『読書について』 ショーペンハウエル=小言幸兵衛

えらく頑固なおっさんだなぁという印象。

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「われらが読んでいるときには、他の人がわれらの代わりに考える。
われらはたんに、この人の心的過程を繰りかえすにすぎない。
それはちょうど書き方を習うさいに、生徒がその筆をもって、
教師が鉛筆でつけた線条をたどっていくのと同じである。」

堅物で一本気なおじさんの小言というか。
訳が固いせいもあるんでしょうけれどもね。

そもそも、あたくしは哲学が要らないタイプの人間で。
人の哲学がすんなり当てはまるような素直な人間ではないうえに、根が楽観的ですから。
さほど悩まない。

ただ、歳とともに、少しづつ哲学書の面白みがわかってきました。
なるほど、小言だと思えばいい、というか。

歳相応に精神が老けてきたんでしょうな。
昔よりすんなり頭に入ってくる。

さて、この『読書について』ですが、相変わらずの小言幸兵衛ぷりが痛快でした。
それ以上でもそれ以下でもなし。
「なるほどなぁ」とは思うけど、冠名を受ける程でもなし。

いかに内容の豊富な図書館でも、不整頓であるならば、はなはだ小さいけれども整理の行き届いた書庫ほどの利益も与えない。これと同様に、いかに多量の知識でも、自己の思慮がこれを咀嚼したのでなければ、反復熟慮したわずかの知識より、その価値ははるかに乏しい。
at location 9

人は、自己の思想の泉の停滞した時のみ、読書するようにしなければならなぬ。思想の流れの停滞することは、実際最良の頭脳においても、十分しばしばあることである。これに反して書籍を手にせんがために自己の思想を追い払うのは、精霊に対する罪悪である。この場合かくのごとき人は、乾燥植物標本を見るために、あるいは銅版彫刻の美しい風景を眺めるために、自由な自然から逃遁する輩に酷似する。
at location 47

落語で言うところのご隠居タイプですか。
とにかく人に「べきだ」「でなければならぬ」を理詰めで問いてくる。
たまりませんな。遠くから見る分にはいい意味で。近くにいると悪い意味で。

されば、われらの読書ということに関しては、読書せざる術が、最も重要である。この術はいかなる時においても、世人の大多数のあたかもその時もてはやしている作物を、そのためにただちに手に取ることをしないところに存する。たとえばちょうどそのとき、喧しい世評に上り、あるいはさらにその最初の、したがって最後の年において数版に達するような政治上あるいは宗教上の小冊子、小説・詩などを、そのために手に取らざることにある。かかる時には、愚者のために書く人は、いつでも多数の読者を見出すものなることを考え、いつも切りつめられた読書時間を、もっぱら偉大なる思想家の作に、――すでに世に定評ある、すべての時代と民族とが有する偉大にして圧倒的に群を抜く思想家の作に用いよ。かかる作のみが、真にわれらを教養するものである。
at location 269

時代を生き抜いた古典・名著だけ読むべし。他はよむべからず!
老害っぷりが半端ない。

良書を読むためには、悪書を読まざることが条件である。何となれば生は短く、時と力とは制限されているから。
at location 280

またこのオヤジは……。

児童の精神が直観においてはまだはなはだ貧弱な間に、人はもはや概念や判断を、――すなわち本当の意味での「先入見」を――教え込む。そして元来、概念や判断は直観と経験とから初めて生じるべきはずであるのに、上述のような教育を受けた児童は、既製の装置を携えて、あとで直観や経験に臨むことになり、順序はまったく転倒される。本来直観は多方面的であり、かつ豊富である。それゆえに簡単急速な点においては、万事をただちに処理する抽象的概念と比べものにはならない。ゆえに直観は、先入見を訂正することができないか、あるいはできるにしても、ずっと後になってからであろう。いかんとなれば、直観がおのれと既成概念との矛盾を指摘しても、この陳述はさしあたり一面的なものとして棄却され、あるいは一歩を進めて否定され、これに対しては眼が閉ざされる。かくして先入概念は何らの傷をも被らないのである。
at location 386

なるほど、直感は先入観の下位概念である、ということかしら。
これは面白い指摘。

老害おじさんがブツブツ言っている感じが、なんとも好きな一冊。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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