それほど熱心なSFファンではないですが、優秀なSF小説が己の常識を広げてくれるカンフル剤になることは間違いないと思っています。
その優秀なSFに、間違いなく本著も入るでしょう。
とてつもない本ですよ、ついてくのがやっと。いや、ついていけてるのかどうか怪しいけど。
しかし読んだ後の脳みそが拡張された感じは素晴らしい。
- バビロンの塔
位置: 198
もういまでは、塔のへりから下を見おろすだけで、ヒラルムの膝はがくがくした。この高さではたえず風が吹きつけているし、上へ登るにつれて、もっと強くなるのではないかという気もする。ついうっかりして、塔から風に吹きとばされてしまった人間はいないのだろうか。そのあとにはじまるのは長い長い墜落だ。大地にぶつかるまでに、お祈りの文句を唱えおわれるぐらいの。そう考えて、ヒラルムはぞっと身ぶるいした。
なんか塔を登り続ける話。
ただそれだけなんですが、どうも読ませる。
タイトル通りバベルの塔がモデルというかモチーフ。ブリューゲルの絵で有名ですな。主がそこで言葉を乱した、ってやつね。
テッド・チャン氏はとにかく言語の問題が大好き。だから最初にこれを書くのか。本著のオープニングとしてこれほど相応しいもんはないね。
位置: 236
「たいした見ものだろう、ええ?」とクッダがいった。
ヒラルムは無言だった。生まれてはじめて、夜の正体を知ったのだ。夜とは、大地そのものが空に投げかける影であることを。
あまりに高いところにいるとそういうふうに見えるのかもね。地上は闇になってはいるが、自分から見れば単に影に入っているだけ、ってね。
こういう視点を獲得するのがSFの醍醐味だよね。
位置: 583
なぜヤハウェが塔を打ちこわされなかったか、定められた境界の彼方へ手を伸ばしたがる人間たちに罰をくだされなかったか、その理由はこれで明らかになった。なぜなら、いちばん長い旅でさえ、人間を最初の出発点へひきもどすにすぎないからだ。何世紀にもわたる人間の労働は、天地創造についてこれまで人間が知っていた以上のことを、なにひとつ明らかにしなかった。しかし、その努力のおかげで、人間たちはヤハウェの御業の想像を絶した芸術性をかいま見、この世界がどれほど巧妙に作られているかを知ることができたのだ。塔の建設によって、ヤハウェの御業は示され、ヤハウェの御業は隠された。
なんのことかしら、とここだけ読むと思うけど、いやその、最初から最後までこの短編読めば「かもなー」って思いますよ。己の無力を知って終わる。
- 理解
事故?か何かで脳に治療を施された男が、以上に知的に発達してしまい……という話。よくある話ではありますがテッド・チャンにかかれば、なるほど、テッド・チャン以外では書けない話だなと思えます。
位置: 969
当然ながら、ある人間の演じる役割は、それよりはるかに成熟した者によってのみ認識される。わたしの目には、世間のひとびとは運動場で遊ぶこどもたちのようにみえる。彼らの真剣さはおもしろく思え、自分が同じようなことをしていたのを思いだすと恥ずかしくなる。彼らの行動は彼らにとっては適切なものだが、いまのわたしがそれに参加するのは耐えがたいだろう。成人になったとき、わたしはこどもっぽいことをするのはやめた。
こういう普遍的な感覚もこの短編には非情に大切。だってどんどん常人離れしていくから。
位置: 1,061
わたしは自己憐憫にひたっているわけでも、思いあがっているわけでもない。わたしは自身の心理状態を、最大限の客観性と整合性をもって評価できる。感情の源泉のどれが自分にあってどれが欠けているのかを、そしてそれぞれに自分がどれだけの価値をおいているかを、わたしは正確に知っている。わたしに後悔というものはないのだ。
異常な知能を身に着けた人間に、もはや後悔はない。感情すらも意識的にコントロール出来る。
その異常な知識を身に着けた人間は何をするか、言語の再定義です。ここがテッド・チャンだよね。世界征服とかじゃないんですよ。
位置: 1,065
新言語がかたちをなしつつある。この言語はゲシュタルト指向で、思考にはみごとに適合してつかいこなせるが、書いたり話したりの実用性には欠けている。これは単純な線で表記される文字の形態におきかえるものではなく、大きなひとつの象形文字として、総体的にとらえるべきものなのだ。こういった象形文字は、単語を千個ならべても表すことはできない内容を、絵よりも意図的に伝えることができる。象形文字ひとつひとつの複雑性は、それに含まれる情報の量に比例するだろう。わたしはひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字のことを思って、楽しんでいる。位置: 1,106
ことばあれ。ある言語で表された自分の心は、かつて想像したなによりも顕示的であることを、わたしは知る。神がひとことで混沌から秩序を創造したごとく、わたしはこの言語で自身を改新する。これは 超 自己記述であり、自己編集だ。思考を記述できるのみならず、それ自体のすべてのレベルにおける働きを記述し、変更することもできる。陳述の変更が全文法の調整をもたらすこの言語をゲーデルが見れば、なんと言っただろうか。
この言語をもって、わたしは自分の心がどのように働いているかを見ることができる。自分のニューロンが火花を飛ばすのが見えるなどという気はない。その手の主張は、ジョン・リリーを旗がしらとする六〇年代のLSD体験者たちに属するものだ。わたしにできるのは、ゲシュタルトの知覚。
まぁ、何言ってんのかさっぱりです。しかし、この部分を字面で読み飛ばすのもSFの面白さ。半笑いで読むもよし、真剣に没入するもよし。SF読んでるなー、って頭がなる。気持ちいい。
位置: 1,193
ふつうの意味合いでは、わたしはもはや夢は見ない。無意識なる語で定義されるものはなにもなく、脳が行なう維持機能のすべてをコントロールしているから、通常のREM睡眠のはたす役割は不要なのだ。
もはやレム睡眠すら要らない。すごい中二感。
位置: 1,346
これ以上議論をつづけても意味はない。たがいの了解による開始。 われわれが攻撃をしかけることを決めたとき、奇襲の要素に出る幕はない。われわれの意識は事前警告についてはこのうえなく鋭敏になっている。われわれが戦いの開始に同意するとき、相手に対する礼儀など存在の余地はない。それは必然の現実化なのだ。
そしてそんな二人が出会うと、やっぱり、戦っちゃうんですね。
どーして戦うのか。本能なのか。テッド・チャン氏に聞いてみたい。
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