内田樹著『村上春樹にご用心』感想 注意喚起ではなく礼賛本!

Podcastもありますよ。


村上春樹コンプレックス、とでも言いますか。

メディア、ブログで大反響、
だれにも書けなかった画期的なハルキ文学の読み方!

村上春樹はなぜ世界中で読まれているのか?
『風の歌を聴け』から『アフターダーク』までを貫くモチーフとはなにか?
なぜ文芸批評家から憎まれるのか? うなぎとはなにか?

「私たちの平凡な日常そのものが宇宙論的なドラマの「現場」なのだということを実感させてくれるからこそ、人々は村上春樹を読むと、少し元気になって、お掃除をしたりアイロンかけをしたり、友だちに電話をしたりするのである。それはとってもとってもとっても、たいせつなことだと私は思う。」(本文より)。

あたくしは春樹作品があまり面白いと思えない。というか全然面白さが分からない。
しかし、人々は熱狂的に彼の作品を愛する。この差が何なのか言語化出来ないことに、コンプレックスがあります。感受性の問題なのか。

内田樹氏ともあろう人が褒めてるんだから素晴らしいはずだ、という権威主義的な影響も少なからずありますが、しかし、理解したい。

はじめにー ノーベル文学賞受賞のヴァーチャル祝辞

位置: 54
去年(二〇〇五年) の暮れの毎日新聞では、松浦寿輝が『東京奇譚集』にこれもまた不思議な批判を加えていた。
「言葉にはローカルな土地に根ざしたしがらみがあるはずなのに、村上春樹さんの文章には土も血も匂わない。

だから駄目だ、というのは確かに筋違い。

おそらくテクノブームなんかのときも、煩型は言ったでしょうね。血が通っていない、って。電気釜のときも言ったでしょうね。

位置: 63
私見によれば、村上文学が世界各国に読者を獲得しているのは、それが国境を超えて、すべての人間の心の琴線に触れる「根源的な物語」を語っているからである。他に理由はあるまい。

それが何なのか、言語化してほしいんです、内田先生。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む

位置: 219
「こっち」と「あっち」の「あわい」でどうふるまうのが適切なのか、ということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。
村上春樹は(エマニュエル・レヴィナスとともに)その数少ない一人である。

死者と生者の合間の世界で、どう振る舞うか。そんなこと、春樹作品で書かれてるか?僕はこう立ち回った、というのは書かれているけど。

お掃除するキャッチャー

位置: 227
どういうわけか知らないが、大量のアイロンかけをしたり、老眼鏡をかけて半襟をさくさく縫いつけたり、総じて「床にぺたりと腰を下ろして」家事をしていると気分が「母」になる。「ふう」とつくため息もなぜか湿気を帯び、針仕事の針は無意識に髪の毛の脂を探り、疲れてくると片手が襟元に延びて軽く衣紋を抜くしぐさまで、どこから見ても『麦秋』の杉村春子か『晩春』の高橋豊子である。
いつのまに私の中にこのような身体運用の「文法」が刷り込まれたのであろう。
この家事労働をつうじて生じる身体的なジェンダー・シフトはフリー・フォールするエレベーターの落下感に似たものがあり、「母」になった私は世俗のくさぐさのことが急にどうでもよくなってしまう。この「わしどうでもええけんね」感を私は深く愛するのであるが、この「母っぽい気分」が好きという家事の身体感覚をわかってくれる男性は少ない(私の知る限り、鈴木晶先生くらいしかいない)。

僭越ながら、あたくしもわかる。子どもたちと接しているとつい「母親」言葉になる。あらあら、とか、やだ、とか。

「父」の不在

位置: 324
やはり、村上春樹を嫌う人々にはそれなりにやむにやまれぬ文学的事情というものがあるに違いないと考える方がよろしいと私は思う。
その「やむにやまれぬ」ドメスティックな事情とは何か。
村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。
当たり前だね。
では、その「世界性とは何か」ということになると、これについて私はまだ納得のゆく説明を聞いたことがない。そこで私の説を語る。
村上文学には「父」が登場しない。だから、村上文学は世界的になった。  以上、説明終わり。

いくらなんでも、内田さん、性格悪いな。

位置: 341
「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能を果たしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り、「違う臭気」を発している。
ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。
キリスト教圏の文学では「神」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「ブルジョア・イデオロギー」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、それぞれ確執が優先的な文学的主題となる。

パターナルなものが存在しない、ということなのか。いわばリベラルだから、一部に嫌われ、一部に慕われる、そういうことなのか。だとしたら内田さん、その説は極端すぎないか。そして父として、父という言葉をそう簡単に使わないでほしいな。

位置: 355
「生きることは身体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。

位置: 361
だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その不能のあり方にはしばしば普遍性がある。人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく、「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれているのである。

樋口清太郎の言うところの、「我々を規定するのは我々の可能性ではなく我々の不可能性である」というやつかな。

その説明に「父」という言葉を使うの、ほんと嫌だな。

『冬ソナ』と『羊をめぐる冒険』の説話論的構造

位置: 487
けれども、もちろんそのメッセージが何を意味するのか、「僕」には最後まで理解できない。わかるのは「それが何を意味するメッセージであるのかは理解できないが、それがメッセージであることだけは理解できるようなメッセージ」を送ってくるのは死者以外にいない、ということである。

うん。それはわかる。で、なにそれ?

位置: 502
喪の儀礼は、誰もそんなことを頼んでやしないのに、それをすることが自分の責務ではないかと思ってしまう人間だけが引き受けることのできる仕事なのだ。

多分、真っ先に「やらない」というタイプの人間があたくしであり、引き受けられない人間だから、あたくしは村上春樹作品が理解できないのだろうか。

「そんな気がした」で動けない人間には、難しいのかな。

AFTER DARK TILL DAWN

位置: 640
なにしろ、村上春樹は「批評というのは馬糞のようなものである」として、自作についての一切の書評を読まないことを公言しているんだから。

気合、入ってんな。

太宰治と村上春樹

位置: 919
「君もあの時代に、僕のかたわらにいたよね?」と作家に低い声で問われて「いいや」と答えることのできる読者はいない。
だって、そう問いかける作家が、読者が嘘をつくことをあらかじめ知っていて、かつその嘘を咎める気がないことを読者は知っているからである。
もし、この六〇年代トリビアクイズ的な固有名リストがほんとうにその時代を経験した人間とそうでない人間を区別し、後者を排除するためのものであったら、村上文学が世界性を獲得することは決してありえなかっただろう。村上文学がそのローカルな限界を突き抜けることができたのは、存在するものを共有できる人間の数には限界があるが、存在しないものを共有する人間の数に限界はないということを彼が知っていたからである。

これは非常にわかる。だから、ドアーズがローリング・ストーンズの前に来る。なるほど。腑に落ちる。

倍音的エクリチュール

位置: 1,169
他の人々が単なる指示的機能しか認めないセンテンスに、私だけが「私あてのメッセージ」を聴き取るということが倍音的エクリチュールの構造なのである。
村上春樹の愛読者たちの「選ばれた受信者」感覚は他の作家に比べてより先鋭であるが、それは彼が「批評家たちにぜんぜん評価されない」という文壇的事実によっていっそう強化されている。皮肉なことだが、批評家たちが「私には何も聞こえない」と声高に言えば言うほど、「では、私が聴き取っているこの倍音は、私だけに聞こえているのだ」という読者ひとりひとりの確信は深められる。

なんだか新興宗教みたいだな。弾圧されればされるほど、燃え上がる信仰心。「先鋭であるが」あたりに選民思想が入ってて、内田さん気持ち悪いな。

なぜ村上春樹は文芸評論家から憎まれるのか?

位置: 1,789
たしかに、ウェストファリア条約以来、地政学上の方便で引かれた国境線の「こちら」と「あちら」では「土や血の匂い」方がいくぶんか違うというのは事実だろう。だが、その「違い」に固執することと、行政上の方便で引かれた「県境」の「こちら」と「あちら」での差違にもこだわりを示すことや、「自分の身内」と「よそもの」の差違にこだわることの間にはどのような質的差違があるのだろうか。

非常に痛快な指摘である。ウェストファリア条約って結構根深いよね。

批判されることについて

位置: 2,099
反省に無限後退はない。
どこかで人は反省を停止させる。
「いま反省しつつある自分の反省の進め方の妥当性をこれ以上疑うと、もう思考ができなくなる」デッドエンドが必ず存在する。

内田版コギト・エルゴ・スムかしら。非常に切れ味が鋭いですね。

村上春樹とハードボイルド・イーヴル・ランド

位置: 2,156
「それはね、ヨシオカくん。『邪悪なものが存在する』ということだよ」
言ってから、意外なことに正解を言い当ててしまったことに気がついた。
村上の小説はある種の連作をなしていて、主人公はどこでも「僕」と名乗っている。

うーん、だとしても、そんなこと改めて文学で言われなくても。

位置: 2,179
ヨシオカくんの質問に間髪を容れずに答えたとき、不意に「異界のひと」たちは読者を袋小路に誘うためのダミーだったということに気がついた。
異界からの使いたちは「何かメッセージを伝えるために」主人公の「僕」の前に姿を表したに違いない、私はそう考えた。だから、私は彼らの「メッセージ」の「意味」を知ろうとしたのである。だが、異界から到来する人々はじつに難解なことを語る。

この難解さが妙でね。言い得て妙なものもあれば、ちんぷんかんぷんなものもあって、杳として掴めない。

位置: 2,194
私は律儀な読者としてこれらの「異界からのメッセージ」が何を言おうとしているのかを考えた。考え続けた。そして、「わたしの言うこと分かる?」とすみれさんに問い詰められても、結局分からなかった。
最後に分かったのは、「これらのメッセージには意味がない」ということであった。
羊男くんがきっぱりと言い切っていたように、「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」というのは異界からのメッセージの読み方を指定するメタ・メッセージだったのである。
私は読み方を間違えていたのである。
私たちはたいていの場合、原因と結果を取り違える。

だよね、意味わからないもの。
そして、後述されているように、我々は意味のないものに耐えられないもの。

それを春樹が書きたいのなら、不条理って言葉で表していいのなら、あたくも分かる。しかし、あたくしには、本当に春樹が書きたいことが分からない。だから不安になる。

100%の女の子とウェーバー的直感について

位置: 2,576
私にはそれが説明できるが、なぜ『私にはそれが説明できる』のかは説明できない」
世界史的レベルで頭がいい人が抑制の効いた文章を書くようになるのは、この不能感につきまとわれているからである(と思う。なったことがないからわかんないけど)。
話を戻すけれど、街を歩いていて、「あ、いま、あっちから来る女の子がぼくにとっての一〇〇パーセントの女の子だ」という電撃的確信を得るということは、僕たちのような凡人に一生に何度かだけ例外的に訪れる「ウェーバー的直感」のあらわれではないかと思う。つまり、彼女が「ぼくにとっての一〇〇パーセントの女の子」であることに満腔の確信を僕は抱いているのだけれど、その理由は説明できない。
「説明できる」ということと「確信をもつ」ということは違う次元の出来事である。

あたくしにとっては、同じ。
言語化出来ていないことは、確信と思えない。「こう思うけど、どうしてなんだろう?」という状態を確信と呼べないよ。そして100%の女の子って大体幻想だからね。当たり前だけど。

「持った確信は、だいたい間違っている」という経験則が、あたくしにはある。

あとがき

位置: 2,665
日常性と非日常性が気づかないうちに架橋される、その技巧の妙に作家の才能は発揮される。村上春樹はその技術において天才である。

うーん、そうかな。森見登美彦とかのほうが上手いと思うけど。

位置: 2,685
ほんらいなら繋がりのあるはずのない一つの世界と別の世界が架橋されたときにはじめて、そこにはそれ以外の方法ではその欠如を窺い知る機会のなかった巨大な空隙があるということがわかる。村上春樹の世界性を担保しているのはこの 何かが欠けている ことを感知せしめる卓越した技術である。
これが本書の論考を通して達した私のとりあえずの結論である。

偉そうに、内田樹御大に反論してしまいましたが、でも、納得できないものは納得できないものね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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