『落語論』感想 堀井憲一郎著 落語語りは自分語り……か?

落語を論ずる、というのがまず無理なんですよ。

ファン待望、ホリイの落語入門がついにお目見え! なぜ同じ噺を繰り返し聞いても飽きないのか。うまい噺家はどこがどうすごいのか。当代一、落語会・寄席に通い、噺家すら恐れる著者だから書けた渾身の落語論。

極論すりゃ、人の趣味に良し悪しを言おうってんだから、そりゃ野暮たくなる。それって落語から最も遠いものじゃない?

第1部 本質論

位置: 170
大きな名であろうと、符牒である。意味はない。だから死んでその名が空いたら、誰かが継ぐ。それが当然のことである。個人のものなのではないのだから、無駄にはせず、どんどんと継げばいい。死んだ人は帰らない。残された者は手を合わせて、自分たちの生を生きなければいけない。死んだ人が残したもので、使えるものは使う。薄情なのではない。自分もやがて遠からず死ぬ存在だということをきちんと意識しているだけだ。

ね、志ん生・圓生に言ってるんだと思うんですがね。圓朝とかね。早く継がないと誰も継げなくなっちゃうよ。神格化が始まる。てか、もう始まっちゃってますね。
結果、アンタッチャブルになる。それって大衆芸能にとってどうなの?ってね。

位置: 226
きちんとした演者の手にかかると、そう薄っぺらなものにはならない。スローモーなやつを注意している短気な男も、かなりおかしい男であることを見せてくれる。気の長いスローモーな人間もオッケー、短気でぽんぽん言う男もオッケー、どちらも変だとおもえば変だし、でもそれはそれでありだろう、ただ二人は食い違っておもしろいし、それに何故か仲のいい友だちだ、おもしろいな、というそういう複合性を見せてくれる。わかりやすいものだけが人の世ではないことが、短い落語からも浮かび上がってくる。
キャラだけを優先して作ると、気の長い男はゆっくり喋るボケ、気の短い男は早い口調だからツッコミ、そういう表面的薄っぺらな落語になる。それがキャラ落語だ。

『長短』について。単なる品のないかけあい漫才ではなく、おぎやはぎの漫才ような、イチャつきに昇華してくれる。その方が落語的だね。あたくしもそう思う。

しかし、かけあいの方が好きな人もいるからね。薄っぺらいって言葉が適切かしらね。
ま、全方向への評論ってのはつまらないからいいのか。

位置: 344
落語は体験である。身体で受け入れないと、感じることができない。あらすじ本は「落語は言語である。言語から落語はわかる」という方針で作られている。絶望的なおもいちがいである。落語側が主張すべきなのは、落語の文学性ではなく、身体性なのだ。あらすじを知ったところで、どこへも行き着かない。

膝を打ちます。落語は文学性ではなく身体性。そうですね。

位置: 466
CDで落語を聞いているときは、情報が欠如してるのを意識しているために、欠如部分を補助しようと、落語そのものに近づいてゆく。落語に参加しようとする。ところが映像を見ると落語がほぼすべて再現されているとおもっているから(落語を見慣れていない人は、というのが前提であるが)、受け身で見てしまう。

CDやラジオで聞く落語は、良いのか駄目なのか。
あたくしはラジオで落語を聞いて育った派なので、あまり否定されたくはないなぁ。

位置: 474
落語は十九世紀のものだ。十九世紀的空間に居ることを前提とした演芸である。

極論だなぁ。思いついた強烈なフレーズを使っているようにみえる。そこまで言うかしら。

位置: 524
歌舞伎はともかく、落語と相撲に関しては、天明以前に遡るのは、さほど意味のあることではない。「大相撲」の始祖は、谷風梶之助である。天明寛政年間の力士だ。それ以前の最初の三人の横綱、明石志賀之助、綾波レイ、丸山権太左衛門、は架空の横綱である。

綾川五郎次を綾波レイとさらっとボケている。ノーフォローである。
最初誤植かと思いました。わざとか?分かりづらいボケだ。嫌いじゃない。

あたくしも落語『阿武松』やらせていただくことがありますが、そこはそれ。

位置: 679
演者は、客との融和を常にめざしている。客との和を以て貴しとなす。
落語家の心得第一条である。
ただ、形而上的な理想的な〝和〟をめざさなくていい。善である必要はない。その場かぎり、身過ぎ世過ぎとしての〝和〟である。善でなくていい。悪でもいい。和があればいい。この心の動きは、日本人の心根とかなり近い。落語のもつ根源は、日本人そのものと言ってもいいかもしれない。
落語家は、客を「総体」として考え、集団の意志を読まなければいけない、ということでもある。

ヨイショは心得第一条である、ということか。
高座に上がるときは、あたくしも肝に命じないとね。

位置: 731
演者がめざすところは「自他の区別をなくす」ということにある。
自他の区別に頓着しなくなれば、不思議な空間を共有しやすくなるのだ。
自他の別をなくす、とだけ聞くと、仏教の講話のようである。でも、それが落語の目的なのだ。我を忘れさせることが、演芸の目的であり、自己解放させられれば値段ぶんの満足感を抱いてもらえる。

確かに、自分という存在が無くなる感覚、名演の時はありますね。
あれ、なんだろうね、気持ちいいんですよね。

位置: 784
すごく簡単に言うと、野生の猿が生息してるエリア(東洋)に、猿が生きていけないエリア(西洋)の連中の考えを持ち込んだところで、底まで馴染むことはない、ということである。おれたちは猿と一緒にやってゆくしかないのだ。狐も狸も一緒だ。
落語は、そういう近代西洋的発展の世界と別に存在している。
ちなみに、日本は、そういう近代的発展世界とは、最終的に同一化すまい、という気持ちを底に持ち続けてるとおもう。

だいぶこじつけが過ぎるように思いますけどね。
すべてを繋げようとし過ぎでは。落語評論ではあるのかもしれないけど、それにしたって荒唐無稽に思いますね。世界の事情を短絡的に帰結させようとしすぎ感。

位置: 813
それは「すべてのものを細かくしたうえで、原理を突き止め、突き止めれば反転して大きく広げ普遍性を獲得したい」という近代の異常な欲求を、疑問に感じてる、ということでもある。人類全体へと広がる普遍性への拒否である。  落語は普遍性を拒否する。

うーん、難しくってよくわからん。落語は普遍性を肯定もしていると思うんだけどな。
「人間、こんなもんだ」ってね。

第2部 技術論

位置: 935
(若手によく見る失敗に、女房が亭主を怒るときに、本当に不愉快さを滲ませる、というのがある。リアルさを出そうとして、きちんと不愉快な音を出してしまう。だいたいの場合が必要以上のキンキン声である。

これね、自分もやっちゃうんだけどね。
落語の世界に不愉快さを持ち込むときは注意しないと。誰も傷つかない優しい世界を、お客様はご所望であるという理解。

位置: 945
心地いい音を出すためには、まず、自分の声を知っているほうがいい。
己を知り、敵を知らざれば、一勝一負する。孫武が言ったとおりである。

敵を知る、というのが無理だからですね。よほど固定の会でない限り、お客様は流動的。ならばせめて己を知って、一勝一負で乗り切る。これは大人でベターな選択かと。

位置: 953
一番肝心なのは、自分の声のうち「もっとも心地よく聞こえる範囲」を把握しておくことである。大きく分けて「高い声がとても伸びて心地いい」というタイプと「低音部分が響いてきて心地いい」というタイプになる。無理に分けるなら、高い声が陽、低い声が陰になる。(まあそれは声質としての陰陽なので、それとその人が存在として陰なのか陽なのかというのは別の問題である。)
一番いい声を把握しておかないと(客席から見かけるかぎり、けっこう把握してなさそうな演者がいるのだ)、いざというときに届かなくなる。
ここぞ、というときに、一番観客に届くゾーンの声を使ったほうがいいのだが、そういうことをやらない演者がいる。勢いで、その瞬間だけ印象的な声を出せば届く、というものではない。

そうかもしれない。自分はまだ把握していないな。
『片棒』という落語で、鳴り物だの木遣だの、口演するシーンがあるんですが、自分はあそこがどうも上手に出来ない。きっと把握できていないからというのも一因じゃないかしら。

位置: 1,069
見かけるので多いのは「あ、志ん朝のメロディだ」というものだ。歌い調子で通そうとして、破綻をきたしてる今の落語の多くは、志ん朝のような落語をやりたい、と願って、その願いを神様が却下したときに起こっている。気持ちはわかるが、なかなか悲惨な結果をもたらしている。

やっちゃうよね……素人なんか特に、志ん朝メロディ多いです。
自分もいくつかの根多は志ん朝でやってる。演り良いんですよね。自分で酔っちゃう。

あのメロディが良くて素人ながら落語やっちゃう、なんてこと、あるからね。

位置: 1,405
絶賛される小三治の「長い間」は、その無音の時間がすごいのではなく、その無音の時間も待たせる小三治の制圧感がすごいのである。黙っていても、緊張を持続したまま次の言葉を待たせることができる、その客のつかみぐあいが見事なのだ。

あれって小動物をみていて「次なにするかな」って思うのに似てるんですよね。小三治師匠にはそれがある。人間国宝になって、より箔がついた気がしますね。

「セリフ、飛んじゃってないかな?」って素人とは大違い。

位置: 1,429
だから「小三治の間がいい」というセリフを省略せずに言うと「小三治は異様に長い間を取るが、その間も客の緊張線を途切れさせずずっと引っぱっていける、すごい芸人だ」ということに

そうそう。間をもたせるチカラってのがある。
あれは他の追随を許しませんね。のんびりした語り口調とはまた違った風味。

位置: 1,492
簡単に言えば、ボケに力を入れないこと、である。

位置: 1,499
おもしろみは、与太郎が馬鹿なことを言ったあとの隠居の言葉、その流れの中にある。
だからたとえば、隠居が本気でつっこまないようにしたほうがいい。馬鹿なことを言う若者に対して、対立しないほうが笑いが生まれる。暖かく見守って、諭すような、それでいて少々声を張るような、そういうほうがより受ける。

ツッコミじゃない、ってことね。

この芸論はためになります。あたくしもついついやっちゃう。ちゃんと与太郎を愛して、そして指導しないと。

位置: 1,511
ふつうに無理のない会話を続けていくだけ、という心持ちで演じられている落語はみていてとても心地いい。ギャグを突出させないということであるし、突出させるにしても流れを壊さないということだ。

心地いいんだ、あれ。なんでしょうね。
ぬるま湯感あるんですよね。

位置: 1,555
だから、落語家がめざすべきなのは「受ける落語家」ではなく「すべらない落語家」なのだ。「好かれる芸人」ではなく「嫌われない芸人」である。
自分のいい声はどのへんにあるのか、ということを自覚し、最初に与える声の印象は陰なのか陽なのかを把握しておかないといけない。

己を知り、敵の傾向を知り、100戦0敗を目指す。
それが目指すべき道なり、ってね。

確かに、自分にも、好きだけど演らないって話が、もっとあってもいいかもしれない。
片棒とかそうかも。

第3部 観客論

位置: 1,699
いまの時代の潮流と空気の中では小朝を聞くと、期待していたものを与えられないために、マイナス評価になる。それが連鎖して、小朝の評価はいま異様に低い。

寄席に出られるのに出ないから、もあるかな。
立川流とは違って、落語協会なら出てもいいのに、金払いの良いオバサマばかりを相手にしているイメージがあります。芸がどうの、って話はあんまり聞かないね。

あたくしは小朝好きで、地元に来るときは大体行ってますけどね。

位置: 1,712
好き嫌いからは簡単には逃れられない。これはまさに、人間の業そのものである。

そうだね。ほんと、痛感するよ。

位置: 1,773
立川志の輔がインタビューで「落語は一人で聞きにきてください」と言っていた。何人かで聞くと、お互いの笑いのポイント、つまらないとおもうところが違っているのに、一緒に来た人と合わそうとする。それは不幸である。

位置: 1,779
人それぞれの落語がある。落語体験を最初から共有しようとしないでくれ、ということだ。

それはあるなー。でも、つい誰かと行って意見交換したくなる。それも業かね。

位置: 1,785
(ちなみに、近年の談志は、無意識層のものまで表現しないと落語ではない、という過激な考えを持つに至り、落語はイリュージョンである、と言っている。残念ながらこのフレーズは、弟子の志らくだって、よくはわからない、と言っていたくらいなので、万人には理解できるものではない。あの談志が、キャッチーなフレーズを出せないということは、すでにそのテーマは一般人の手に負えないエリアに突入してるということなのだろう。

小朝も談志も、ちょっと若い時に受けすぎたところはありますね。
若くして頂点に上り詰めたというか。完成しちゃったのかな。談志師匠はそこからはずれようともがいているのもまた、可愛らしくて良いんだけどね。

位置: 1,831
落語に関する発言は、どうしても私的なものにしかならない。
公的な発言の形を取ることがあっても、それは便宜上しかたなく神の立場に立ってるだけであって、ほんとうは地を這う虫の位置からしか語れない。それが落語論である。

芸談ってそうなんですよ。だから戦わせたって仕方がないし、下手したら血を見る。個人的なもののぶつかり合いになるからね。

位置: 1,844
落語について語るとき、その底にしっかりと「嫉妬」があるのを感じる。わたしの場合はそうである。おそらく、熱を持って落語を語ってる人たちは、みんな嫉妬を持っているはずである。

うーん、それはある気がしますね。あってほしい。
だいぶ嫉妬を抜きで語られているものも多いけどね。でも、その方が生々しいと思う。

あたくしも、嫉妬があるからアマチュア落語なんぞやってる自覚はある。
もっと上手い人見つけると、やっぱり妬いちゃうもんね。

位置: 1,848
嫉妬とは、ライブに対する嫉妬でもあるし、個人芸であることの嫉妬でもある。
一人芸というのは嫉妬を呼びやすい。落語では、舞台に立っているのは、たった一人である。

そこが格好いいんじゃんね。

位置: 1,893
身体の衝撃を頭で取り戻そうと文章を書いても、まず、うまくゆかない。
そうなると「身体性をどう取り戻すか」というのが、その評論のテーマになってしまう。つまり、落語のことを語りながら、自分の違和感を解消しようとしている文章だ。

うーん、わかりみ。
ただ、そうじゃない文章というのもあると思う。広瀬さんの文章なんか、あんまりそういう感じしない。本人はでもそういう気持ちあるのかな。

位置: 1,938
落語について書くとき、じつは、落語に対して悔しい、という話しかしていない。この本も深層部分では同じである。その悔しい、という気持ちから始まっている話がおもしろいかどうかだけの問題なのだ。

きっと堀井憲一郎さんはそうなんだろうね。
みんながみんな、そうじゃないと思うけど。あたくしは、しかし、堀井さんの言うこと分かっちゃう派だね。

位置: 2,002
この点に関しては、落語に詳しい連中が、まるで落語に出てくる知ったかぶりの先生のようで、かなり奇妙な風景である。落語にはそういう愚行へ走らせる何かがある。おそらく「演者の代行という気分」だろう。

あんまり偉そうなこと言えません。自分もその自覚があるし、そういうことをした記憶も自負もあります。反省。

結論

面白い評論でした。自分を前に出すことに躊躇がない。
それもまた一つの評論のスタイルだろうけど、それがすべてではないとあたくしは思いますね。

The following two tabs change content below.
都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする