「昭和の儀式」にみる日本人にとっての「野球≒芝居」感 1

野球のブログを読むのが趣味なのですが、この記事はちょっと、衝撃的でした。

http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041/article/329
伝説のサブマリン・山田久志が語るエース哲学7

『阿佐智の「アサスポ・ワールド・ベースボール」』というスポナビのブログで連載されている記事なのですが、どうにもしっくりこない。

山田久志画像

昭和の儀式って、そんななの?

昔気質の山田は、球界のしきたりを重んじる。試合の初球はストレートでストライクを投げ、トップバッターはそれを見送る、ライバルと決めた相手の中心打者には、勝負球を決めておく。昭和のプロ野球にはそういうチームの勝敗とは別の次元での打者との「儀式」があった。

まぁ、これくらいは存じておりますよ。長くファンやっていればね。
メジャーでも不文律があるし。けれども、続き。

ファームから復帰した8月末の西武戦、先発した山田には2000奪三振の大記録がかかっていた。山田はねらい通り、相手の主力打者、秋山幸二から1999個目の、そして清原から2000個目の三振を奪ったが、これも実は出来レースだったという。大選手の節目の記録を絵になるところで達成させるのは、この頃、ある種の決め事だったのだ。

そんなことってあります?
観に行った試合で、そんな茶番があったら、怒って帰られても仕方ないでしょ。
真剣勝負を観たいのに、仕組まれた三振の茶番劇だったなんて。
ペナントに関係ない、引退試合とかならともかく。

俺たちは試合展開なんて関係なかった。その辺も、今、本物のエースが生まれないことと関係あるだろうね。

チームプレー至上主義の現代ですが

確かに、今は何につけてもチームプレーが賞賛されますな。
右打ちを、進塁打を、記録より勝利を。
それが評価される、いわば時代です。

それをこの大エースは「試合展開なんて関係ない場面がある。だから本物のエースが生まれた」と言う。なるほど。そうかもしれません。

右打ちばかりで大打者が育つか!という意見をまま目にします。
ペタジーニを敬遠させられた上原が、マウンドで泣いたのを今でも覚えています。
確かに、大打者・大エースは育たないかもしれない。時にはエゴで動いてこそ、正しい大野球選手は育つ、のかもしれない。

けれども、果たしてそれが正しいのでしょうか。
映画『セッション』のフレッチャー教授のように、「天才はこうしないと育たない」という経験則を、容易に常識と捉えすぎてはいませんか。

ちょっと話がずれてきた

言いたいことが山ほどあるせいか、ちょっと論点がずれてきました。
稿を改めます。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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