重症ですね、田中英光さん『オリンポスの果実』

悶々とした感情をよく描けてる。こういうの読むと、純粋なエンタメ小説とかまどろっこしいな、と思います。あたくし、もう、この手の本だけ読んでりゃいいや、的に。

位置: 909
船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の 寝室 にあがり、 寝そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。

≪ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと 一緒 にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの 皮膚 も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ 触ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、 凍るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。 綺麗 かときかれても、 判らない、と答えるだろう。 利巧 かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。  ただ、二人でよく 故里 鎌倉 の 浜辺 をあるいている 夢 をみる。ふたりとも一言も 喋りはしない。それでいて、 黙々と寄り添って、歩いているだけで、お互いには、なにもかもが、すっかり 解りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に 日射しをあびているように、そのときは暖かい。

だいぶ重症ですね。ここまでのことを日記に書くとは。
若い、としか言えない。そしてそんな日々があたくしにも、確かにあたくしにも、ありました。

位置: 928
ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の 砕けるまで闘わなければ済まない。 恋 なぞ、という個人的な感情は、 揚棄 せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも 棄てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの 面影 がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに 蔵 い 込もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を 呪文 として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい≫
そう書いた、次の日の日記に、 ≪かにかくに 杏 の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと≫

確かに病気です。
お医者様でも草津の湯でも、ってね。そういう決心する系の日記、人は書きがちね。もちろん他人ごととして申しているわけではありません。仲間です。

位置: 940
ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ臭く、まごまごすると、 慌てて手帳をベッドの上の 網棚 に、 抛りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
二十分程してから、もういないだろうと、 恐る恐る、 扉 をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに 腰 をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを 振りかえります。
ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、 大坂」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、 叩きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、 怒ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない 嘲笑 を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。

日記の一説を読むとはたいそう松山さんも人が悪い。読んだってけして口に出さないがいいじゃあありませんか。それを読むというのは侮辱したいという劣情に身をゆだねていること。そりゃ道義的によくありません。人間として信用できない。

松山さんが優れたアスリートだったかどうか知りませんし知りたくもないですが、スポーツマンシップというものをきっと理解されてはいないだろうとは思いますな。

それにしてもこの大坂のバツの悪さ。最低ですよ。恋の日記というのは本当に最低。

位置: 1,306
ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、 厭 らしく女の声色も使って、
「『いやですわ。いやですわ』と秋子は 叫びながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子の 薫るような呼吸が感ぜられ、坂本は 悩ましいほど幸福な気がした。 『今ではいけないのでしょうか』 『いいえ、日本にお帰りになってから』」
あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたお互いの友情を、そんなふうに 歪曲 して 弄ばれることは、 我慢 できない腹立たしさでした

まーやりがちないじめっ子のメンタリティですね。
いじる、で済めばいいけど、これはちょっと度が過ぎる。

位置: 1,695
二人の 相撲 は力を入れ、むきになっている 癖 に、時々いかにもこそばゆいという風に 身悶えしてキャッキャッと笑い興じていました。 汗ばんで転がるたびに砂 塗れになってゆく、上原の肉体も、額に髪が 絡みついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、 膨らみもでて来て美しく、ぼく達でさえ 些か色情的に 悩ましさを覚えたほどです。しかし 何時迄 もみているのは 莫迦々々 しくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
遅く夕方になってから 戻ってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっと 判った気がしました。

ちょっといいBL感あり。これは単純に大坂、気が多いのでは。
なんて思ってしまう。昔は「相撲を取って決着をつける」ということがよくあったようですね。ちょっとマッチョぽくて平和でいいじゃないですか。終わったらノーサイド、ならね。

レザァコオトの交換なんてのはいい。まさにノーサイド。

位置: 1,837
ぼくは羞恥に 火照った顔をして、ちょこんと結んだひっつめの 髪 をみせ、 項垂れているあなたが、 恍惚 と、なにかしらぼくの 囁きを待ち受けている 風情 にみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、 悪寒 に似た 戦慄 が身体中を走りました。
ぼくはそれ 迄 あなたへの愛情に、 肉慾 を感じたことがなかった。 然しこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい 体臭 に 噎せると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんは 肥りましたね」とかなんとか、あなたの 萎れを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。

まさに私小説。慕っていた人のすね毛をみていても立ってもいられなくなる。まさに劣情ですね。「女らしい体臭に噎せる」なんて私小説でしか聞いたことない。そして「熊本さんは肥りましたね」というデリカシーのないセリフ。最高ですね。

位置: 2,108
ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が 羨 しかった。ぼくには、 悔恨 と 憧憬 しかない。

僕には悔恨と憧憬しかない、いいセリフだ。詩人。

位置: 2,129
ぼくと向きあっても、あなたは 覆っていた 掌 を放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは 夢中 であなたの肩を 叩き、出来る限りのやさしさを 籠 め、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたの 瞳 の 柔軟 な美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
ぼくには、それだけが精一杯だったのです。

十分だよ。それだけで十分だ。

位置: 2,190
さて、横浜に着く迄に、あなたに 訊いておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。 然し、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いた 想い出だけです。今のあなたにはお 逢いしたくない。

最後、身勝手ともいえる捨てセリフ。
これは優しさかな。それとも本心かな。とにかく田中さんは生きづらいメンタリティの持ち主だということは分かった。あたくしと一緒だな。

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