伊賀泰代著『採用基準』感想 「リーダーシップ」の定義とは

本著でいう「リーダーシップ」と世間的な「リーダーシップ」って違うと思うんだけど。

就職超難関企業と言われるマッキンゼーは、地頭のよさや論理的思考力が問われると思われがちだ。しかし元採用マネジャーの著者は、このような定説をきっぱりと否定する。マッキンゼーでは世界で通用する人材を求めており、頭のよさだけではない。それは現在の日本が必要としている人材像と同じと言える。

言っていることは至極真っ当で、ほぼ同意しかありません。

でも、本著における「リーダーシップ」って「成果に対して責任をもって積極的に動ける力」みたいなことだと思うんだけど、それって世間的な日本語の「リーダーシップ」と違うよね。

著者は世間の「リーダーシップ」の定義を変えたいのかな? そうじゃないなら違う言葉を使えばいいのにって思う。確かに世間の「リーダーシップ」というのはあまりプラスの言葉ではないけどね。

そして日本人のもつ「リーダーシップ」への根深いネガティブイメージは、そう簡単に取り除けない気がする。「結果にコミット意識」とか何か別の言い方したほうが早いと思うな。

第2章 採用したいのは将来のリーダー

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問題解決リーダーシップとは、解くべき課題(イシュー)の定義から、分析の設計、関連する組織や人とのコミュニケーションを含む一連の問題解決プロセスにおいて、リーダーシップを発揮することです。

本著、明らかにメイントピックは「リーダーシップ」についてなんだけど、それじゃ安っぽいタイトルになるから変えたのかな?

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そもそも「船頭多くして船山に登る」ということわざにおける船頭を、リーダーだと解釈するのは明らかに間違っています。ここでの船頭とは、ただ単に「自分の主張を押し通そうとする強引な人」であり、たしかにそんな人が多ければチームの成果は出ないでしょう。 船の目的は海にこぎ出し、魚をとること、もしくは目的地までたどり着くことです。もし彼らがリーダーシップをもっていれば、たとえさまざまに異なる自説をもつ人がいても、それらの意見は、「成果達成のために、どの意見が最も役に立つだろうか」という話し合いの中で取捨選択されるはずです。リーダーシップのある人は、「成果を出すこと」を「自説が採用されること」よりも優先します。だから全員にリーダーシップがあれば、船は山には登らず、海に向かうはずなのです。

理論はそうだけどね。日本人の非常に根深いところに、この「リーダーシップ」へのネガティブで「船頭」なイメージがある気がしてならないよ。

位置: 789
もちろんマッキンゼーのチームにも、プロジェクトマネジャーや責任パートナーは存在します。しかしそれらはチーム管理上の役割にすぎません。マネジャーは日々の円滑なチーム運営について目配りすることを期待されているし、責任パートナーは、最終的に顧客企業に対する全責任を負っています。けれどそれは、他のメンバーがフォロアーとして、彼らの指示に従って動くことを意味するわけではないのです。

あたくしは自分のキャパシティがそれほど多くないから、正直、ライスワークについては生涯フォロワーで終えたいですね。

そんな責任をもった仕事の仕方、疲れちゃって家庭どころじゃないわ。

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ます。ヒエラルキーを議論にもち込まずにすむのは、全員がリーダーシップをもっているからなのです。

間違いない。日本には馴染まないよなぁ。

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杓子定規な態度を崩さず、「詳細な計画が完成するまでは、何も始めたくない」、「一切の妥協は許すべきでない」、「明文化されない限り、何もやるべきではない」などと言い出す人も同じです。組織を動かして成果を出すことがどれほど大変なことか、実体験として理解していない人がチームにいるのは、極めて非生産的です。

間違いない。日本がそのように生まれ変わるには、相当な時間が必要。それこそ生まれ変わらないと無理じゃないかな。

位置: 982
他部署の決定に「なぜそういった決断をしたのか」、「他の選択肢はあり得ないのか」、「他の案のほうが、収益が上がるのではないか」などと議論をもちかけ、それによって成果を向上させようとするならば、そこには、強力なリーダーシップが必要とされます。リーダーシップなくしてそういった発言をすれば、それは単なる他部署への干渉になってしまいます。それでは感情的な対立を引き起こすだけで、成果の向上にはまったくつながりません。 このように、高い成果目標がチームに課された時、初めてリーダーシップは必要とされます。そして、成果が厳しく求められない状況が多いからこそ、日本ではリーダーシップが問われることが少ないのです。

成果以外にも気を配らなきゃならないことが多すぎて。それで疲弊している感じはある。やはり凋落するべくして凋落する国なのか。

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外資系企業にも当然、役職は存在します。しかしリーダーシップは役職にかかわらず全員に求められます。また特定の役職に就くためには、就任前に、それに必要なレベルのリーダーシップが発揮できることを、実績をもって証明する必要があります。 この順番が重要です。「役職が先でリーダーシップが後」なのではなく、必要なリーダーシップをもっていることが証明されて初めて役職に就くのです。たとえばマネジャーに昇格する人は、マネジャーになる前に「マネジャーとしても十分なリーダーシップを、すでに発揮しているから」マネジャーに昇格するのです。

よく「他人事」に対して「自分事」なんて言われますけど、そんな感じよね。でも、あたくしのようにバイト感覚で仕事をしている人には過剰に重荷よな。

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マネジャーが必要なのは、成果を達成するためではなく、組織内の人数が多くなると管理が行き届かなくなるからです。この「管理のために必要な役割」と、「成果達成のために必要な役割」はまったく異なるのです。

リーダーとマネージャーは違う、これは結構当たり前のようでいて、共有されていない事柄のように思います。

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前述したように、リーダーとは「成果目標を達成するために組織を率いる人」です。「成果目標に関しては妥協してもいいので、関係者全員に角が立たないようにする」のは、リーダーシップではないのです。

利益調整のための役職に名前を与えるべきだと思います。そうじゃないといつまでも「リーダーシップ」に含まれてしまう。

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日本では時々、雑用係のことをリーダーと呼んでいるのではないかと思うことさえあります。たとえば何かイベントが行われる際、参加者の出欠を事前に確認し、お店を予約し、早めに現場に到着して滞りなくすべてが準備されているか確認します。イベント中は進行がスムーズに進むようあらゆることに目を配り、終了後も最後まで残って片づけを行う、そういう人をリーダーと呼ぶ人がいます。

誰か雑用係に聞こえのいい名前を与えてほしい。そして明確にリーダーと違いを打ち出してほしい。

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日本ではよく「言い出した奴がやるべき」と言われます。言い出しっぺが雑用を押しつけられるというイメージがあるから、「誰かリーダーシップをとりたい人、とってくれる人はいませんか?」という呼びかけに対して、みんな目を伏せ、他人と視線を合わせないようにし、選ばれないよう無言で祈るのです。

間違いない。それじゃ意識の高い組織なんか出来るはずがない。

しかし、全方向にリーダーシップを発揮する生き方って疲れないかな?慣れなのか。「他でリーダーシップを発揮するところがあるから、ここはフォロワーでいいや」という発送は著者にはないのかな。

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リーダーは組織の和よりも成果を出すことを優先します。したがって強力なリーダーは、同じ時代、同じ空間を共有する人にとっては、必ずしも「一緒に働いて楽しい人」ではありません。

和を以て貴しとなす、が常に正しいとは思わないけど、和を以て貴しとなすべきケースって多々あると思うんだ。「より良く生きる」が至上テーマじゃない場面も多々あるから。

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リーダーに対する建設的でない批判の大半は、この「成果にコミットしていない人たち」によってなされます。リーダーが成し遂げたいと考えていること、成し遂げなければならないと考えていることに対して、賛成できない人、自分には関係がないと考える人にとっては、リーダーとは突っ込みどころ満載の強権者です。

この批判が、正直めんどうくさい。

位置: 1,214
しかし何より重要なことは、リーダー以外の人も含めて、「リーダーの仕事は、周りの人を楽しくさせることではなく、なんとしても成果を出すことなのだ」と理解することです。

そんな世界、あと30年は来ない気がする。

というかどこかの地域や国では、そういう共通認識があるのかな?マッキンゼーだけじゃなくて?著者はマッキンゼー以外のことについてあまり多くを語らないけどさ。

位置: 1,308
面接で、過去にその人がどんなゴールを設定したことがあるか、と尋ねることがあります。一度でも自分で目標設定をしたことがあるかどうか、それは十分に高い目標であるか、換言すれば、高いゴールを設定することの意味を理解しているかどうかを聞き出そうとするのです。

うーん、正直、この手の面接だとあたくしは好まれないだろうな。常に平均点を目指してるから。そういう意識のところで働くのは大変そう。その分、得るものも大きいだろうけど、あたくしには合わない。

位置: 1,337
集団の前で何か新しいアイデアが披露され、「誰かこれにトライしてみたい人はいますか?」と問われた時に、周りの様子をうかがうのではなく、すっと自分の手を挙げて、「私がやりましょう」と声を上げるのがリーダーです。
それは公衆の前に自らをさらし、結果がうまくいかない場合も含めて、そのリスクや責任を引き受ける覚悟があり、結果として恥をかいたり損をする可能性も受け入れる、受容度の高い人です。議論をする時に最初に発言する人、大勢が同じ意見を述べている時に異なる意見を発する人も同じです。

確かに、そういう人を称える社会であってほしい、と思う。
日本の島国性というか、出る杭を打つ文化というか、そういうのは成長の阻害だと思われるかもね。

位置: 1,406
ところで、全員がリーダーシップをもっているチームでは、最終的な判断を下すのはオフィシャルなリーダーであったとしても、議論の段階では全メンバーが「自分がその立場であったら」という前提で議論をします。このため各メンバーはリーダーに対して、「ここがおかしい」とか「ここを変えてください」と言った、意思決定者への陳情(要請)のような意見の述べ方ではなく、「私がもしリーダーであれば、こういう決断をする」というスタンスで意見を述べます。

これは建設的なスタンス。陳情ではなく、「私がリーダーなら」という提案。大事なスタンスだね。あたくしもよくやりがちだけど、自分のチームのリーダーに対する陳情はリーダーシップのあるやり方ではなく、理想的ではないかもしれない。

位置: 1,459
調査する、勉強する、考えるなどの行為は、どれほどの時間と熱意をかけてそれらに取り組んでも、それでリーダーの役割を果たしているとは言えません。「後ろから部下を見守っている」のもリーダーではありません。 目標を掲げ、先頭に立って進み、行く道の要所要所で決断を下し、常にメンバーに語り続ける、これがリーダーに求められている四つのタスクなのです。

後ろから部下を見守るのはリーダーではない、というのはあまりにリーダー像が狭い気もしますが、4つのタスクについては概ね同意。自分がなにかのリーダーになるとき、心がけたいことですね。

ただ、日本社会との相性が悪いんだよなぁ。。。

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