上手くはないがそこがいい『オリンポスの果実』

五輪選手の私小説。拙さが味になっていてとても好き。西村賢太好きの友人からの勧めで読みました。

主人公の「ぼく」こと坂本が、ロサンゼルス・オリンピックにボートの選手として参加するために搭乗する、太平洋を渡る船の上が主たる舞台である。「秋ちゃん」という呼びかけで始まり、主人公は陸上の選手として同船している熊本秋子に淡い恋心を抱いているが、仲間の男たちの冷やかしを受け、秋子も気づくけれど、遂に恋心を伝えるにはいたらない。 田中自身が1932年に経験した事実に基づいた私小説で、2人の間にほとんど何も起こらない純然たる片思い小説である。帰国後、坂本は学生運動をへて結婚するが、「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか」というつぶやきで終わっている。秋子のモデルは相良八重である。 戦後、田中の小説があまり読まれなくなる中で、新潮文庫に収められて読み継がれた。

こういう身体性を感じさせる衝動的憧憬を文字にするのは至難の業でしょう。それでもこの大阪(だいはん)こと坂本さんの言葉にはそれを感じさせる何かがあります。

位置: 134
ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから 侮辱 されて 抵抗 の手段がないと 諦め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、 大坂 は 怒らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを 止めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに 傲慢 な 瘦意地 にとって、自殺にもひとしかった。

こういう情けないメンタリティの人、あたくしも当然それに含まれますが、いるんですよ。生きづらいでしょうね。田中さんも結局は自殺ですからね。

位置: 202
それから、合宿で、 恒例 のテキにカツを食い、 一杯 の冷酒に 征途 をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも 嬉しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。

時代を感じさせますね。ブレザァコオトなんて。日常生活で使っていると狂信者だと思われてなかなか使えません。メールを「メェル」とどうしても使いたがるお爺ちゃんとかいますがね。あれは本心なのか。かぶれてるのか。

位置: 232
ぼく達のクルウでも、 豪傑 風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを 交しています。 殊に 美男 な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが 綺麗 な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には 違いありません。が、母には 勿体ないが、 娘 さんがひとり 交っていて、 欲しかった。

わかるなぁ。青年期というのは肉親を疎く感じるもんですよ。

位置: 502
コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。   勿論、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、 純粋 に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
後年、ぼくは、 或 る女達と、もっと 恋愛らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、 所謂 恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を 装って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。

ふむふむ。分からないでもない。最も純粋とされる恋愛の形をとればとるほど打算になるという。これは恋愛が純粋視されすぎたことの弊害と言っていいのでは。

位置: 549
その後、 暫くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、 欲しいわ」と女学生服をきた 彼女 から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた 癖 に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。

そういわれると上げざるを得ない。気持ちわかりますよ。

位置: 555
未だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、 無邪気 だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく 批評 し、「熊本や、内田の 奴等 がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような 口吻 を 弄 し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、 針小棒大 に言い触らすのをきいては、 癪 に 触るやら、心配やら、はらはらして 居りました。  しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている 岡焼き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに 浴びせる 罵詈讒謗 には、 嫉妬 以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、 憎んだのです。

狭い客船の上ですから。閉鎖空間で何より厄介なのは嫉妬です。傍焼きです。限られた資源のなかでは人間の理性はゆがみがち。
しかし田中さん、句読点多すぎて読みづらいっすね。

位置: 687
甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で 羅府 行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、 莫迦 みたいに、 頰笑んで、瞰下していると、あなたは、 直ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。 隣 のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、 寝 てしまっている様子です。  思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて 振る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
一瞬、船は 停り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと 碧 い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは 溶け込んだ気がしたが、それも 束の間、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり 恐 しく、身体を 翻 えし、バック台の方へ 逃げて行き、こっとん、こっとん、 微笑 のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ 応えると、また、にこにこと笑い 交して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。

一番楽しいときですよ。恋愛の最も甘い部分。これをこんな風に描ける田中さんはやはりすごい。何でもないことなんですけどね。初めて心が通じ合ったような瞬間の嬉しさというのは何物にも代えがたい。

位置: 734
ぼくが洋装をした田舎の 小母 さん然たる 奥さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい 芳烈 な 香りを放っていました。ぼくは、その 匂いのなかに、 恋情 の苦しさを 甘くする 術 を発見したのでした。  それから、間もなく 催して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、 余韻嫋々 たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く 陶酔 している自分を、すぐ発見して、なにか 可憐 しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに 描くだけで、満足でした。

まったく甘い。こういうサムシングは本当に青春の一時しか経験できません。一夫一妻制のなかではね。今更したいともさほど思いませんが、とにかく人のこういう気持ちを読むのはとても好きだ。

位置: 754
ぼくはものを感じるのは、まあ 人並 だろうと、思っていますが、 憶えるのは、 面倒臭いと考える 故 もあって、自信がありません。
それでも、ノアノパリの 絶壁 上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十 米 かの 突風、顔をたえず 叩かれ 上衣 をしょっちゅう 捲くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は 髣髴 と、今でも 浮んできます。眼前に 展 がる 蒼茫 たる平原、かすれたようなコバルト色の空、 懸垂直下、何百米かの切りたった 崖 の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を 食んでいる。その牛馬一匹 々々の 玩具 のような小ささ、でもさすがに、 獣 の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。

風景がすぅっと入ってくるですよ。やっぱり田中さん、本当は文章も上手な方だと思います。「かすれたようなコバルト色の空」なんて綺麗なんだかどうなんだか分からないけど、でも気持ちいい表現だと思いますな。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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