『イエスの生涯』 聖書を文学的に楽しめる

この聖書ってやつが、イマイチ分からんのです。

wikipediaより引用

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読むのに相当なリテラシーが必要なのですが、そのリテラシーを身につけるためには相当な信心が既に要求されるのです。
つまり、信者にしか読めないという不親切っぷり。

しかし世界中で信じられていて、それこそ影響は大きすぎて。
こっちとしても「理解できてなくてもいいや」と思うには魅力的過ぎるんですよね、関連するコンテンツが。
こちとらエヴァンゲリオン世代ですからね。
聖書は、筋だけでも、分かっておきたい。

んで、この遠藤周作先生が書いたこの著作。
めちゃ面白かったです。

文学としてキリストの生涯を楽しめる。

遠藤周作先生自体は結構なクリスチャンですが、同時に優れた物語者でもあって。
これが、奇跡とか云々を信じるかどうかは別にしても読むのが面白いものに仕上がってるんですな。

例えば、

周知のように我々が手にしている聖書は、必ずしもイエスの生涯を事実通りに追っているわけではない。カトリック側もプロテスタント側もこのことは等しく認めている。たとえばマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネ福音書とを読みくらべるならば、同じイエスの行動でもその時間的配置に食いちがう点が幾つかある筈である。(たとえばエルサレム神殿におけるイエスの宮きよめの出来事は、先にものべたようにヨハネはイエスの初期時代のものとして語っているのに、共観福音書はこれを死の直前の事件と考えている)その食いちがいについてはそれぞれの学者にそれぞれの説があるが、いずれも確たる裏づけがあるわけではない。したがって、そうした食いちがいの部分をイエスの生涯のどこに置くかは、聖書を読む者の捉えたイエス像によって決るのである。
at location 605

これなんかは、むしろ非信者にこそ分かりやすい説明。
こんな大事なこと、でも他じゃ言ってくれないよね。

 「神の愛」とか「愛の神」を口で語るのはやさしいのだ。苛酷な現実に生きる人間は神の愛よりもはるかに神のつめたい沈黙しか感じぬ。苛酷な現実から愛の神を信ずるよりは怒りの神、罰する神を考えるほうがたやすい。だから旧約のなかで時として神の愛が語られていても、人々の心には怖れの対象となる神のイメージが強かったのだ。心貧しき人や泣く人に現実では何の酬いがないように見える時、神の愛をどのようにしてつかめるというのか。
イエスは勿論この矛盾に気づいておられた。彼の心には神の愛にたいする信仰が燃えていたが、しかしそれはこの矛盾を無視されておられたわけではなかった。いや、むしろ、イエスの生涯をつらぬく最も大きなテーマは、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていたのである。私たちがこれから語るイエスの生涯はこのテーマによって進められていくだろう。現実に生きる人間の眼には最も信じがたい神の愛を証明するためにイエスがどのように苦闘されたか――それがイエスの生涯をつらぬく縦糸なのである。
at location 652

これなんぞもいい。

イエスの前の洗者であるヨハネについての文章。この辺なんか、改めて興味深い。

「イエスはその深い独創性にかかわらず、少なくとも数週間はヨハネから学ばれた」イエスはヨハネ教団にいられる間はほとんどこの預言者の背後にかくれて自分を主張されなかった。マタイ福音書三章七節を同じ十二章三十四節や二十三章三十三節と比較すると、ヨハネの使った言葉をイエスがそのまま使われていることがわかるのである。
at location 294

イエスはヨハネから学んだんだそうですよ、奥さん。
「天上天下唯我独尊」と叫んだブッダとは違います。

こんな初歩的なことですが、あたくしにゃ知らないことばかりでした。

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