『<新版>日本語の作文技術』感想3 一理ある、一リアル

しかし指摘はごもっとも、なんですよね。

位置: 2,188
たとえば、「クジラ・ウシ・ウマ・サル・アザラシは哺乳類の仲間である」というとき、イギリス語などは「クジラ・ウシ……andアザラシは……」という並べ方をする。つまりandは最後のひとつにつけ、あとはコンマで並べていく。翻訳でもこれと全く同じ調子で「クジラ、ウシ、……そしてアザラシは……」としている無神経な著述家がある。だがこの表現は、日本語のシンタックスにはないものだ。この場合正しい日本語にそのまま置きかえるなら、反対にandに当たる助詞を次のように前にもってくる。「クジラ や ウシ・ウマ……アザラシは……」

これ、あたくしもやっちゃいますね。無神経と言われても仕方ない。

位置: 2,220
SOV語  語順として目的語( O)が動詞( V)の前に現れる言語のこと。ペルシャ語・インド語・ビルマ語・チベット語・バスク語・ラテン語・朝鮮語・アイヌ語等世界にたいへん多い。反対に SVO 語はイギリス語・スペイン語・フランス語・ベトナム語・ロシア語・中国語など、どちらかというと言語帝国主義的な、いわば〝主流〟の体制側言語に多く、こんなことから日本の植民地型知識人の「日本語の特殊な語順」といった無知も出てくるのであろう。なおケルト語は VSO となる。もし S(主語)が存在しない言語ということになれば日本語などは OV と表すことになり、問題は OV か VO かだけになろう。

植民地型知識人、とか言い方に品が無いとは思います。おじさんですからね。品とは無関係に生きている。しかしそういうシンタックスごとの区分があるというのは面白いし勉強になります。

位置: 2,263
こうして段落を考えながら再読してみれば、最初の一行「山椒魚は悲しんだ」はどうしても改行の必要なこと、行をかえ なければならぬ ことが、あらためて理解されよう。もしこれをつづけてしまったら、まるで小指を切って 脛 に移植するようなものだ。改行は必然性をもったものであり、勝手に変更が許されぬ点、マルやテンと少しも変わらない。
ところがわが祖国日本では、編集者にこの知識のある人が残念ながら意外に少ない。

位置: 2,306
小説家の、とくに流行作家の中には、まるで一センテンスごとに片端から改行する人がある。マルをうてばすぐ改行だ。印刷された紙面をみると、こういう文章は 隙間 だらけになる。

小言おじさん全開モードですね。
いや、たしかに改行については最近は乱れに乱れています。むやみな改行は本当に多い。このスカスカな文章が好まれているんですな。質実剛健、大艦巨砲主義の昭和おじさんには理解できない。

位置: 2,404
こういう文章を自分では「名文」だと思っている人がかなりあることの責任の一半は、たぶん新聞記者にもあるだろう。ほとんど無数に氾濫している紋切型の言葉の中から、頭にうかぶものをいくつか列挙してみる。── 「ぬけるように白い肌」「顔をそむけた」「嬉しい悲鳴」「大腸菌がウヨウヨ」「冬がかけ足でやってくる」「ポンと百万円」……  雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。「穴のあくほど見つめる」という表現を一つのルポで何度もくりかえしているある本の例などもこの類であろう。

確かに新聞の言い回しってありますよね。志の輔落語で「捜査のメス」「バールのようなもの」の陳腐さを笑う根多がありましたが、まさにそれで、思考停止なんですよね。言葉を扱って飯を食う人間への求めるレベルの高さがうかがい知れます。

位置: 2,465
それに「ように思われる」といったいいまわしは、断定を避けていかにももってまわった「お上品ぶり」を示すのに好都合だが、要するにこれは事の本質をオブラートで包むための技法であり、謙虚さを売りものにしている 慇懃無礼 な態度にすぎない。これは典型的「社説用語」のひとつといえる。真に「ように思われる」ときだけに限定して使うべきであろう。

あるなー、これ。「気づきを得る」とかね。お上品ですわ。

位置: 2,543
中学生のころ私はラジオで落語ばかりきいていて、よく「また落語!」と父にどなられたけれど、いくら叱られてもあれは実に魅力的な世界だった。ずっとのちに都会に出て実演を見たとき驚いたのは、落語家たちの間の実力の差だ。ラジオでももちろんそれは感じたけれど、実演で何人もが次々と競演すると、もうそれはまさに月とスッポン、雲と泥にみえる。私の見た中では、やはり桂文楽がとびぬけてうまかった。全く同じ出し物を演じながら、何がこのように大きな差をつけるのだろうか。

そしてやはり落語おじさん、そして文楽おじさんでしたか。

位置: 2,553
名人は毛ほどの笑いをも見せないのに反し、二流の落語家は表情のどこかに笑いが残っている。チャプリンはおかしな動作をクソまじめにやるからこそおかしい。落語家自身の演技に笑いがはいる度合いと反比例して観客は笑わなくなっていく。  全く同じことが文章についてもいえるのだ。おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。

芸についても一家言あるわけですよ。言い足りないおじさん。
しかし本当に一理ある。こっちが笑ってちゃだめ、ってのは落語をやる側としても肝に銘じておかないといけないところ。

位置: 2,560
野間宏氏は、このあたりのことを次のように説明している。

文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来あがったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければいけないのである。対象の特徴そのものが、その特徴のふくんでいる力によって人に迫ってくるようになれば、そのとき、その文章はすぐれた文章といえるのである。(『文章入門』)

レベル高いこというなぁ。落語もそうですね。演者が消えてこそ、という人もいる。どの話やっても「演者」って名人もいますけどね。

位置: 2,698
この誤った用法が発達したのは、敬語を正しく使えない人々が何でもかんでもデスをつけてごまかした結果かもしれない。「うれしうございます」といえなくて「うれしいです」とごまかす。「あぶないです」は「危険です」か「あぶのうございます」のごまかしだろう。つまりこれは敬語のサボリ用法ともいうべき邪道なのだ。敬語の正しい用法のむずかしさに現代がついていけず、こうしたサボリ用法を生んだのであろう。

気がつくと自分もサボリ用法を多用しています。気をつけなければならない。最後の砦は「ありがとう」ですね。ありがたいです、にならない。あくまでありがとう。

位置: 2,703
共通語(いわゆる標準語)として一方的に決められた「東京・山の手」の言葉は、徳川家の出身地の三河系の言葉が江戸時代に武士社会で有閑階級的発達をとげたもので、下町の江戸庶民はあんな生活の匂いのない言葉など使ってはいなかった。その意味では、サボリ敬語はむしろ喜ばしい傾向なのだろうか。

標準語は三河系の言葉から来ている、という。なるほど、そうでしょうね。

位置: 2,709
事実、戦後の国語審議会が提出した『これからの敬語』では、形容詞の原形にデスをつけるこのような言い方(「小さいです」など)も許容範囲に入れている(金田一春彦『新日本語論』一四〇ページ)。敬語が簡略化すること自体はたいへん良いと思う。日本の敬語がむやみと階級的に規定されていたのは大都市のしかも「上流」社会でのことで、いなかの庶民社会はそんな差別はない。たとえば私の故郷・伊那谷では、一人称は男はオレ、女はワシだけしかない。東北地方の多くは男女の違いさえなく、女もオレという。

なお金田一氏のこの本は、「日本語は乱れている」とする〝歴史的かなづかい派〟への痛烈な反批判となっていて、福田恆存氏らの非論理性を暴露している。また「だった」を嫌って断固「であった」を貫いた森鷗外や、「ぼく」を嫌った柳田國男、山田美妙の用語法に泣いて怒る山田孝雄など、言葉の趣味と品に関連するおもしろい事例も多く、多いに考えさせられた。「あぶないです」を嫌う私の態度も、結局は趣味の問題にすぎないのかもしれない。だからといって「どうでもいい」わけではないが、趣味を他人に押しつけるのは悪趣味ということにはなる。

自覚はあるんだ。おじさん。でもしょうがないんだ、怒るしかできないのだ。人間、歳を取ると他人に不寛容になる。そのことは常に意識して老いていきたいですね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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