男の嫉妬はみっともない、を副題に。
万華鏡のように姿を変える、不可解きわまる連続殺人
乱歩が熱烈な賛辞を寄せた、巨匠屈指の名品、満を持して新訳で登場!日暮れどき、ダートムアの荒野で、スコットランド・ヤードの敏腕刑事ブレンドンは、絶世の美女とすれ違った。それから数日後、ブレンドンはその女性から助けを請う手紙を受けとる。夫が、彼女の叔父のロバート・レドメインに殺されたらしいという……。美しい万華鏡のように変化しつづける、奇怪な事件の真相やいかに? 江戸川乱歩が激賞した名作が、満を持して新訳版で登場!
一番の疑問点は、「兄弟なのに相手の顔も知らないってこと、ある?」ってこと。
第二の疑問点は「ルパンでもないのにそんなに変装って上手くいくか?」ということかな。兄弟が見抜けず、方言だの言葉の癖だのが誰にも悟られず、それでいてそれを隠し通し続けられるチカラ。才能があった、で片付けるにはあまりにも不自然では。赤毛の一族なわけだし。
あと、時代もあろうけど、説明が冗長。すべての謎をそのままにしておけないのは良いけど、「もうそこにそんなに拘ってないよ」というところまで延々と教えてくれる。おかげで内容の割にボリュームが多くなってしまい、若干退屈。
第一章 噂
位置: 94
実際にブレンドンが求めていたのは、自分の性格に彼が合わせることを要求したり、自立した暮らしを目指したりはせず、彼自身の分身といえる存在で満足できる女性だった。
100年前からイギリスではそんなこと言ってたんだね。日本じゃここ数十年だもんな。人間の永遠のテーマかもしれないね。
位置: 192
ブレンドンもトラウト釣りの準備を始めた。だが、箱から小さな目のついたフライをふたつとりだし、愛用している髪のように極細のラインにつけながらも、いつになく心ここにあらずだった。先ほど見かけた鳶色の髪の乙女がどうにも頭から離れなかったのだ――四月を思わせる青い瞳――まだ人としての感情に目覚めていないかのような、小鳥のような歌声――機敏ながらも優美さが感じられる足取り。
フィルポッツさんの筆は実に鮮やか。比喩が日本人離れしている。当たり前だ、イギリス人だもの。しかし「4月を思わせる青い瞳」という表現は実に詩的。そしてジェニーが実にいい女。ちょっとロリ入ってるぽい。
第二章 事件の詳細
位置: 415
残ったのは四人の息子たちです。いちばん上がヘンリーで、つぎはアルバート、ベンディゴー、そしてロバート。
そのヘンリーの一人娘がジェニーなんだけど、その設定ってここでしか説明されないんだよね。最後の方に「で、ジェニーって誰の子なんだっけ?」ってなった。
位置: 420
両親が亡くなったのはわたしが十五歳の学生のときでしたから。両親は長年ご無沙汰していた祖父母に会うため、オーストラリアへ向かう船旅の途中でした。ところが彼らが乗った〈ワトル・ブロッサム〉号は乗組員もろとも沈没し、わたしはひとり残されました。
長男ヘンリーは死去。
位置: 467
遺言書には、遺産のすべては存命のいちばん年長者、アルバート叔父の管理下に置くとありました。
このあたりが犬神家っぽい所以。戦後すぐで、遺産相続を巡る兄弟間の争いで、という話なので。
第三章 謎
位置: 1,001
しかしあの大尉が落ち着いた結婚生活を送れるとはとても思えんのですよ。彼は放浪者でした。すべて戦争が原因です――人間的なところがないとまではいいませんが、社会に対する義務や責任といったものに関心が持てない様子でした。
そこはかとない佐清感。全てとは言わんが、かなり戦争の影響が色濃い。このあたりも犬神家ぽい。
第四章 手がかり
位置: 1,305
なによりも、ドリア一族の最後のひとりである青年が最終的に目指している地位と財産は、マイケル・ペンディーンの未亡人が差しだせる程度ではないことは明らかだった。ブレンドンは気づくとこの非凡な青年に嫌悪感を抱いていた。彼は英国人ならばだれもが大切に思う謙遜や自己抑制といった美徳を、これ以上なく陽気かつ無造作に踏みつけにしていた。
醜いのはわかっている、本人もきっと。しかし嫉妬というのは厄介だね。
位置: 1,309
商品としてのおのれの価値を正確に評価しているところは感嘆に値した。
客観視、というのは武器だよね。人類史を通して有用だったし、今後もそうなんじゃないかな。
第五章 目撃されたロバート・レドメイン
位置: 1,652
しばらくしてまた〈烏の巣〉を訪ねるのが賢明かどうか、時間をかけて検討したところ、再訪したいとの強い思いに駆られた。とはいえ、さすがに明日また訪ねるつもりはなかったので、春が近づいたらベンディゴー・レドメインに招待を思いだしてもらうため、手紙をしたためようと心を決めた。そのころには、いろいろなことに変化が起きているかもしれない。というのも、ブレンドンは夫人と手紙をやりとりするつもりだったのだ。とにかく手紙という形で最初の一歩を踏みだしてみることにした。
ブレンドンの奥手っぷり。フィルポッツがどう考えていたかわからないけど、童貞的設定を間違いなくブレンドンに課しているよね。そしてそれが捜査をややこしくする、という。
第七章 約束
位置: 2,107
ブレンドンとしては彼独自の立場から、ああした移り気で、違和感があるほどハンサムな男は、まだ若いジェニーの人生に遠からず苦難をもたらすのではないかとの危惧を拭いきれなかった。
手のひらで踊らされている、まんまと。ブレンドン、可哀想に。
第九章 ひと切れのウェディング・ケーキ
位置: 2,791
とはいえ、そうした確信めいたものを感じたところで、こうして知らされた事実の衝撃が薄まるわけではなかった。この先いつまでもジェニーのためなら力を貸すことを 厭わないと、無意識のうちに自分に誓ってはいたが、この愛は今日かぎり忘れ去るしかなくなった。希望という希望は断たれたわけで、今後、仕事で顔を合わせることになるとしても、それがどういった事情になるのかは見当もつかなかった。その夜は眠れぬまま、ドリアの妻となったジェニーと過ごした時間をひとつひとつ思いかえして、 煩悶 することになった。
ブレンドン……悲しいよ。あたくしの過去の恋愛を思い出した。なんという切なさ。いま、40になって思うのは、魔性の異性に体よく遊ばれるというのは必要な通過儀礼なのかもしれないということ。
あのとき、体よく遊ばれたからこそ、今の自分があると思うしか。
位置: 2,798
わずか九ヶ月前には夫を亡くして嘆き悲しんでいたあの優しい女性が、嬉々として軽い気持ちで違う男との再婚に踏み切るということがありうるのだろうかと疑問に感じたのだ。彼の記憶のなかのジェニー・ペンディーンは、突然夫に先立たれて深く苦しんでいた。それがつい最近知りあったばかりの男と再婚し、いまではもうなんの不満もない幸せな花嫁になっているなどと、はたして納得できるだろうか。
揺さぶられてるなぁ。。。ジェニーに夢中。嵐で見えやしねぇ。
第十章 グリアンテにて
位置: 3,071
ポッジはいちばんの親友の当面の身の安全と、 幾久しい健康を願って乾杯し、アルバートは丁寧な挨拶で応じた。一同はおいしい食事に舌鼓を打ち、そのあとはポッジの薔薇園に場所を移して六月の夕暮れを過ごした。日暮れどきのそよ風に乗って漂ってくる 夾竹桃 と 銀 梅花 の香りを楽しみ、夕闇にぼんやり見えるオリーヴや薄暗がりに沈む糸杉のあたりを舞う蛍の小さな光を 愛で、カンピオーネやクローチェの山頂あたりで 轟く夏の雷に耳を澄ました。
フィルポッツさんは、このあたりの描写が実に優雅。ミステリ一辺倒ではないのが魅力よね。夾竹桃(きょうちくとう)だの銀梅花(ぎんばいか)だの、どんな香りがするのか知らない。しかし、読むだけでうっとりとするようないい描写。
悲しいかな、草木に全く興味のない自分には、文章でのみ味わうものですけれど。
第十一章 ピーター・ギャンズ氏
位置: 3,218
さて、レドメイン事件では、よく考えられた作為が組みあわさって、きみに物語を見せた。そしてきみは気づくとそのほら話にすっかり魅了され、仕組みのほうは完全に見過ごしてしまった。だが、その仕組みこそ最初に考えるべきだったんだ。奇術師たちはきみの注意を仕組みから 逸らしておいて、まんまと自分たちの計画を実行に移したわけだ。そこでその仕組みに注目して、この事件の背後に隠れている悪党どもがどこできみを騙したのかを考えてみよう」
どうやらやっと名探偵が登場したらしい。すっかりブレンドンがその役だとばかり。ブレンドン、完全に引き立て役じゃないの、かわいそうに。
第十二章 ギャンズ、舵を取る
位置: 3,382
「闘いの半分は事件の発端がどこにあるかを突きとめることにある。事件の真の発端がわかれば、結末はほぼ約束されたようなものだといってもさしつかえないだろう。複雑に絡みあったレドメイン事件について、きみはそもそもの発端を突きとめていないんだ、マーク。
ギャンズが終始優しいんだけど、それがブレンドンを苦しめている気がする。格の違いを感じます。
トリックとしては『ナイルに死す』『不連続殺人事件』と同じ、「あり得ない男女が実は共犯でした」パターン。当時の身分証明のあやふやさが起こしたといえばそれまでよね。
第十三章 突然、英国へ
位置: 3,822
「うまくご説明できませんけど。もうすでにお話ししすぎたような気がします。夫の残酷さは本当にわかりにくいんです。イタリア人の夫というものは――」
役者よのぅ。そしてステレオタイプ撒き散らし型犯罪。
多分、根深い文化的違いがあるんだろうね。そういえば、あたくしの友人のイタリア人は総じて真面目なんだね。あんまり地中海ぽさを感じない。
位置: 3,833
「とんでもない――人生という名のジグソーパズルの場数を踏んでいるだけだ。
この謙遜、やるよね。日本人だけじゃないんだ。イギリス人も気質としては近いのかも。謙遜の美学があるのかしら。
第十七章 ピーター・ギャンズの手法
位置: 5,134
当初からすべてが、被害者とされる人物よりも殺人犯とされる人物のほうに注目を集めるように仕組んであった。
まさにこのミステリの肝です。とはいえ、誰も兄弟の変装が見抜けないというのは、それはそれで不自然だけどな。
第十八章 告白
位置: 5,393
その異例の手記は、この犯罪者の特徴をあますところなく伝えていた。ある種の 刺戟 には満ちていたが、真の個性や偉大な作品にふさわしい品格に欠けていた。まさに手記に記されている犯罪や、その犯罪を実行した人間にそっくりだったのだ。マイケル・ペンディーンの告白は、人間らしい感覚の欠如、不適切なユーモアのセンス、派手で大掛かりなものへの偏愛をさらけ出しており、犯罪史なり、文学史なりに残るすばらしい作品たりえない理由もそこにあった。
フィルポッツ、相当な自信である。その「素晴らしい作品たり得ない」手記をちゃんと書くんだから。確かに手記の節々からにじみ出る不遜な感じは「素晴らしい作品たり得ない」と思います。さすが。
位置: 5,665
自分の才に自信がある妻は、ブレンドンに頼んで熱心に捜査にあたらせ、事件を複雑なものにすることに成功した。これの効果は上々だった。哀れなブレンドンは、そのうちみずから進んで カモ となるようになった。そして無能な彼が手抜かりを重ねたおかげで、その後起こった事件に無数の喜ばしい特徴が加えられた。未亡人ジェニーに対して芽生えたブレンドンの恋心が、そもそも凡庸な彼の能力をさらに役立たずにしたのだ。
プライドがズタズタでしょうね。確かにブレンドンはもう刑事を辞めるしかない。このブレンドンの無能ムーヴが、「ナイルに死す」との大きな違い。物語を面白くしていますな。時系列的には「ナイルに死す」のほうが後でしょうけど。
位置: 5,673
ベンディゴー・レドメインが受けとった、ロバートがプリマスで出したと思われていた手紙は、ジェニーが〈烏の巣〉へ向かう途中で投函した。その一週間前にロバートのひどい悪筆をじっくりと研究したのち、ふたりで書きあげたものだった。
ひどい悪筆は偽造だった、とするやつ。偽造出来るとするなら、それって物語に出すのは不誠実だと思う。ミステリをゲームとして愉しんでいる人間からするとね。
解説/杉江松恋
位置: 5,993
イーデン・フィルポッツ、インドはマウント・アブー生まれで、ハリントン・ヘクストの別名もある大作家である。かのアガサ・クリスティが少女時代にフィルポッツの隣人であったことは有名で、十六歳のときに『砂漠の雪』という習作を見せて助言をもらっている。『アガサ・クリスティー自伝』(一九七七年。邦訳、クリスティー文庫) に彼女の見たフィルポッツの描写があるが「異様な顔つきの人で、ふつうの人間の顔というよりはギリシャ神話のパンの神の顔に近かった――まことにおもしろい顔で、長細い目が端のほうでつり上がっていた」とかなり失礼である。
クリスティ(笑)ルッキズム……なのかな、今で言うなら(笑)
位置: 6,042
この小説にはミスリードがありますよ、ちゃんと見抜けましたか、と。ギャンズはブレンドンが「最初から誤った仮定をもとに行動していた」と断定する。位置: 6,044
視点人物としてのブレンドンは「信用ならざる語り手」だった、と明かしたわけである。
信用ならざる語り手、というのはあまり個人的に好きではない。語り手が子供、とかならまだしも、ブレンドンのような「いかにも信用できる人」が信用ならざる場合、読者はブレンドン同様に騙されるしかないからね。
位置: 6,062
フィルポッツ/ノックスによって探偵小説の趣向は多様性を増し、フェアプレイのありようも一段と深化したのだ。
まったく歴史上において大変に意味のある作品だったということですね。なるほど、ミステリを語る上でも勉強になりました。
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