遠藤周作著『海と毒薬』感想 罰は恐れど、罪は恐れず

最初の日野のあたりの話が妙に不穏で好き。

戦争末期の恐るべき出来事――九州の大学付属病院における米軍捕虜の生体解剖事件を小説化、著者の念頭から絶えて離れることのない問い「日本人とはいかなる人間か」を追究する。解剖に参加した者は単なる異常者だったのか? どんな倫理的真空がこのような残虐行為に駆りたてたのか? 神なき日本人の“罪の意識”の不在の無気味さを描き、今なお背筋を凍らせる問題作。

遠藤周作らしい、問題提起の作品。
今回のテーマは、人によっては大問題なんだろうけど、実はあたくしはそれほどピンとこなかった。

第一章 海と毒薬

位置: 154
「瘦せているな、あんたは。その腕じゃ人間を突き刺せないね。兵隊では落第だ。俺なぞ」と言いかけて彼は口を 噤んだ。「……もっとも俺だけじゃないがなあ。シナに行った連中は大てい一人や二人は 殺ってるよ。俺んとこの近くの洋服屋──知っているだろう、──あそこも 南京 で大分、あばれたらしいぜ。奴は憲兵だったからな。

今でこそ、人を殺したことがある人はだいぶ減ったろうな。歴史的にみれば異常なくらい。昔はその辺にいたんだろうな。

しかし、この「人を殺せるかどうか」でマウントを取ろうとする感じ、ちょっと冷笑してしまう。

位置: 285
それは戦争中、ここの医大の医局員たちが捕虜の飛行士八名を医学上の実験材料にした事件だった。実験の目的はおもに人間は血液をどれほど失えば死ぬか、血液の代りに塩水をどれほど注入することができるか、肺を切りとって人間は何時間生きるか、ということだった。解剖にたち会った医局員の数は十二人だったが、そのうち二人は看護婦である。裁判ははじめはF市で、それから横浜で開かれている。私はその被告たちの最後の方に勝呂医師の名をみつけた。彼がその実験中何をやったかは書いていない。当事者の主任教授はまもなく自殺し、主だった被告はそれぞれ重い罰をうけていたが、三人の医局員だけが懲役二年ですんでいた。勝呂医師はその二年のなかにはいっている。

アドルフ・アイヒマンじゃないけどさ。戦争中で命令なら、従うしかないでしょ。懲役うけたって、仕方ないって。誰だってその状況ならそうするでしょ、とあたくしなんざ思うよ。眼の前の暴力から逃げるのは、当然。

位置: 302
考えてみるとあの二人は二人とも人を殺した過去を持っているのだ。私の引越した西松原のたった数軒の店にも私の知っただけでも二人の男がだれかを殺した経験を 味 っているのである。そして勝呂医師の場合も同じことだ。
私はなにがなんだかわからなかった。今日までそうした事実をほとんど気にもとめなかったことが非常にふしぎに思われた。今、戸をあけてはいってきた父親もやはり戦争中には人間の一人や二人は殺したのかもしれない。けれども珈琲をすすったり、子供を叱ったりしているその顔はもう人殺しの新鮮な顔ではないのだ。

そんな人殺しかどうかなんて、みただけじゃ分からんでしょ。
そんな当たり前のことすらも分からなくなる。ある意味じゃ今より平和な時代だったのかもな。

位置: 638
海は今日、ひどく 黝 んでいた。黄いろい埃がまたF市の街からまいのぼり、古綿色の雲や太陽をうす汚くよごしている。戦争が勝とうが負けようが勝呂にはもう、どうでも良いような気がした。それを思うには 躰 も心もひどくけだるかったのである。

くろずむ、ってそう書くんだ。また、古綿(ふるわた)色ってグレーのことなんだそうな。今は使わないよね。

戦争なんてのは国の問題だろ。自分の問題ではない。

位置: 818
「ほんまに、ほんまにコメディやったなあ」
「コメディやと?」
「そや。浅井さんも考えたもんやよ。オペ中、患者が死ねば、おやじの腕の全責任や。しかし、術後に死んだとすりゃあ、これは執刀者の罪やないからな。選挙運動の時にも弁解できるやないか」

今でもその手のテクニックはあるよね。欺瞞というか、偽装というか。
その手の連中はどうにかして繕いたがりますからね。仕方がない。それを悪だとすると、結構生きづらいしな。

第二章 裁かれる人々

位置: 1,265
自分一人が聖女づらをするために病院の患者や看護婦がどんなに迷惑を蒙っているのか、あの女は気づかないのです。彼女が母親であり聖女ならば、女の生理を根こそぎえぐりとられたわたしは浅井さんと寝る淫売になってもかまわないと思いました。マスまでがわたしを捨ててどこかに行ってしまったのです。

この第二章の話、なんだか妙に心に残るんだよね。生理を根こそぎえぐりとられた、ってのも衝撃的。ここのマスって何だろ。

位置: 1,288
「そうね。聖女みたいなヒルダさんではまさか、部長も打明けられないわね」
その夜、浅井さんにだかれながら、わたしは眼をあけて太鼓の音のような暗い海鳴りを聞いていました。ヒルダさんの石鹼の香りがまた 蘇ってきました。彼女の右手、うぶ毛のはえた西洋人の女の肌、あれと同じ白人の肌にやがてメスを入れるのだなとわたしは考えました。

なんだか完璧に他人事で、興味深いんだ。何なんだろう、人の営みとは。

位置: 1,554
ぼくは今でもあの夜のことを覚えている。まかり間違えば、あの娘を死なせていたかもしれない危険な方法だった。産婦人科の仲間を誤魔化して借りてきた子宮ゾンデを使って、自分の手で胎児を 搔爬 したのである。局部をよく見るためにぼくは懐中電燈を一つだけ頼りにして汗まみれになりながら血まみれの小さな塊りを引きだしたのだ。こうした不始末を他人に知られまいという気持、一生をこんな娘のために台なしにしたくないということだけがぼくの念頭にあった。血の気の失せた顔を壁に 靠 せて、歯を食いしばって我慢しているミツの苦しみにぼくはそれほど心うたれてはいなかった。今、考えても、あの不潔な不用意な方法でよく彼女が腹膜炎を起さなかったと思う。

まさにゲスの極み。しかし、どこか滑稽で、またコミカルだよね。そんなこと言ったら気分を害する人もいるだろうけどね。なんかこの文章から、遠藤周作の距離みたいなものを感じるんだよね。他人事として記述している、そんな気がする。

位置: 1,564
霧雨が降っていた。その雨の中に汽車が小さく消えると、ぼくは真実、ホッとしたのだ。ぼくは窓に顔を押しあてていたミツの苦しみを考えた。自分が悪いことをしたと思っていた。にも拘らずそれほどの苦痛感は起きてこなかった。

他人の人生に対する無関心というか、鈍感さというか。そこが妙に面白い。

位置: 1,601
(これをやった後、俺は心の呵責に悩まされるやろか。自分の犯した殺人に震えおののくやろか。生きた人間を生きたまま殺す。こんな大それた行為を果したあと、俺は生涯くるしむやろか)
ぼくは顔をあげた。柴田助教授も浅井助手も唇に微笑さえうかべていた。(この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてだけではないのだ)
ぼくはなにかふかいどうにもならぬ疲れをおぼえた。

もちろん、戦争でPTSDになる人もいるでしょう。しかし、まったく無感動で過ごしてしまう人も、当然いるんだろうな。どこか他人事。面白い感情。

第三章 夜のあけるまで

位置: 1,972
今、戸田のほしいものは呵責だった。胸の烈しい痛みだった。心を引き裂くような後悔の念だった。だが、この手術室に戻ってきても、そうした感情はやっぱり起きてはこなかった。

なんか共感するんだよね。自分で思っていたより自分って淡白ってケース、ある。

位置: 2,068
ノブはその会話を思いだして本能的に嫌悪感を感じた。しかしその嫌悪感をのぞくと彼女は、軍人たちが捕虜の肝臓を食べようが食べまいがどうでもいいことだった。看護婦である彼女は患者の手術や人間の血は見馴れていたから、今日、手術台に運ばれた男が米国の捕虜であったにせよ、特に恐怖感も起きようがない。橋本教授が一直線に電気メスをあの捕虜の皮膚に走らせた時、上田ノブの連想したことはヒルダの白い肌のことだけである。

嫉妬が他の感情を凌駕して、どうでも良くなってしまう状況。面白いね。

解説 平野謙

位置: 2,141
なぜ九大医学部第一外科部長ともあろう人が、生体解剖というような 無慙 なことをひきうける気になったか。いま書いたように、石山教授は昭和二十一年七月十六日に福岡市の刑務所で 縊死 をとげた。その遺書には「一切は軍の命令 責任は余にあり 鳥巣 森 森本 仙波 筒井 余の命令にて動く 願はくば速やかに釈放され度 十二時 平光君すまぬ」と、チリ紙に鉛筆でしたためてあった。つまり、石山教授は生体解剖の直接の責任を一身に負うて、累を他に及ぼさぬように自決したわけだが、こういういかにも日本人ふうな責任の負いかたを、アメリカの検察側が 鵜 のみにするはずもない。西部軍と九大とあわせて起訴された関係者は三十名に及び、その判決は絞首刑五名、終身刑四名をはじめ、七名の無罪をのぞいただけで、みな重労働三年から二十五年以上の重刑を宣告された模様である。昭和二十三年八月二十七日のことである。

いかにも日本人風な責任の負い方。これが通じると思っているところが了見が狭い。しかし、これ以外なかったんだろうなとも思う。

平野謙さん、中日→西武の名外野手と同姓同名だけど、違う人なんだろうな。

位置: 2,186
つまり、作者は異常な状況における異常な事件を、できるだけ医局内の派閥争いとか恋愛とか人間性格とかの平常な次元に還元しようと努め、そのことによって、日本人の罪責意識そのものを根元的に問おうとしたのである。
「おばはんは 柴田助教授 の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や」が、はたしてそれでいいのか、と問うヒューマニスティックな勝呂研究生を、作者が主人公格の人物にすえたのも、そのためである。その勝呂に 対蹠 すべき人物として、良心の麻痺をほとんど自己肯定するような戸田研究生をえらびながら、その戸田をして、「神というものはあるのかなあ」と 呟 やかせているのも、またそのせいである。ヒルダというドイツ女に 反撥 させる上田という看護婦の虚無的な性格を仮構したのも、またそのためである。全体として、作者は罰は恐れながら罪を恐れない日本人の習性がどこに由来しているか、を問いただすために、生体解剖という異常な事件を、ひとつの枠組みに利用した形跡がある。ここに事実とはまるで異なるこの長篇の独創性と特異性がある。

ふむ。面白い指摘。
そして、読んで、たしかに違和感はあるけど、なんだか共感もできる、変な感情になりましたね。非常に面白い。

ハイロウズの『罪と罰』を思い出しました。昔からそうなんだよね。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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