古井由吉先生著『辻』感想 とんでもないことだけは分かる

もしやこれは文字表現の最先端なのでは。

父と子。男と女。人は日々の営みのなかで、あるとき辻に差しかかる。静かに狂っていく父親の背を見て。諍いの仲裁に入って死した夫が。やがて産まれてくる子も、また――。日常に漂う性と業の果て、破綻へと至る際で、小説は神話を変奏する。生と死、自我と時空、あらゆる境を飛び越えて、古井文学がたどり着いた、ひとつの極点。濃密にして甘美な十二の連作短篇。

プロットとかでも筋とかでも道徳とかとも違う。
なんでしょ。すごい高みにいらっしゃるんだというのは分かる。

位置: 90
二十になったばかりの次兄が港のほうの中年の女にかかずらっていた頃になる。

かかずらう、言わないなぁ、今どき。

気持ちや考えがそこにひっかかって離れなくなる。こだわる。拘泥する。「つまらぬところに―・う」「名目に―・う」

拘泥する、とありますが、拘泥では伝わらない妙な色っぽさがありますね、かかずらう。

位置: 2,794
その知っているというのも、夢の中のことではないのか、と森中はやっと押し返した。覚めれば知れなくなるのだから夢の中のことだ、と青垣はあっさり認めておいて、しかし今に見る夢ではないのだ、以前に見た夢をまた見ているのでもない、もう済んでいる、取り返しがつかないのだ、と言った。偏執の硬さはなくて、言葉にはならぬ境をそのまま差し出しているようで、森中は途方に暮れた。自分が半端に、わかるような気持で受けているのがいけないので、夢のことはあくまでも夢のこととしてたずねるべきなのだと戒めたが、言葉の継ぎようがなかった。そんな話をしながら二人して酒を 注ぎあっているのが、庭の外から眺める光景のように感じられた。

すごく感覚的なんですが、とても美しい。
何言ってんのか分かっているかと聞かれると怪しい部分もありますが、それでも何だか美しいとは思えますね。

位置: 2,890
青垣からの電話はあれきりになった。晩春から梅雨時にかけてはまだ、つぎの土曜日あたりに青垣か、あるいは青垣の細君から、悪い 報 らせがありはしないか、と森中は後暗い日から、日を重ねて遠ざかりつつある者の、それでも逃げきれないような不安に時折 捉えられた。

「、」の使い方が感情の区切りのリズムとつながって、なんともいえない味わい。テクニックかしら。

位置: 3,412
女は地元の中学へ転校した。母親の郷里でも根がよそ者と人に見られ、自分でもそう思っていたので、境遇の変化というほどのものにも苦しまなかった。学校がひけるとまっすぐ家に帰って、掃除洗濯、そして夕飯の仕度にかかる。遊ぶ時間のすくないことにもとうに馴れていて、人と引きくらべることもしない。大体、満足とか不満とかいうことを知らなかった。でも楽になっている、と気がつきはじめたのは半年ほど 経った頃になる。母親の郷里では幼い頃から大人たちに、女を見るような眼で見られた。女であることを意識させるような言葉を投げつけられた。この子は、子供のくせに、どこか女臭くていけない、と面と向って 眉 をひそめられたこともある。そのうちに、まだ生理も始まる前なのに、学校の男の子たちも女の子たちも折節、同じ眼で見るようになった。

引き比べる、というのもいい。比べるだけじゃない、どこか卑しい気持ちがついている気がする。そういう「気がする」言葉遣いの積み重ねが独特の味わいを出しているのかもしれません。

位置: 3,553
話を終えると父親は鞄を両手に提げて戸口へ向かい、娘をあわてさせた。階段の手前で追いついて荷物を引き取ったが、はりきったような足取りでずんずん先に行く。それが駅に近い 蕎麦屋 の前まで来るとぱったりと立ち停まり、なに、少々遅れても構まうものか、と言って店に入った。親子で向かいあって物を食べる、これが最後となった。

多くを語らず、行間で伝える。侍の極意みたいになった文章。引き算の集大成?いや、引き算でもないのか。古井由吉先生、高みにいらっしゃるなぁ。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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