『石の骨』だってなお面白い『或る「小倉日記」伝―傑作短編集(一)』by松本清張

象牙の塔、とでもいうのでしょうか。そういうところでのマウントの取り合いというのは実に醜い。醜悪です。松本清張さんはその辺りに非常に過敏だったようですね。

ご本人は決して学歴の高いところに在籍された感じではなさそうですが。

位置: 3,782
「どうも田舎の中学校の先生などが知ったかぶりでつまらんことを書くから困るね。君、日本に旧石器時代があったなどという大問題がそんな人に簡単にわかってたまるものかね。そんな標本なんかいいかげんなものだよ」
岡崎博士は老博士のその語気に驚いたように眼を上げると、その大家は苦りきった顔をしていたというのだ。
それからすぐ己への岡崎博士のあの回答となったのであろう。人類学界の泰斗竹中雄一郎博士のその時の心理を推察するのは容易だ。彼はたぶん自己の権威において、このような学界未曾有の重大な提唱が一地方の教師によってなされたことが不満であったのだ。いや、はっきり言うと、彼が岡崎博士を圧迫したのは、彼の学者的嫉妬なのだ。

いや、実に醜い。
こういう人間にだけはなりたくない、と思わせる露悪ぶり。

位置: 3,860
己はそこに一日じゅう、灰の中に 膝 をついてすわりつづけた。顔も手足も真っ黒になった。墨を塗ったような顔に、涙が流れ伝ってやまなかった。
自分の 生涯 を 賭けた日本旧石器時代研究の 唯一 の証拠であり、基礎である洪積世人類骨化石は、こうして己から失われてしまったのだ。
ふみ子は、己の様子を見て、 「あなたは隆一郎の戦死の時よりも、標本の焼けたのが悲しいのですね」と乾いた声で言った。己に向けたその 憎悪 の色が気に食わなかったので、己は立ちあがるなりふみ子を殴りつけた。 「何を言うか。おまえには今のおれがわからぬか。おれを殺すつもりか」とどなった。

また辛いことを言わせるんだ。
誰かが自分の道を行こうとすると、それのせいで誰かが不幸になる。それを見ているのはとても辛いことです。

位置: 3,984
「しかし見るだけで、報告論文が書けないでは学者としての機能はないじゃありませんか?」
彼のその眼も言葉も、己は切りかえすことができなかった。そのとおりなのだ。もはや、三十年近い以前から 冷嘲 の中に言いつづけてきた波津の 洪 積 地層がいよいよ本格的な発掘だというのに己はただの傍観者の席しか与えられなかったのである。
水田博士から因果を含められたとき、己がもう少し若かったら、怒りをぶちまけるところだった。実際、屈辱に心は 沸 りたった。しかし 齢 もすでに五十の坂をとうに越した。ふみ子を失った気の弱りもなかったとは言えない。その発掘によって、もっと立派な人類遺物が出て、己の主張する日本旧石器時代の証明ができれば、学界の寄与としてそれで満足ではないかという大義名分の純理論もわれとわが心を説き伏せた。しかし、やるせない寂しさは消えるはずはなかった。

さぞ無念でしょう。おのれの人生はなんだったのか、問いたくもなる。
しかし、そういった無念の上に色々と成り立っている。実にカルマであります。

位置: 3,993
しかし、やるせない寂しさは消えるはずはなかった。 「しかし、先生」
と記者は 椅子 を近づけて小さな声になった。
「こういう声がありますよ。水田博士が先生の発見された人骨化石を認めたのは、ある功名心からだというのです。つまり、それに学名をつけたのは水田さんですからな、なんとかトロップスとかエンシスとか長い学名の次にはミズタとあるんですからな。永久に残りますよ。それに、今度の発掘だって、肝心の先生をタッチさせないなんて、まるであわよくば功労の横取りだというんです」

若者よ、あまり言ってくれるな。
なんて思ってしまいますよ。とても辛いところ。

人間関係なんて、必要以上に築くものじゃないな、と思わせるほどの作品。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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