『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』感想 やっぱり好きになれないな

野心むき出しのタイプってどうも苦手。

位置: 40
後醍醐天皇の政治方針は、「朕が新儀は未来の先例たるべし」という『 梅松論』の言葉に端的に表現されている。後醍醐の政治は先例主義を打破する刷新的なものであった。天皇の独裁権がそれを可能にしたのである。しかしこれに反発する勢力も依然として強く、結果として後醍醐の政治はまとまった成果をみないままに瓦解してしまう。

ガツガツ権力欲をむき出しにするタイプ、あたくしは苦手です。
独裁したい!ってどんだけですか。天皇だからしかたないにしてもね。

位置: 45
建武三年(1336)末、後醍醐は京都を出奔し、大和の吉野に移る。建武の新政はじつに短命な政権であったといえる。後醍醐は吉野に移って三年後の延元四年(暦応二、1339)八月、五二歳の生涯を閉じる。  後醍醐とその子孫が吉野をはじめとする畿南の要地で維持した朝廷を「南朝」、他方、京都において室町幕府によって支えられた 光厳天皇の系統の朝廷を「北朝」と称し、双方が朝廷として並んだ約60年間を南北朝時代と呼んでいる。ようするに、後醍醐は鎌倉時代と南北朝時代をつなぐ、じつに重要な歴史的役割を果たした人物なのである。

まとめるとそうなりますわな。鎌倉から政権取り戻して新政府設立したけど短命に終わった、って感じだけどね。

位置: 152
武家との関係、すなわち京都朝廷と鎌倉幕府の関係といってよい。周知のように、武家優位の中世の公武関係を決定づけたのは、 後鳥羽上皇と北条義時をそれぞれのトップとする公武両勢力の衝突、いわゆる 承久 の乱(1221)であった。

後鳥羽上皇が負けたからね。それで鎌倉幕府が名実ともに幕府になったわけだ。そこから100年くらいは幕府時代が続く。100年てたら当時の人からみりゃ2人生分だもんね。

位置: 1,204
約150年続いた鎌倉幕府の政治過程は、ふつう、将軍独裁、執権政治、 得宗 専制という三つの段階でもって理解されている。時間的にもっとも長いのは最後の得宗専制期である。得宗専制とは北条氏の家督(得宗)を中心にして、一門・被官といった一部の者たちによって運営された政治の形態をいい、それは、第五代目執権北条時頼のころに萌芽し、蒙古の襲来を乗り切った子息時宗の時期に飛躍的な深化をみせ、その子貞時の段階で最高潮に達したとされている。得宗専制の強化は、当然ながら、政権中枢から排除された一般御家人たちの根強い反発・抵抗の意識を増幅していった。

教科書ではあまり習わない時代でしたね。
得宗専制ね。結局、将軍か執権か、北条とその周りか、人が変われど独裁には変わらない気がしますけど。

でもなまじグループでの執政だから、その他大勢の不満を買ったか。

位置: 2,705
北朝は、後醍醐の怨霊を封じ込めようとして、先手を打った。後醍醐が自分の追号を「後醍醐院」とあらかじめ決めておいたということは周知のところであるが、右の記事は、北朝が後醍醐の遺言のままに追号を贈ったこと、それは讃岐院(崇徳院)の前轍を踏まないようにとの願いから出たものであったことを教えてくれる。

自ら崩御後の名前を名乗っちゃう。談志師匠みたいだ。
崇徳院の呪い、落語で知りましたね。

位置: 2,796
『増鏡』は、異論もあるが、南北朝後期に二条良基(1320~88、北朝の太閤)によって著されたとされる歴史物語で、後鳥羽天皇の代から後嵯峨天皇の代を経て後醍醐天皇による討幕にいたるまでの、京都宮廷を中心とした公家社会の歴史をつづったものである。『増鏡』についての研究は近年めざましい発展を遂げ、いろいろな観点から究明が進められている。

ふーん、また、読みやすいのが出たら読んでみようかしら。

とにかくガツガツ系の天皇だったことはわかりました。
好きにはなれない。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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