「昭和の儀式」にみる日本人にとっての「野球≒芝居」感 2

前回の続きです。
山田久志さんのインタビューにどうにもしっくり来なかった理由です。

落合選手も儀式に従わなかったし

三冠王・落合博満選手は、山田氏の語りにも出てくる通り、あの落合氏は儀式に付き合わなかったそう。その語りぐさが、また、なんとも言えないの。

「(本拠地の)西宮でお客さんいっぱい入ってたのに、あいつ、ホームラン打ちやがって(笑)。それも3方向に3発だよ。最後なんか試合はもう決まってるのに、カーブだったかな、それを打ったのよ。こないだも落合に会ったんだけど、あいつ、『あのときどうしてカーブ投げたのよ。勝手に手が出ちゃってホームランになっちゃった』って言うのよ。バカ、そんなことあるかって。ライトに2ラン。本当は最後の打者のはずだったのにね。こっちは、最後、落合三振で一番絵になるだろって思ってたのに」

まず思うのは、絵になる、ならない、でプロ野球やられても……ということ。
少なくともあたくしは、真剣な野球の試合を観に球場に行ってるんですが。
そもそも、ハイレベルな真剣勝負は、そのもので素晴らしい絵なのです。

≒芝居なのかしらね

山田氏の話を聞いていて思うのは、日本人にとって、昭和プロ野球も芝居のようなものだったのかもしれない、ということ。

落語を聞いているとよく出てくる”いい形”ってぇやつ。
”様子がいい”、”絵になる”というニュアンスですかね。

そういうものを観たいだけ。興行として野球を消費したかっただけ、素晴らしい選手の”いい形”ってぇのを観たかっただけ、なのかもしれないと考えます。
”野球”という競技をただ愛しているだけではないのです。

だからスターが愛される。
技よりカリスマ性。
カリスマが観たい。
そういう価値観なのかもしれません。

聞けば聞くほど、今のプロ野球が好きだ

あたくしも昭和生まれですが、育ちは平成です。
だからかもしれませんが、今のプロ野球の考え方のほうが性に合いますね。

張本氏や山田氏の意見にズレを覚え、ダルビッシュのTwitterに共感する。
そんな平成人間です。

西宮球場

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コメント

  1. ツトム より:

    しっくり来なさの原因のひとつは、「あの憧れた選手や記録は作られたものだったの?」っていう感覚なんじゃないかな〜。
    すごいと思ってた記録が茶番に近い妙な儀式で成立した記録だったと暴露しながら「現代は大エースは生まれない(俺は大エースだけど)」っていうのがおかしいんじゃないかと。

    門田に直球勝負っていうのは百歩譲っていいにしても、秋山・清原がサービスで三振するっていうのは茶番以外の何物でもないよねっていう。

    過去の記録と現代の記録を比較する意味っていうのは、スポーツ界全体の問題だよね。

    引退寸前のロートル選手が「打たせてもらった」通算記録に意味があるのか?
    王貞治の圧縮バット&後楽園球場で産み出したHR記録に意味があるのか?
    クイックがない時代の盗塁記録に意味はあるのか?
    ステロイドで作った世界記録に意味はあるのか?とか。

  2. 写楽斎ジョニー より:

    >ツトムさん

    おっしゃるとおり。
    いわば歌舞伎の山場のような演出で達成した記録を、“昔は良かった”みたいなトーンで話してる山田さんに違和感を覚えたり。
    「高校の頃は悪かったんだぜ。」って言ってるおっさん観ている気分かしら。

    個人的にはスポーツの記録について、ある程度ファジーでいいとは思っているんですけどね。
    王さんは圧縮バットだろうが年間130試合の時代の話だし、クイックだって歴史の中で生まれたもので、なんだったら今だって出来ない人いるし(笑)。

    でも恣意的に創りだされた記録だけはどうしても認めちゃいけないって思ってます。
    ぶっちゃけ、ステロイドだって禁止されていなければ記録としては成立すると思うし。好き嫌いで言えば嫌いですが。