どうでも 好いから、成る 可 く 年寄 を 怒らせない様に 遣 つてくれ」と云つて帰つた。

明治の男は女房に重きを置かないのです。まるで元禄時代の色男。いい台詞だ。窮屈な恋をした、なんてね。兄のように異性の優先順位を下げられたら楽だろうにな。

位置: 4,511
彼は隔離の極端として、 父子 絶縁の状態を想像して見た。さうして 其所 に一種の苦痛を 認めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。 寧ろそれから生ずる財源の 杜絶 の方が恐ろしかつた。  もし 馬鈴薯 が 金剛石 より大切になつたら、 人間 はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。

貧窮に対する恐れ。ボンボンだからこそ、ですね。

位置: 4,806
助は三千代と 相対 づくで、 自分等 二人 の 間 をあれ以上に 何 うかする勇気を 有 たなかつたと同時に、三千代のために、 何 かしなくては居られなくなつたのである。だから、 今日 の会見は、理知の作用から 出 た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の 旋風 に 捲き込まれた冒険の 働きであつた。

この第三者の語りがまた、ステキなんだ。
漱石ならでは。飽きないね。

位置: 5,801
彼は自分と三千代の運命に対して、 昨日 から一種の責任を帯びねば済まぬ 身 になつたと自覚した。しかも 夫 は 自ら進んで求めた責任に 違いなかつた。従つて、それを自分の 脊 に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その 重みに押されるがため、却つて自然と 足 が前に出る様な気がした。彼は 自ら切り開いた此運命の断片を 頭 に 乗せて、 父 と決戦すべき準備を整へた。 父 の 後 には 兄 がゐた、 嫂 がゐた。是等と戦つた 後 には平岡がゐた。是等を切り抜けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して 呉れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。

腹をくくったニート。全てと戦う覚悟ですよ。
そんなん、ねーな。

位置: 6,040
彼は元来が 何方付かずの男であつた。 誰 の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、 誰 の意見にも 露 に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ 付 とも思はれる 遣口 であつた。 彼 自身さへ、此二つの非難の 何れを 聞いた時に、 左様 かも知れないと、 腹の中 で 首 を 捩らぬ 訳 には 行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ 彼 に融通の 利く 両 つの 眼 が 付いてゐて、双方を一時に 見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に 物 に向つて突進する勇気を 挫 かれた。即かず離れず現状に立ち竦んでゐる事が 屢 あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、 彼 が犯すべからざる敢為の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて 解 つたのである。

決めないツケが回ってきたっつーことか。決められないでいると大きな損失を被るという。
沈黙は金だが、言わないのも駄目だという。人生のさじ加減というのはまっこと、難しい。

位置: 6,108
代助は 昨日 の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の 重みを 脊中 に 負 つて、高い絶壁の 端 迄押し出された様な心持であつた。

自己の自然な因果を発展させるというのは同時に、自立するということですからね。風が起こっても立っていないといけない。

位置: 6,596
「矛盾かも知れない。然し 夫 は世間の 掟 と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り 上 がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの 夫 たる君に 詫 まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」

誠実というのは難しくて、己の心に誠実であるということがイコール世間のルール通りとはいかないことです。いや、むしろ行かないのが普通か。だから道徳に誠実というのは欲望に不誠実なわけか。むむ。人間というのはどこまでも利己的か。

位置: 6,882
「貴様 は馬鹿だ」と 兄 が大きな声を出した。代助は 俯向いた儘顔 を 上げなかつた。 「愚図だ」と 兄 が又云つた。「 不断 は 人並 以上に 減らず口 を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で啞の様に 黙 つてゐる。さうして、 陰 で親の名誉に 関 はる様な 悪戯 をしてゐる。 今日 迄何の 為 に教育を受けたのだ」

教育を受けたのは何のためか。大学は出たけれど、ってか。難しいね。
学問のためか。

位置: 6,897
「門野 さん。僕は 一寸 職業を 探して 来る」と云ふや否や、 鳥打帽を 被 つて、 傘 も 指さずに 日盛りの 表 へ飛び出した。

門野にさん付けをして終わる物語。
最後は怒涛の展開ではあったが、全体をみるとなんてことはない、略奪愛の話です。
しかし、その細部があまりに良く書けているので怖い。

投稿者 写楽斎ジョニー

都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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