『忍ぶ川』感想 自意識が邪魔をしすぎている 4

なんでこんなに引用するんだろうか。別になんてこと無い作品なはずなのに。

  • 恥の譜

位置: 2,491
香代 というのは、私にひとりのこされた姉の名である。この姉は、人目をはばかる生まれつきで、これまで郵便局などに足を踏み入れたことのない人であった。それが田舎の郵便局の暗い土間に傾いている、インクのしみたぐらぐらの机の上で、局員たちの好奇な視線を浴びながら、《帰れ》とも、《帰られたし》とも書くことを知らず、むきだしの話し言葉で、《帰って》と書いているさまが、一瞬のうちにありありとみえ、私はただならぬ思いに駆られてまたさいしょから読みかえしたが、やはり肝心の冒頭の五字は目が 字面 をすべるばかりで、実感がなかった。

正直な感想なんだろうな。
人目をはばかる生まれつき、って残酷な言葉だね。家族だから言える。

位置: 2,659
「さぞかし 兄さんが会いたかろうが。 文蔵 さんはともかく、 卓治 さんだけでも帰ってくれたらねえ。」
叔母は恨みがましくそういったが、私はすでに兄たちのことはあきらめていた。長兄文蔵が死の旅へ出てから二十年、次兄卓治が背信の旅へ出てから七年であった。その間、どちらからも音信がなく、生死不明であったけれども、たとえどこかで生きていて父の 瀕死 を知ったとしても、 彼等 の性格から推して、いまさらおめおめと帰宅することはありえなかった。彼等は、私たちを捨てたひとである。捨てられたものには捨てられたものの生き方がある、と思って私たちは生きてきた。私たちの生活には、もはや彼等の帰参する余地がないのである。

捨てられたものには捨てられたものの生き方がある、ってね。
そんで主人公はカミさんの内職で食ってるわけですよ。なかなかご立派な。
その帰参する余地がない生活を招いているのは?と言いたくなるが、よく考えたら労働がそもそも悪でありました。

位置: 2,681
それ以来、私は父の手を、すすんで父の意志にまかせようとした。父が私の喉仏を 掴もうとすれば、私は 唾 をのみこむことをあきらめてそれにまかせた。鼻を掴もうとすれば呼吸をとめて待った。
まよなかに、父とならんで仮眠していて、父を呼ぶ妻の声にふと 目 醒め、みると、父の手が妻の乳首を、ワンピースの上から小突くようにゆさぶり、 叩くように 撫ぜ、果てには指と指とのあいだで乳首を 挟もうとし、けれども妻は逃げもせず、 羞 らいの微笑をうかべながら、「お父さん、お父さん。」と小声で父をたしなめていて、私はそれを、父がこれまでに私たち子等と共に演じてみせた最も親しみのこもった情景として目に収め、そのまままた眠りに落ちた、そんな夜が幾度かあった。

妻の乳首をつまむ父親。それを羞じらいで受け止める妻。地獄絵図のような気もしますがどうなんでしょうか。

位置: 2,731
下 のものをとり替えるとき、父の腹をうしろむきにまたいで 両膝 をもち上げるのが私の役目であったが、五尺八寸、十八貫、豊かな百姓の子で骨節がふとく、中学時代に柔道を学び、 二十 で呉服物の 老舗 の長女であった母の 婿 に迎えられてから、生来小才の 利かない身が多勢の番頭たちに 揉まれて右往左往し、ほどなく町の商売にいやけがさして、ある日、だしぬけに、「東京へ出て力士になりたい。」といいだして母を泣かせたという父のからだは、もはやみる影もなく、脚をにぎろうとすると 蒼 ずんだ皮膚が骨の上をすべり、もち上げると、腰までふわっとうかぶのであった。

なんだか切ないよね。父親が妙に軽かったんだな。
ここの文章、とても好きだ。

位置: 2,776
父は、目にみえて衰えていった。そうして、いまははっきり死期を感じたらしく、もうほとんど動きをうしなった父のからだから、あせりのような、 煩悶 のような、みるひとの胸をせつなくさせるような、一種の気配が感じられた。そして、頭痛を訴えた。うわごとのように、「花火が。」といったりした。脳の毛細血管が、線香花火のようにぷつぷつと破裂していくさまが、父の暗い網膜に映ってみえるのではないか、と私は思った。

そうかも。なんだかリアル。

位置: 2,816
それにしても、父は死体となってから、逆に生き生きとした表情をとり 戻したことはふしぎであった。私は、暇を盗んでは 北枕 に寝かされた父の死体を見舞い、白布を上げて父の死顔にみとれた。そこには刻一刻、ふしぎな変化がおこなわれていた。まず、闘病の苦渋にゆがんだ表情が次第にうすれ、その下から味気なさそうな白面があらわれ、そうして最後に、その白面が色づきはじめた。
死が仕掛けて行った 悪戯 であった。しかし、そうは思いながらも、七十年にわたって父をさいなみつづけてきたさまざまな感情──恥、悲しみ、悔恨、自責、祈り、あきらめ、その他およそ安楽とは無縁の 翳 がさっぱりと落ちた死顔の上に、これまでみたことのない、ふしぎなやすらぎの表情がうかび上ってくるのをみたとき、私はやはり、悔恨をまじえた一種の感動をおさえることができなかった。私は、たとえてみれば 翁 の面そっくりに完成した父の死顔を 眺めて、こんな豊かな表情がもし生前の父にあったのだとしたら、それを汚辱で塗りつぶしてしまったのは上の四人のきょうだいの罪であり、そうして父が生きているあいだにその汚辱を 雪ぎえなかったのは私の恥だと思った。死だけがそれをなしえたのである。そして、私の恥は永久に消えない。

ヒロイズムに陥っている主人公の醜さはさておいて、しかし気持ちはわからなくもない。父の死というのは息子にとって他の何にも代えがたい何かしらの感慨があるんでしょうな。幸い、あたくしの親父はまだ生きております。

  • 幻燈画集

位置: 3,223
店のなかには、いつも 醤油 と油と酒の匂いが入り混じった、濃厚な 温気 が 籠っていた。キンボシの客は、土工、馬方、 虚無僧、車夫、旅芸人、大道商人といった人たちで、それが車座になって 丼 を叩き、調子はずれの 唄 を歌う光景に、私は心を奪われた。そして、こんなよごれた温気のなかに身を沈めている私を見たら、母はどんなに悲しむだろうと思い、自分がなにかうしろめたいことをしているという実感で心が不思議に和むのを感じた。

背徳に浸る喜びって確実に存在します。人間てのは厄介なもんだ。

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