司馬遼太郎著『花神』感想 司馬史観ってやっぱ強烈

読ませるし、読んじゃうんですよね。ファンが多いのもうなずける。

周防の村医から一転して官軍総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげた、日本近代兵制の創始者・大村益次郎の波瀾の生涯を描く。

長州藩周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげたわが国近代兵制の創始者・大村益次郎の波瀾の生涯を描く長編。
動乱への胎動をはじめた時世に、緒方洪庵の適塾で蘭学の修養を積み塾頭まで進んでいた村田蔵六(のちの大村益次郎)は、時代の求めるままに蘭学の才能を買われ、宇和島藩から幕府、そして長州藩へととりたてられ、歴史の激流にのめりこんでゆく。

磯田先生の著作にもありますが、司馬史観というのは強烈です。
しかし、面白い。

『風雲児たち』が作者逝去により未完のまま終わることが確定しているので、そこで続きが気になり読み始めたら一気に読了。あとは高杉晋作が気になるかな。

(上)

浪華の塾

位置: 268
適塾というのは、洪庵の号である適々斎からきたものだが、ひとつには字義のとおり、「門生をしてその適せる方におもむかしむ」るという気分が、塾風にあった。村田蔵六や福沢諭吉が、医術をまなんでおもわぬ方向に行ってしまったというのも、ひとつには適塾の学風かもしれない。

スペシャリストがジェネラリストになり得る成功例ですな。あたくしは結局、スペシャリストになるのを拒み続けました。

位置: 475
蔵六は、塾の者とあまりつきあいをしない。かれは物干台がすきであった。このあと、緒方家の物干台にのぼり、豆腐の皿を 膝 もとにひきつけておいて、酒をのんだ。自分の昇級を自分で祝っているつもりであった。

蔵六のこういうところ、好き。
最近、真似ています。冷奴と酒で、村田蔵六スタイル。

鋳銭司村

位置: 1,609
(なるほど、あれなら陽気だろう)
とおもったが、蔵六は元来、自分のこの珍妙な 容貌 について 鬱屈 があり、平素婦人と話をすることさえ気ぶせりだった。
もっとも岡山で出会ったシーボルトの娘のイネに対してだけは、蔵六の対女性感情の歴史に例外をつくった。どういうわけか、あのとき、この 痼疾 のようになっている隔意が作動せず、対座していてイネが発散するあのふしぎなふんいきにひたひたと浸ることができた。
(いまは長崎にいるというが、しかし 想っても 詮 がないであろう。元来この世では縁を結びがたいひとだ)

蔵六のこの、陰キャなところ。コンプレックスの塊だが、そこを諦観し、前にすすむところ。好感ですね。

位置: 1,693
「婦人臓躁というのは、喜悲傷して大声をあげて泣く。ときにその状態は 巫女 が神がかりになったのと似ている。しばしばあくびする」
とある。蔵六は気になったから、父の蔵書のなかから、鎌田 碩 庵 の『臓躁説』をとりだして読むと「臓躁とは子宮の騒乱によって精神に変調をきたすことである」という意味のことが書かれている。
お琴は、一月に一度ほどは荒れた。蔵六はそういうときは裏の麦畑にゆき、そこでしゃがんで二時間でも三時間でもまった。人が不審におもうと、蔵六は、 「臓躁にはこれしかないのです」  と、無愛想にこたえた。

ぞうそう、ヒステリーですかね。蔵六すらもしゃがんで待つしかないのであれば、いわんや平凡なあたくしをや。昔も今も、変わりゃしませんね。

城下

位置: 2,150
そのかわり秀宗のために幕府に運動して伊予宇和島十万石に封じた。秀宗が家来たちをつれてはるばる奥州から南国の宇和島にうつってきたのは、大坂夏ノ陣の年である 元和 元年十二月である。以後、版籍奉還まで、二百五十数年のあいだ移封はない。

伊達が宇和島、ってね。意外だけど面白いよね。そしてそこに250年いたんだから。

位置: 2,374
蔵六は、宇和島にきてこのときほど心が躍ったことがない。かれは、ヨーロッパ人に対抗できるほんものの日本人とは嘉蔵のような男だとひそかにおもっていた。いま京や江戸ではやりの 攘夷 さわぎの志士どもについては、蔵六は口に出して批判したことがないが、 軽蔑 していた。

このあたりが司馬史観ですかね。そんなふうに思った記載なんてあるのかしら。

これを読んで昭和のサラリーマンが深くうなずいている絵が想像できます。おれたちは嘉蔵なんだ、ってね。

オランダ紋章

位置: 2,513
(自分の 面 を考えてみろ)  とまでは思いたくないが、人を恋うることは自分をみじめにすることだという奇妙な信仰がかれにあって、自分の意志の力をあげてそういう自分をおさえようとしていた。

あたくしもそれを信仰しようかな。人に恋することは自らを惨めにすることだ。この後に記載がある(人生は、単純明瞭に生きてゆくほうがいい)というのも至言ですね。

運命

位置: 3,656
井伊は要するに日本国の将来の命運についての遠大な見とおしがあって安政ノ大獄をやってのけたのではなく、幕府権力の威を家康のむかしにもどしたいという、ただそれだけの構想と情熱によってこの大獄をやった。

これも不当なまでに井伊の評判を落とすことになっちゃいませんかね。実際、井伊の胸中をや。

麻布屋敷

位置: 4,528
福沢は、江戸にきて早々、江戸の語学界を征服したつもりになっていた。
この自負心のつよい、江戸随一の洋学者をもってひそかに任じたばかりのこの青年が、本場の横浜へきてどの看板も読めなかったという衝撃は察するにあまりあるであろろう。

これは想像するだけでニヤリ。夏目漱石もロンドンでそんな気持ちだったのかな。

山河

位置: 5,131
「どうだえ、馬関(下関) のあの騒ぎはなにをするつもりか、攘夷ぐるいどもにかかっちゃ、あきれかえって物がいえないじゃないか」
というと、蔵六の 瞬きが、急にとまった。福沢の記憶ではこのとき蔵六は怒気を発したらしい。
「なにが攘夷ぐるいだ」
と、蔵六は福沢の顔をみてひらき直った。
「攘夷のどこがまちがっている」
と、蔵六がいった。これには福沢は天地がひっくりかえるほどおどろいた。適塾出身者には自然と伝統があり、国際環境のなかで日本を考えてゆくという考え方で、要するに開明主義であり、攘夷主義者などは一人もいないと福沢は信じていた。ところが、適塾の先輩でもっともすぐれた一人である村田蔵六が、長州藩に仕えたとたんに攘夷主義者になったらしいのである。が、蔵六にすれば胸中、
(福沢のような軽薄才子に言ってきかせてもわからん)
とおもっていた。人の主義は気質によるものだが、蔵六にとってもこの攘夷という気分は生来のものであった。その固有の気分の上に、かれは自分の理論をうちたてた。攘夷という非合理行動によって、日本人の士魂の所在を世界に示しておく必要がある、というものであった。

この辺の蔵六の感覚は分からないんだよね。福沢に共感。

位置: 5,196
「村田の気心はもうわからん」
と、福沢はいう。ある種の狂信団体に入信した人物を、他のひとびとがひどく無気味におもうように、福沢も箕作もそう思った。長州藩は藩というよりも思想団体であるということはすでにのべた。福沢は長州ぎらいであった。

大分の男だから余計なのかな。それほど異質なんだろうか。

福沢の気持ちはよく分かる。

(中)

前途

位置: 57
蔵六にいわせれば、こうであろう。  ──自分は、技術者である。つべこべと政論をたたかわせているよりも、技術が現実の歴史を解決してゆくことを知っている。
とでも言いたかったにちがいない。
この人物は、じつのところ、性根の底には子供のように 稚い攘夷感情をもっていた。

技術者として自分のアイデンティティを置く、というのは行き方として一つだよね。そういう生き方、嫌いじゃないし、生きやすいとも思います。自分の知識・技能が通用するうちはね。

位置: 119
幕末の攘夷熱は、それが思想として固陋なものであっても、しかしながら旧秩序をやきつくしてしまうための大エネルギーは、この攘夷熱をのぞいては存在しなかった。福沢は蔵六や長州人の「攘夷熱」を 嗤 ったが、しかし、これがもし当時の日本に存在しなかったならば武家階級の消滅はきわめて困難で、明治開明社会もできあがらず、従って福沢の慶応義塾も、あのような形にはあらわれ出て来なかったことになる。

だからって攘夷という考えに根本から賛成はしかねます。命の価値が安かった時代の考え方だよ。少なくとも、現代からみると、あまり正しい感情の持って行き方ではなかったようにしか思えない。また、幕末の志士を持ち上げる考え方も好きにはなれない。

位置: 153
幕藩日本はヨコは約三百の藩にわかれ、タテは階級が複雑で、これをこわして統一国家を成立させ、さらには百姓町人をも国家に参加する気概をもたせるには戦火の大洗礼以外にない、とおもっていたようであり、その革命エネルギーの根源が攘夷であるということを、西郷は知っていた。福沢の攘夷否定の開明主義だけでは、新国家はうまれないのである。

そう断じることが、果たして理性的だろうか。
司馬史観だなぁ、と思う所以ですね。結果、攘夷のエネルギーを利用して成った、だけの話であるように思います。

位置: 410
本来、狂気の季節なのである。攘夷は時代の正義であり、正義とはいかなる正義であれ、多分に狂気をふくまねば行動として成立しえない。長州の吉田松陰もその門人の高杉晋作も、
「狂」
ということばをこのみ、それをもっとも格調の高い思想上の用語として使った。

吉田松陰も好きになれない。狂人というのにそれほど惹かれない。
狂って成した人のことを、それほどに持ち上げる気になれぬ。狂って理解されず没した人間と何が違うのか。

位置: 751
──あとは、藩の重役が、なんとか金をひねり出して大黒屋の帳簿の穴を埋めてくれる。
というのが、この金策法を考えついた井上聞多のたかをくくった見通しだった。
井上聞多、つまり維新後、明治期最大の財政家の一人とされる井上馨 は旧幕府時代、しばしばこの手で、仲間の遊興費の調達や穴埋めをやってきた。
この井上馨という人物のふしぎさは、こういうところにあった。公金と私金の区別の感覚が、うまれつき欠けていた。

こういう人、いるよなぁ。んで、やるだけやって、ツケをみてびっくりするのはいつだって常識人たる官僚である。迷惑はかけたもんがち、という典型ね。

凝華洞の砲声

位置: 1,643
「我則蔵六也」
と、蔵六は書いた。オレハ蔵六、という意味である。蔵六とは 亀 の異称であった。頭、しっぽ、それに四本の足を甲羅のなかに 蔵 してしまうためにその称がある。亀が、その六つの動くものをかくしてしまえば、河原の石ころとかわらない。世間の波風や、 名利 の世界から、蔵六はつまり蔵六になってしまっているつもりであった。
妙な男であった。かれは後年、古今まれな軍司令官になるのだが、かつて歴史のなかの将軍たちのなかで、これほど自己顕示欲のうすい人物がいたであろうか。

いい割り切り。きもちいね。蔵六。うちの亀も蔵六にしようかしら。

長門の国

位置: 2,297
(ここの連中は、やりきれない)
と、蔵六がかねておもい、接触せぬようにしていたのは、肌合いの相違によるものであろう。この英雄豪傑どもは、二六時、空論をたたかわせていた。奇妙なことに空論が空論であるほど熱情の度が高まるらしく、ついには彼等はその空論のために敢死するのである。本来、人間の英雄的な死というのは、そういうものかもしれなかった。

いるよなぁ、こういうやつ。苦手ですね。
理性とかを否定したがる人。

情縁

位置: 3,671
いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の 内奥 のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって二十代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである、事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。

理性によってアイデンティティを確立してきた人間が、それ以外のことを扱うというシーン。皮肉だけど面白い。喜劇ってこういうこと。

位置: 3,977
中世末期の禅僧一休は、禅僧でありながら、盲目の侍女をそばにひきつけ、その肉体の 秘奥 を讃美した詩をつくり、肉体をふくめた彼女のすべてを愛しつつ、しかもその禅的境地は崩れなかった。一休の思想が、仏者の戒律と 女犯 を統一するだけのものにまで高められていたということであり、思想とはそのためにあるものらしいが、蔵六はどうなのであろう。

本当に禅的境地が崩れなかったのかしら。だとしたら真面目にやっている人が阿呆らしい気がするが。気の毒。「らしい」ってのが司馬先生の善性だよね。

石州口

位置: 4,990
当の蔵六は、まったく別な風体だった。頭には百姓笠をかぶり、ユカタを着て、 半袴 をはき、腰に 渋団扇 を差し、ちょうど庄屋の手代が隣り村へ涼みにゆくようなかっこうで、これでは長州軍の大将とはたれにも見えないであろう。

ブレないマイ・スタイル。
このあたりが愛される所以だろうか。

位置: 5,079
「哲学」  ということばが西周によって作られたように、日本の人文科学の術語の多くは西周の翻訳もしくは創作にかかる。こんにちわれわれがようやく表現力に富む日本語を共有できるようになったその明治期の基礎にこの西周が巨人として存在し、さらにはその西家と川をへだてて向いにうまれた森鷗外に負うところが多い。
ただし、小藩である。

司馬史観の特徴として、孤高の人物が少数で歴史を動かしている、というドラマチックな描き方があるのですが、これもその一つでしょうね。

(下)

豆腐

位置: 128
ひとびとの需要のためにのみ村田蔵六という男は存在している。江戸での翻訳のしごとも、長州藩での軍事のしごとも、そうであった。蔵六からそれをしたいと思ったことは一度もなく、ひとびとが蔵六の技能を必要とするままに蔵六は生きてきた。大は長州藩から小は吉蔵のゴウマにいたるまで、蔵六に寸暇もあたえずこきつかっている。蔵六自身はといえば自分自身に奉ずるところがきわめて薄いたちで、豆腐一丁と晩酌二本だけあれば人生事足りるという手軽な男なのである。
(おれも変っている)
蔵六は薬研をまわしながら、吹き出しそうになった。

かっこいい。あたくしも、豆腐と晩酌で人生事足りる人間になりたい。まだまだ修行が必要でしょうけどね。

位置: 425
「藩民族主義」
といえば、三百諸侯のなかでこれが成立する条件をもっているのは長州藩しかなかった。民衆が参加した、と述べたが、むしろ防衛の主力は民衆軍であり、正規軍である武士団は戦闘力においても政治意識においてももろかったほどであった。
ちなみに、この藩民族主義は、おなじ地生の雄藩である仙台藩 伊達 家や、薩摩藩島津家でも成立しがたかったであろう。伊達氏や島津氏というのは、武士階級をして百姓階級を極度に差別せしめることによって武士団に誇りをもたせ、その戦国風の精強を保持しようとしたところがあり、その面においては十分成功した。しかし別な面においては自然門閥主義が強くなったため、とくに仙台藩伊達家などは藩全体の行動や思考に弾力性がまったくなくなり、時勢のなかで硬直してしまった。
長州藩が勝った理由のひとつは、軍資金がふんだんにあったことであろう。これはこの藩が早くから産業主義をとった成果であり、そのなかでも下関を中心とするいわゆる 北前船 貿易(日本海コースの内国貿易) によって現金収入が大きく、それが新式兵器を大量に買い入れる力を作った。

信長も、結局拠り所は濃尾平野の生産力と楽市楽座での公益による税収という説を読んだことがあります。だから包囲網を各個撃破するような軍が作れた、と。

結局軍資金がものをいうわけですな。

位置: 458
アヘン戦争から十一年後に米国のペリーが東洋艦隊をひきいて浦賀にきたとき、日本史上最大の衝撃波が日本じゅうにひろがるのだが、そのありようは、
「自動的にうごく船がきた」
という衝撃よりも、
「アヘン戦争が日本にもきた」
という、かねてこの一事についての危機感が充満していたときだけに、その揮発性物質に点火し、一大爆発をおこしてそれ以後、歴史そのものが地すべりするごとく大暴走を開始したといっていい。

平民は物珍しさに近づいたっていうから、やっぱりその危機感はほんの一部の人間のものだったんでしょうけどね。ただ、そのショックは察して余りあります。

位置: 1,339
それは儒者が孔子を仰ぎ、 釈奠 などといって孔子を神としてまつる風があったのとおなじであり、さらにいえば大楽が「天照大神」という文字をかかげているのとおなじことであった。いずれも本心から信仰しているわけではなく、自分の思想のよりどころを自他にむかって誇示しているだけの日本的風習であり、たとえば酒屋が酒の神である三輪明神の杉をカンバンとして軒につるしているのとかわりがない。

誇示、まさにそれよ。
そう書いて示さねばアイデンティティが揺らぐのだ。

京の風雲

位置: 1,548
が、別な一面からいえば、薩摩がやった二枚腹の外交こそ戦略外交のあり方であり、文久二、三年のころ京都政界を牛耳っていた長州藩は書生外交で、熱狂的にさわぎはしても一枚腹にすぎず、結局は意図を暗に見すかされ、天下の非難をうけ、没落せざるをえなかった。

この辺は歴史理解を助けますな。ただ、だいぶ色はつきますが。

京と江戸

位置: 3,194
余談だが、かれはのち箱館の 五稜郭 の陥落直前、最後の幹部会議がひらかれたとき、一同切腹というところへ話がきまりかけたのを、大鳥はあっさり、 「なあに死ぬのはいつでも死ねるさ。ここはひとつ降参とシャレてみようじゃないか」  といって、衆議を一気に降参にまとめた男である。

かっこいいね。

江戸城

位置: 4,621
蔵六は、毎夜、畳の上に江戸絵図をひろげ、 紙燭 をかかげてそれをながめ、風むきがどうならばどこが焼けるかということをしらべたり、避難民の安全避難場所を予定したりした。  かれが、江戸の過去の大火についての歴史をしらべたことについてのメモが、昭和十年代に発見されている。

被害を想定し、限定して戦争をやるのだ。
これは当たり前のようで、しかし容易にできることではない。

蒼天

位置: 5,338
河井は、この北越戦争を関ヶ原と見、勝てばいままで薩長についていた諸大名がなだれを打って寝返り、天下の形勢がかわると見ていた。すくなくともそのように言うことによって、藩士たちに対し、自分たちが孤軍ではないという信念をもたせようとした。河井は連戦ののち、七月二十四日、全藩士に対し「口上書」という文章を書いてくばっている。河井のこの口上書が、日本における最初の言文一致の文章であろう。 「少し模様が変ずれば天下の諸侯が変心するからそりや敵も大変で、天下を取らうとした仕事は 空 敷 なり、さうなると天下中に 悪 まれ、異国も見離し」  と、いう。

言文一致体ここから説。圓朝だ、という説と同じくらいほんまかいなって感じですね。

位置: 5,499
蔵六は最初、山田顕義が豆腐に箸をつけないのをみてそのことは黙殺していたが、話の途中でふと、山田の皿をみて、 「豆腐を愚劣する者はついには国家をほろぼす」  と、おそろしい顔でいった。

豆腐好きすぎ。食べないのを愚弄ととる。豆腐を食う食わないにイデオロギーを論ずる。美味しんぼ的だね。

位置: 5,567
その正成が、ときに孤軍奮闘してついに 成就 した建武中興といういわば宋学的な革命を、日本風の武家体制をかかげることによって切りくずしたのが足利尊氏である。尊氏ははじめ建武中興の成立に協力し、のち裏切っていったんは敗軍した。しかし九州へ走って勢力をやしない、ふたたび中央に押しよせ、宋学的な宮廷中心体制を打倒して武家中心の室町幕府をつくった。
この人物が、幕末に普及した水戸学的なイデオロギーによれば、日本史上最大の悪党ということになっている。イデオロギーによって裁断された「悪党」というのは、もはや人間の内臓ももたない 大 妖怪 のような印象をそのイデオロギーの影響下のひとびとにあたえるが、幕末から太平洋戦争の終了までつづいた水戸史観時代の足利尊氏はまさにそういう妖怪的存在であった。

昔の人の価値観は、本当に楠木正成が好き。今はそれほど重要視されないものね。あたくしも重要視していません。そもそも後醍醐天皇が好きじゃないからですね。

しかし水戸学というのはどうも好きになれない。

位置: 5,906
「いままで不当に差別されてきた階層のひとびとがいる。自分はその階層のむすめと結婚したい。さがしてくれないか」
と、ひとにしきりに頼んでいた。かれが戊辰戦争の砲煙のなかをくぐって実感として感じた明治維新のイメージは権力交代ではなく革命ということであり、その理想は自由と平等の社会の現出であると信じた。「自分は日本でもっとも尊貴とされる公家である。その公家が、いわれなく差別された娘と結婚すれば、その一事で千万言を用いずして維新の理想が世間にわかるではないか」と言った。

西園寺公望について。なかなか面白い人間ですね。

位置: 5,926
西園寺は京に滞留した。
この若い公家は、詩と酒と 芸妓 を好み、京ではさかんに遊んだ。さらには自邸に学者をまねき、書生をあつめ、私塾をひらいた。塾の名を立命館とつけた。

なんと、立命館は西園寺公望が作った。知らなかった。

位置: 6,085
イネが横浜からとんできた日は蔵六はたまたま気分がよく、右脚をのばしてベッドの上ですわっていた。イネの顔をみた第一声は、 「あなたは、産科ではありませんか」
ということであった。
とはいえ、蔵六は生涯でこの瞬間ほどうれしかったことはない。

本当かしら。

男女のことなどはどうも、どこまでも創作のような心持ちがします。なにせ、当時の男女のことですからね。真実なんざ分かりゃしない。しかし、面白い。

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