西村賢太著『棺に跨がる』感想 秋恵と破局

呪いである。

カツカレーの食べかたを巡って諍いとなり、同棲相手の秋恵を負傷させた貫多。秋恵に去られる事態を怖れた彼は、関係の修復を図るべく、日々姑息な小細工を弄するのだが――。「どうで死ぬ身の一踊り」の結末から始める特異な手法で、二人の惨めな最終破局までを描いた連作私小説集。〈秋恵もの〉完結篇。

鴻巣友季子さんによる解説「虫歯を噛みしめるような快感――西村賢太の私小説を読む」も収録。

まさに呪い。祝福の逆。それを愉しんで読んでしまう業を感じる。

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西村賢太の主人公にとって、おのが「性分」とは叩き直せるようなものではなく、不治の宿痾だ。作中には「根が~」という言い方が始終出てくるが、今ちょっと本をひらいてみても、「根が人一倍見栄坊にできてる」「根が意志薄弱」「根が歪み根性にできてる」「根が案外の寂しがり」(『苦役列車』)、あるいは「根が機嫌伺いにできて」いるくせに「根がムヤミと誇り高く」「根はかなりのインテリ」でもあり、しかし「根がへまにできて」いるうえ「根が人一倍懦弱」、ところが「根がかなりのスタイリスト」で「根が坊っちゃん気質」(『寒灯』) という矛盾のかたまりのような貫多。どっちを向いても、おのれの根性に首をしめられてしまう。

もしかしたら藤澤清造の足のように見なしていたのかもしれませんね。己の宿痾を。直せない、不治の病を「根」と言い表していたのかも。生涯、なおらなかったのかな。

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本作では貫多の性根はどのようかと言うと、「根が完璧主義」、「根がどこまでも誇り高く、かつ、極めて瞬間湯沸し器的な質にできてる」、「根が生まれついての狂王気質」、「根がデリケートで、幼少時より他人の顔色窺いにできてる」、「多汗症のくせして根がデオドラント志向」、「僻み根性と猜疑心と自己愛のエレメントのみで出来上がってるみたいな、性格が歪むだけ歪んで最早矯正も一切不可能な」ということだそうである。

そう思っているという、自己中心的で傲慢で不遜な、そんな北町貫多に魅せられる人が数多くいる、というのが文学の存在意義なのかもしれません。確かに文学にはそういう要素もあると思う。

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