『銃・病原菌・鉄』 コロナ禍で読む人、爆増? 3

しかしすごい世の中だ。いや、社会というか環境の話ね。

位置: 4,285
人類史上、もっとも猛威をふるった疫病は、第一次世界大戦が終結した頃に起こったインフルエンザの大流行で、そのときに世界で2000万人が命を落としている。1346年から52年にかけて流行した黒死病(腺ペスト)では、当時のヨーロッパの全人口の1/4が失われ、死亡率70パーセントという都市もあった。1880年、カナダ太平洋鉄道がサスカチェワン地域を貫いて建設されたときには、それまで白人や白人の持つ細菌にさらされることがほとんどなかったサスカチェワン地域のアメリカ先住民の人口のじつに9パーセントが、毎年、結核の犠牲となって死んでいった。

如何に人類がウイルスと戦ってきたか、ですよね。ペストじゃ1/4が死んだ、なんてね。
やはり血が混じるというのは大切なことなんだな。

位置: 4,454
人間の病気で、病原菌が新しい環境に適応すべく変化した例としては、梅毒菌があげられる。今日、梅毒といわれても、二つのことが頭に浮かぶだけだろう──性器に炎症がおこる。治療せずに放置しておくと、ゆっくりと何年かかけて進行し、やがて死に至る。しかし、1495年にヨーロッパで最初に記録された梅毒の症例によると、患者は頭から膝まで膿疱でおおわれ、顔から肉が削げ落ちて、たった数カ月で死亡している。ところが1546年になると、今日われわれがよく知っている症状を示す病気に変化しているのである。前例の粘液腫症と同様、梅毒を引き起こすスピロヘータ(螺旋状細菌)は、感染者がより長く生きて、菌を周囲にふりまきつづけ、自分の子孫が伝播できるように変化したのである。

伝播できるよう変化したのか、たまたま突然変異が残ったのか。疑問の余地はありますが、梅毒ですよ。落語で言う「かさをかく」ってやつね。

位置: 4,465
1519年、コルテスは、人口数百万人を誇り、勇猛果敢な軍隊を擁するアステカ帝国を征服するために、600人のスペイン兵士とともにメキシコの海岸に降り立った。コルテスがアステカの首都、テノチティトランに達したあと、自軍の「たった」2/3を失っただけで生き延び、応戦しながら海岸へ戻ることができたのは、スペイン側の軍事力が優れていたからであり、アステカ人が当初 愚直 だったからである。だが、コルテスがつぎに猛攻撃を仕掛けたときには、アステカ人はもはや 愚直 ではなかった。彼らは、いたるところで激しい戦いを挑んできた。結局、スペイン側の勝利を決定づけたのは軍事力ではなかった。一人の奴隷が1520年にメキシコにもたらした天然痘の大流行のおかげで、スペイン側は勝つことができたのである。この流行によって、アステカ帝国の人口のほぼ半分が死亡した。犠牲者のなかには皇帝クイトラワクもいた。アステカ人の命だけを奪い、スペイン人には何もしないという謎めいた病気は、生き残ったアステカ人にすれば、あたかもスペイン側の無敵さを示すもののように思え、士気は低下していった。2000万人だったメキシコの人口は、天然痘の大流行によって、1618年には160万人にまで激減していたのである。

そんな風に人口って減るんだね。いや、だって1/10以下じゃないですか。
そうやって人類は何万年も生きてきたんだな。
この天然痘とか疫病の歴史って面白いですね。武力とかじゃないわけだ。

位置: 4,483
北米にもアメリカ先住民たちが数多く住んでいた。現在でも有数の肥沃な農地が広がっているミシシッピ渓谷を中心に、人口の稠密な集団社会を形成していたのだ。これらのアメリカ先住民たちは、ヨーロッパ人征服者によって滅ぼされたわけではない。北米のアメリカ先住民社会は、ヨーロッパ人がやってきたときには、すでにユーラシア大陸の病原菌によって壊滅状態におちいっていた。たとえば、北米に最初にやってきたヨーロッパ人征服者であるエルナンド・デ・ソトは、1540年、合衆国南東部を行軍したとき、廃墟と化したアメリカ先住民の村落をいくつも見かけている。それらは、デ・ソトの行軍の二年前に大流行した疫病によって住民が死に絶え、遺棄されてしまった村落であった。

ミシシッピ渓谷には文明があったわけです。しかし、デ・ソトがみたときにはすでに廃墟だったわけで。
こういうの、知らないよね。教わらない。面白いです。

位置: 4,535
新世界で家畜として飼われていた動物の種類が少なかったのは、家畜化の対象となるような野生動物がもともとあまり生息していなかったからである。南北アメリカ大陸では、野生の大型哺乳類の80パーセントが、およそ13,000年前の最終氷河期の末期に絶滅してしまっている。しかもアメリカ先住民が家畜化できた数少ない種類の動物は、牛や豚にくらべると、集団感染症の病原菌の祖先になるような菌を持っていそうにもない。

アメリカ大陸では家畜になれる動物が少なく、だから抵抗力を獲得できなかったということですね。実に興味深い。

逆に、今コロナウイルスが欧米で猛威を奮って、アジアでは収束気味なのはなんでか。面白いですね。

位置: 4,559
ハワイ諸島では、1779年にクック船長とともに梅毒、淋病、結核、インフルエンザが上陸した。それにつづいて1804年には腸チフスが流行した。そして、伝染病のちょっとした流行がつぎからつぎへとつづき、その結果、1779年に50万人あったハワイの人口は、1853年には84,000人に激減してしまった。さらに、天然痘がハワイを見舞ったときには、残りの人口のうちの約一万人が犠牲になっている。このような例は、それこそ枚挙にいとまがない。
ちなみに、病原菌は、ヨーロッパ人だけに好都合にはたらいたわけではない。南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸には、ヨーロッパ人を待ち受ける土地特有の集団感染症は存在しなかったが、熱帯アジア、アフリカ、インドネシア、ニューギニアはそうではなかった。たとえばマラリアは、熱帯地域全体に分布していた。熱帯東南アジアのコレラ、熱帯アフリカの黄熱病は、もっともよく知られた熱帯地方における死因だった(現在でもそうである)。そのため熱帯地域にヨーロッパ人が移り住むにあたっては、これらの病気がもっとも深刻な障害となった。これらの地域の植民地支配の確立が、南北アメリカ大陸より約400年も遅れたのは、こうした病気がヨーロッパ人進出のさまたげとなったからである。マラリアと黄熱病は、ヨーロッパ船の行き来によって南北アメリカ大陸に広がり、熱帯地域の植民地支配の確立を遅らせた要因となっている。パナマ運河の建設において、マラリアや黄熱病が、フランス人の努力を失敗に終わらせたことや、それを引き継いだアメリカ人に困難をもたらしたことはよく知られている。

コレラ・黄熱病・マラリアが植民地支配を遅らせた、というのは本当に面白い。人間の武力とかの問題じゃないわけだ。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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