アガサ・クリスティー氏は人を殺さなくても大作家であります。
今、にわかにアガサ・クリスティーがマイブームに来ておりまして。
『火曜クラブ』を読んでいるところです。
しかし、この『春にして君を離れ』は素晴らしい。
アガサ・クリスティーといえば、突拍子もない殺人トリックを思いつく女史でおなじみですが、この話には殺人が出てまいりません。
しかし、殺人よりも恐ろしいのは孤独である、という恐怖。
これが通底するんですな。
昭和な主婦が主人公?!
アガサ・クリスティーですから、昭和なんてぇ知りもしないでしょうが、それでもこの物語の主人公は昭和なおばさんと言ってしまって良いと思います。
価値観やらなんやら、「昭和」で片付けるとガテンがいきやすい。
鏡の中の自分に背を向けながら、ジョーンはつくづく誇らしかった。与えられた役目をりっぱにやりとげたと感じるのは、何ともいえずいいものだ。わたしはキャリア・ウーマンになろうなんて、ついぞ考えたこともなく、妻であり、母親であることに満足しきって暮らしてきた。ロドニーとは恋愛結婚だった。弁護士としての彼の成功も彼女の内助の功に負うところがなかったとはいえない。妻というものは、ずいぶんそれとない感化をおよぼすことができるのだから。at location 60
「私は夫のため、子どもたちのため。つまり家庭のために何一つ惜しまずやってきた」という自負。そこから来る、それ以外の人生を送っている同級生たちへの侮蔑。
しかし、その侮蔑の感情が、偶然に生じた余暇を過ごすうちに、じわりじわりと疑念へと変わっていくのです。自分は間違った人生を送ってきてしまったのでは、ってね。
小人閑居して不善を為す、と言いますが、閑居というのは確かに間違いのもとです。
暇ってぇのは、ときにして、ろくでもないものを生みます。
彼女は、ちょっとした列車のトラブルで生じた数日の閑居で、自らの価値観を否定し、また、周りの人々が自分をどう思っているのかを悟った気になってしまうのです。そして、それを誰も否定出来ない。そこは異国の、あまりに孤独な、陸の孤島なのですから。
誰も寝てはならぬ
「あのね、お母さま、あたし、自分の友だちも自由に選べないの?」 「そんなことはないわ。でもねえ、わたしの助言も受けいれてくれないと。あなたはまだとても若いんですからねえ」at location 2110
娘への価値観の押し付けや、
「幸せ、幸せって、誰も彼もまるで一つ覚えのようにいうのを聞いていると、わたし、何だかじれったくなってきますのよ。世間の人って、幸福以外のことは考えないようですけれど、でも幸福が人生のすべてではありませんわ。世の中にはもっと大切なことがあるんですもの」 「たとえば?」 「そうね――」とジョーンはちょっとためらった。「たとえば義務ですわ」 「何も弁護士になることが人間の義務というわけでもなかろう?」 少しむっとして、ジョーンはいった。 「わたしのいう意味、あなただってわかっていらっしゃるでしょうに。父親を失望させないようにするのは、息子としてトニーの義務じゃありませんか」location at 2299
夫との価値観の相違、
わたしがこれまで誰についても真相を知らずにすごしてきたのは、こうあってほしいと思うようなことを信じて、真実に直面する苦しみを避ける方が、ずっと楽だったからだ。location at 2692
それらが積もり積もって、また、誰もこの加速する思い込みを止めてくれず、主人公は自責の念に駆られ続けるのです。たった一人で、砂漠の真ん中で。
最終章で、答え合わせというか、この主人公の加害者意識が客観的なものであったかどうかの立証がされますが、それはもはや、この物語にとっては蛇足だと思いますな。
孤独な人間が、徐々に自らによって追い詰められていく様。
これがこの物語の至極かつ悪性のエンターテイメントなんですもの。
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