あたまがとろける感覚を味わう『熱帯』

好きな森見先生の新刊。
謎の奇書をめぐる冒険譚という態の脳みそグニャグニャファンタジー。ちょっと読む人を選ぶかしら。

入れ子構造か?と思いきやグニャグニャして最終的に「?」な物語。
個人的には、森見版「ねじまき鳥」とでも言いますか、非常に「?」な作品。「こうしてこうしてこうなった」が説明しにくいったら。ただそのテイストが好きな人が何となく味わう。それ以上ではないかもしれません。

序盤が面白いだけに後半の「?」な部分が正直苦痛、という感想が分からなくもないですが、あたくしは森見さん好きなのでそこまで苦痛ではない。ただ、人を選ぶのは間違いない。村上春樹的「なんの話?」感は読んでいて感じました。

位置: 69
やがて私は天井を見ながら 呟いた。
「どうやら私は小説家として終わったようだ」
「終わりましたか?」と妻が言った。
「終わった。もう駄目だ!」
「急いで決めなくてもいいと思いますけど」
「たしかにわざわざ宣言するほどのことでもない。書かない小説家のことなんて、世間の人々は自然に忘れていくであろう。そして世間の人々もまた同じように忘れられていくし、近代文明は暴走の挙げ句に壊滅するし、いずれ人類は宇宙の 藻屑 と消える。だとすれば目先の締切に何の意味がある?」
悲観的になると私は宇宙的立脚点から締切の存在意義を否定しがちである。
「そんなに悲観しなくても……。果報は寝て待てというでしょう?」
私は妻の意見を重んじる男だ。「それも一理ある」と思ってごろごろしながら果報を待っていると、洗濯物を畳み終えた妻が『千一夜物語』を指さして言った。

森見さんの妻の描き方が非常に乙女チックで良い。あたくしもこんな妻を持ってみたいようなそうじゃないような。
でも本当に書けない時期というのがあったんだろうな。森見さんにも。

位置: 105
本棚というものは、自分が読んだ本、読んでいる本、近いうちに読む本、いつの日か読む本、いつの日か読めるようになることを信じたい本、いつの日か読めるようになるなら「我が人生に悔いなし」といえる本……そういった本の集合体であって、そこには過去と未来、夢と希望、ささやかな見栄が混じり合っている。そういう意味で、あの四畳半の真ん中に座っていると、自分の心の内部に座っているかのようだった。
無人島のような四畳半に籠もって本を読んでいるうちに、その本で得た知識を立身出世に役立てようとか、黒髪の乙女を 籠絡 するのに活用しようとか、そういう殺伐とした了見はきれいに消え去り、ただその本を読んでいるだけでよくなって、ふと気がつくと窓外には夕暮れの気配が忍び寄っている。そういうとき、いままで自分が夢中になっていたものが現実には存在せず、ただ紙に文字を印刷して束ねただけのものだという事実に、あらためて不思議な感慨を覚えたりした。

そういうことだね。本というのは不思議なものです。

位置: 178
最初の作品『太陽の塔』が出版されてからいつの間にかの十五年、初々しさだけを売りにして人の好意に甘えるのが見苦しくなってくる。かといってベテランへの道のりはまだ長く険しいという中途半端な境遇にあって、内幕を暴露すれば随分前から息切れしている。かつて鴨川べりに転がる石ころに匹敵する無名ぶりをほしいままにしていた頃には、美貌の編集者に「あなた(の原稿)が欲しい」と迫られる場面を妄想して鼻血を出しかけていた 似非 文学青年も、手当たり次第に書けることは書き尽くし、もはや擦り切れてペラペラである。その砂漠のように乾いた心に妄想が忍び寄ってくるのだ。「締切」という概念こそ、世に 蔓延 する諸悪の根源であるという妄想が─

スランプの典型的な症状ですかね。つらかったんだろうな。自嘲的にかけてるってことは乗り越えたことかもしれないなと思いつつ。

序盤は面白いのよ、掛値なく。ここから先が評価しづらい。

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