川上宗薫著『流行作家』感想 この人、そんなに売れたのか?

『散歩もの』という漫画で触れられているのを読むまで、この人を知りませんでした。

「この作品は私の生理の産物のようなものである。この一、二年、私の中に、最も水位を上げて溜ってきたものが、流行作家という自分が置かれている立場への意識からくる、さまざまな絡み合いである」……芥川賞候補五回という輝かしい経歴をもちながら、こと志と反し情痴小説の第一人者、ポルノの大御所と呼ばれ、夜な夜な銀座に浮名を流す作家の心を、時によぎる若き日の夢。得たものと失ったもの、優越感と劣等感の間をたえず揺れ動く人気作家の哀歓を赤裸々に語った傑作自伝。

そんなに有名人なのか?長者番付に乗るほどの?
あたくしが無知なだけ?

本著も面白かった。共鳴する部分が多々あった。
妻以外知らないあたくしだけど。

文章は徒然と書いてあるだけ。技工というものはあまり感じなかった。ただ、そこがこの作品の面白いところであって、妙なリアリティがある。


位置: 102
そういった 類 いの話をためらいなく鮨屋の店長とできる底のものについて市川は無自覚ではない。売れている作家だからこそ店長はつき合ってくれているのだ。そして、売れているにも拘らずそんな話を熱心にしてみせるといった 衒いが市川の側にはある。銀座のクラブで、市川が愚かものの真似をしたり象の鳴き声を真似る時にも、同じ衒いが彼の中には潜在している。

私小説を書く人は、そのメタ認知が非常に絶妙。出来ているところと出来ていないところの境目が非常に文学的であります。川上氏(本著では市川となっていますが明らかに著者のこと)もそれがいい具合。

位置: 758
市川が、百合や道子のいる家を飛び出た頃、百合は大学に入って一年経っていた。
市川は芸者との同棲生活を始めたのだが、その頃、母親と歩いている高校生ぐらいの女の子を見る度に、眼を背向けたいような気持にさせられたものだ。自分が棄てた幸福がそこにあるように思ったからである。
娘は甘ったれた感じに母親の腕を把み、母親の方は、娘の甘ったれに対して、〈どうしようもないわね、あなたって〉というような、やや気むずかしそうな顔をして歩いている。
〈なんという贅沢な気むずかしさだ〉
と、彼は思ったものだ。

「贅沢」と、それを捨てた人間がいう悲哀。なんとも倒錯的でよいね。

位置: 838
なにかのまちがいで、ちょっとした狂いによって、自分は、こうした男たちに下手に出なくてもいい立場にいる。しかし、世が世ならば、これらの男たちは、みな市川自身が下手に出なければならない、そういった存在にちがいない。
そして、市川自身は、自分について〈世が世ならば〉などとは考えないのである。そして、市川は〈世が世ならば〉の立場に、現に今いるとは少しも思っていない。〈世が世ならば〉というのは、〈本来ならば〉ということなのだ。
市川は、本来ならば自分はこういうふうに運のいい状態にいるわけはないと思うのだ。運がいいというのは、今の時代が市川に合っているということでもある。

文筆業というのは、ある意味ではそういう面はあるよね。文字を紡ぐだけならわりと多くの人が出来るわけで、あとは運の要素が多分にある。いわば泡銭であるという自負だね。

壇蜜さんが日記で「泡銭」と言われたと憤慨されていたけど、この人はむしろ積極的に自負している。

位置: 849
戦争中の、あの暴力の暗黒の時代の空気を市川は吸っている。あの暴力が、ほんの気まぐれを起こして、〈さて、そろそろ始めるかな〉などといって動き始めたならば、市川などは吹けば飛ぶような存在である。
普段はおとなしいニコニコした顔の男が、酒が入ると突然に軍歌を歌い始めることがある。すると市川は、吹けば飛ぶような自分を感じるのだ。
このおとなしそうなニコニコ顔の男が、暴力の時代においては、水を得た魚のように突然いきいきとなり、顔から笑みを消し「こら、きさま」などと叫び始めるのではないかと思われ、その時の顔が眼に映る感じになることがある。

あたくしも、このタイプの人間だろうな。いわゆる戦後派。

位置: 867
市川は、どんなに親しい連中が軍歌を歌っている時でも、それには同調しないことにしている。
彼は、軍歌に対して懐しさなど持っていない。恐怖の記憶があるだけである。軍歌を愛好している連中に欠落があるのか、それとも、軍歌に懐しさを見出せない市川自身に欠落があるのか、そんなことは市川にはどうでもよい。彼は、胴間声を張り上げて軍歌を歌っている連中の中に、凶悪な影が動くのを見る気がするのだ。

そこに馴染める人と、そうでない人、いるよね。懐古厨と言われるやつかもしれない。

位置: 896
〈日本人の血の中にはなにかがある〉
と、市川は思わざるをえない。
作家三島由紀夫らの自決にしろ、浅間山荘の赤軍派のあの事件にしろ、テルアビブの空港での乱射事件にしろ、である。
あれは、平和の中に鬱積した日本人の血の小さい噴火のようなものではあるまいか。
市川は、日本人の中に流れているそんな血がきらいである。しかし、彼の中にも、それらの日本人と同じ血が流れていることは確かなのだ。

日本人の血、という言い方がすでに囚われているように思うね。別にそんなもんないよ、という気持ち。ただ個人的な好き嫌いがあるだけ。

位置: 1,071
その頃は、まだ逆さクラゲの印が連れこみホテルの屋根の上にあったが、彼が女たちを連れこむのはたいてい昼間だったので、逆さクラゲのネオンは女の眼には入らない。いったいここはどこだろうと思っている間に、ホテルの雇いの女に部屋へ案内され、女は、そこにベッドを見ているという仕掛けである。
女は半ば 茫然 となっている。不意を突かれたために、女の意識は半ば 痺れていて、その痺れが抵抗力を弱めている。
市川は、後になって、こういうやり方のことを〝アレヨアレヨ作戦〟と呼んでいた。女に考える暇を与えずに一気にことを運ぶという意味である。

こういう楽しみをしてみたかった、という気持ちもあるし、しかし自分は生来的にあっちのほうが弱いのでそれほど楽しめないだろうなという諦観もある。しかしこれはあくまで諦観であります。出来るものなら、そういう遊びをしてみたかったとは思う。続けてやれるかどうかは不明ですけどね。

位置: 1,667
彼は、自分よりも喧嘩の弱い相手を常に見つけていたが、その相手も、いつか突然自分に刃向かってきたりすれば、とても勝目はないということがわかっていた。
市川は、ぼんやりとではあるが、常に自分の欠落を意識し、その欠落が他人の眼に映らないようにと心がけていた。

なんとも言えぬ心理だけど、分かるんだよね。あたくしも欠落を隠してきた人生だから。隠せてきたのかなぁ、結構分かられている気もする。

位置: 1,694
とにかく、市川には、他人にはない欠落があった。その欠落がなんであるかについて、市川自身、はっきりと把んではいないだけに、その欠落は市川にとってはいつも不気味であった。
自分ではっきり欠落の正体がわかっておれば、彼は、予め敵の襲撃に備えることができるのだが、わかっていないために、しかも、敵にはわかっているために、いつも、彼は怯えていなければならなかった。

言語化が出来ないのか、する勇気がないのか。後者のような気がします。その言語化は最後までされなかった。とにかくコンプレックスですよね。

位置: 1,853
「キスもだめか」
三枝子はスカートを掌で延ばすようなことをしながら、「だめ」と、はっきりいった。
「じゃあ、仕方がない、飯にしよう」
三枝子は頷いた。
彼はこの時、自分がそろそろ年を取ってきたために、若い女に相手にされなくなり始めている気配を 嗅ぎ取っていた。

スカートを手のひらで延ばしながら、ってのがリアルでいいよね。

あたくしも四十歳、とうの昔からというか若い頃から相手にされなかったけど、いよいよノーチャンスですね。

位置: 2,004
そんなことをいう時、暢子が、ほんとうはいいたいことを避けているのを市川は覚える。暢子はこういいたいにちがいないのだ。〈あなたは外でなにをしているの。浮気をしてるんでしょう、女の子を抱いてるんでしょう。自分では取材のためなんて思っているかもしれないけど、浮気をして楽しんでいるんでしょう。それで、もしもわたしが浮気をしたらどうなると思うの、あなたはきっと許さないと思うわ。許すとしても、今度は、あなたは大っぴらに、大々的に堂々と浮気をするようになると思うわ。夜も遅く、なんだ文句あるのか、といったような顔で帰ってくるようになると思うわ〉
市川は、暢子がその言葉を呑みこみ、その言葉の代わりに別の言葉を置き替えていることがわかっていた。
しかし、市川は、暢子のそういった罵りを聞く時には受難者のような顔を心がけている。通り過ぎる 嵐 を待つ顔でもある。〈自分の中の正当性をどんなに説明してもおまえには届かない、おまえの理解をうることはない〉と諦めきっている顔を心がけている。

昭和だなー。「三年目の浮気」的なコンプラ違反。女遊びも芸の肥やし、と言うべき世界の話。

位置: 2,025
だから、彼の浮気の熱意の中には、暢子の株を上げるためといった部分も少しはあることになる。そして、これは決して、市川の場合、 屁理屈ではなかった。

いや、屁理屈ですよ。「モテない男が好きなら、俺も考え直すぜ」の世界。

でも、この時代の大半のOSはそういう実装されていないからね。考え方の規範が違う。

位置: 2,189
市川はこれまで講演めいたことをやったことがないかというと、そうでもない。彼は長崎で原爆の経験を持っている。彼自身が受けたわけではなく、彼の母や、二人の妹が原子爆弾で死んでいる。そして、彼は、原子爆弾が落ちてから約一カ月後の荒廃した跡を眼で見ているし、原爆が落ちた時の模様を、生き残った父などから聞いて、知らされている。

この辺の複雑な事情が、市川という人間に深みをもたせてるように、少なくとも周りはすごく思うよね。それだけ原爆被害というのは日本人にとって大きいレッテルになっていると思います。被爆者はその事実だけをもってしても、尊重されるべきと無判断に思ってしまう。

位置: 2,305
だが、四十八歳の市川は、女と一夜を明かしたいなどと、少しも思わなかった。どんな好ましい女とでも、一緒にいてもいいと思うのはせいぜい二時間だった。そして、一度の精力を大切に使うようになっていた。
女との話の種を捜すことも彼は面倒になっていた。だから、じっさいは前後のことがなくて、ただ寝るだけの、そういった女を抱くのがいちばんいいわけだが、矛盾したことに、そういった女を買う気は、彼はまたないのである。
なぜなら、彼は、女を抱きたくて仕方がないといったような体の状態になることがないからである。
ただ寝るだけの、そういった女からは、人格がメスに転化する、あの一瞬のスリルや快楽を得ることができない。しかし、その一瞬のスリルや快楽を得るためには、寝る以外の前後の時間の苦痛を堪え忍ばねばならない。

あたくしとそのへんは真逆ではあるんですが、とはいえ、言っていることを理解は出来ます。あくまで彼は女性を人として扱い、そして寝たいのであります。

あたくしはある意味、メスを求めているのでしょう。

位置: 2,459
運転手は、バックミラーの中から市川を見ながら、そういった。
「害毒を流しながら儲けてるんでしょう。わたしたちは真面目に働いているんだ。汗水たらして働いているんだ。汗水たらして働いてて、いったい幾らになると思ってる?」
市川は胸の中で、
〈そんなことは知っちゃいない〉
と思いながら、運転手の声が昂ぶってきたのを感じると、危険を感じ、開いたドアから降りた。

汗水たらし信者、いまだに根強いですね。YouTubeや芸人の収益のことをあぶく銭、と言ったりね。お金の大切さを知ることは大事だけど、だからといって人の収益を馬鹿にするというのは良くない。めんどうくさいことになるから。職業に貴賎はない、という言葉、意外と重いよね。

位置: 2,468
市川は午前十一時から三時ごろまでしか労働をしない。その労働の内容の殆どは情痴小説である。もっと具体的にいえば、ベッドの上の男女の行為を山場とする小説である。そして、金を稼ぎ毎夜のように銀座に出かけて行く。そういった生活態度を快く思っていない人間が無数にいるはずである。その無数の一人が、たまたまあの運転手というにすぎなかったのだ。
無数の多くは、腹の中でそういうことを思っても、言葉や態度に出さないだけの話だ。
あの運転手は、それを態度に現わした。それは勇気だったのだろうか。しかし、もしかしたら、あれは狭量というものかもしれない。自分以外の考えの存在を許さないファシズムに通ずる一種の暴力というふうに、市川は受け取った。
ただ、彼は、自分があの運転手に較べるといい目にあっているということを否定するわけにいかなかった。
〈自分は運がいい〉
市川は、日ごろ口癖のように、そう自分にいい聞かしている。

気持ち、分かるんだよなー。あたくしは市川なんてほど稼ぎもないし、人から疎まれる仕事でもないけど、「自分は運がいい」という認識、もしくは主義は非常によく分かる。常に言い聞かせています。

たまたま虐待もされず、進学を拒否されず、出自を問われることもなく、受験や面接をかいくぐって糊口を凌げているだけ、という認識。

位置: 2,501
市川は、自分の仕事は所詮平和の 範疇 のものだと思って、あるかもしれない害毒については気にしていない、むしろ、彼の小説を害毒を流すものと決めつけて排斥しようとする態度の中に害毒という言葉も及ばない恐怖を市川は見つけている。それこそファシズムから大量の人殺しへと繫がるものだと考えるからである。

ファシズムへの嫌悪、これは戦中派ならではなのかな。あたくしもある。しかし、現代人をみていると、薄い気がする。歴史に何を学んだのか、という気持ちになるときがあります。

位置: 2,507
それに、彼は、〈世のため人のため〉といった言動を一種の思い上がりだと考えている。
教育とか政治に携わろうとする人物の中に、ひと握り真面目な連中がいるが、その真面目さ自体が思い上がりに思われる。そして、彼らがいう「人」とか「世」の中に、市川は、自分が含まれているようには思えないのだ。
市川は、決して彼の小説を読むファンのために書いているわけではない。

このスタンスも、どこか共感する。少なくとも、そういうことを平気で口に出来る人の思い上がりは、何度も感じてきました。言っちゃだめなこと、の一つだと思っています。だってこれ言う人って、大概、免罪符に使うんだもん。

位置: 3,009
私にはどこか甘い恥知らずな処がある、と、自分では考えている。
この作品も、その甘い恥知らずな面が生んだのではないかという 危惧 が、私の中にはある。
私は若い頃、一度、公園で女の子と一緒にいる処を 強請られたことがある。相手は二人だ。動顚した私は、もちろん、金を渡した。
男たちは離れようとした。
と、私は、まだ自分のポケットに金が残っていることに気づき、「まだあった、これ」と、それを差し出した。相手は、一瞬ギョッとしたようだが、それを把むと、下駄の音を高鳴らせて走って行った。
私の創作の動機や以後の態度の中には、「まだあった」と私にいわせたのと同じ性質のものがあるような気がする。

いいエピソードだ。このエピソードから導き出す結論が「私は甘い恥知らずだ」という結論もいい。

この人の官能小説、読んでみたい気もする。

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