『シャーデンフロイデ』はメシウマを解説する

非常に的を射た、いい解釈だと思います。

位置: 1,351
自分とは関係のない二次的、三次的情報は、本来「どうでもいい」もののはずですが、オキシトシンによって「自分たちの社会を守ろう」という社会正義の姿をした情動が生起していれば、これを見逃すことはできなくなっていきます。  実は、私たちの脳は人から承認してもらうことでドーパミンが大量に放出され、その快楽はセックスと同等かそれ以上であることがわかっています。  この快楽を得るために、最も効率がいいのが「匿名で誰かを叩いて、それが多くの人から賛同してもらえる」というものです。

怒りの快楽と承認の快楽が同時に得られる。確かに最高でしょう。やはりキーワードは承認ですね。承認欲求について語られることが昨今増えているような気がします。ずっと前からの問題ではあるんですが。

この承認欲求がSNSなどで爆発する事例が多数みえてきたからですかね。ほんと、厄介だね。

位置: 1,391
ヒトは発言の真意を正確に理解しようとするより、利他的な懲罰を加えるほうにずっと快楽を感じるのです。

悲しいけど、そういうもんよね。人間は愚かだ。

位置: 1,407
ラットを使った、薬物依存に関する実験があります。ラットパーク実験、と呼ばれるものです。
(中略)
ようするに、ストレスが少ない状態であれば、刺激的な快感は必要ない。けれども、何らかの要因によりストレスが高まった状態になると、刺激的な快感を得ようとして、その中毒になってしまう可能性が出てくるということになるでしょう。

つまり、ストレスフルな生活環境にいると過大な承認欲求を持ちやすい、っつーことですか。いかにストレス少なく生活するかというのは、一つのテーマかもしれませんね。

1,461
ネットの論戦には、いわゆる「論客」と言われるような人たちが意見を戦わせているものも多く見受けられます。  ところが、そうしたものを一歩引いて客観的に読んでみると、実は内容のあるやりとりにあまりなっていないことが多いのです。  双方が自分のアイデンティティを確認する作業に夢中になっており、相手の言っていることを理解したら負け、とでもいわんばかりに、ただの言葉の応酬を単調に繰り返しているようです。まるで「正義」側により近いのは自分だ、とマウンティング合戦をしているようにも見えてしまいます。

実際、ヘイトやレイシストの言動は空虚なマウンティング合戦にしかみえないですからね。内容のあるやり取りに興味がないんでしょう。ただ主張したいだけ。

言いっぱなしの気持ちよさも理解できる反面、幼稚だなーと思わざるを得ない。

位置: 1,550
人間はもともと戦うことが好きなのです。そしてそこに「正しい」が加われば、どのような残虐なことも実行できてしまうのが恐ろしいところです。

愚か。その一言よね。

位置: 1,587
佐藤優氏の『サバイバル宗教論』に面白いことが書かれています。  私たちはキリスト教やイスラム教などの「一神教」の人々よりも、「多神教」のほうが他人に対して寛容であるかのようなイメージを抱いています。しかし、佐藤氏によればそれは逆だというのです。  一神教では「神と自分」の関係しか見ていません。そのため、たとえ同じ宗教を信じている間柄であっても、ほかの人たちがどう過ごしているかについてあまり干渉しない傾向にあるそうです。  一方で、一つの神だけを信仰していない人たちは、あちこちに気が散って、他人の振る舞いについてとやかく言いたがるという主張です。佐藤さんの主張は共同体としての関係性の濃い集団のほうが他者についてより関心を持ち、そのことによって利他的懲罰を加える土壌ができやすいということだと思われます。

興味深いですね。確かに、八百万とか胸を張る人たちが多いこの国で、これだけヘイトを感じるのはなぜか、ちょっと疑問ではありました。なるほどね。

位置: 1,633
「戦争ほど非人道的なものはない」とよく言われます。しかし、これは逆ではないでしょうか。人として守り行うべき道を進んでしまうからこそ、違う道を進んでいる人を許せず、争いに発展することの方が根が深いのです。  実は、戦争ほど人間的なものはない、と私は考えています。

人道的、の定義が違うだけでしょう。「人としてあるべき道」ではないが「人として当然通ってしかるべき道」ではあると思います。人間的ですよ、戦争は。談志師匠も言ってた。

位置: 1,677
祖先から引き継いだ不寛容な私たちの脳は、オキシトシンによってその不寛容性が保持されています。つまり、愛が不寛容を裏打ちし、不寛容さが人間社会を強固なものにしているのです。  オキシトシンによる「愛」があふれ出たときに、人は思いやりに満ちた行動をとる一方で、ひどく不寛容にもなっていきます。「あなたのため」という愛は、実は自分の脳の快楽のためであり、自分の所属集団を守るためであり、それを阻む者を許すことはできないからです。

誰かのため、というのは己の快楽のため。もっと言えば己の脳の快楽のため。ちょっと深いね。

恐ろしいね、人間は。やめちゃくなっちゃうよ。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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