『落語と私』言葉の重み

やはり調べぬいた方の言葉というのは重みがあります。

p180
かつて古今亭今輔演じる新作『網棚』は、戦後落語の傑作でありました。いや、今でもこれ は傑作といえます。しかし、米の買出しということの体験者がどんどん減ってゆく今日、食糧 難、買出しの苦労、そのせつなさ、そして、せっかく買出しをしてきた米を、食管法違反とし てとりあげられた時のなさけなさ……それらの体験、知識がないとしたら、この新作落語の味 はおそらく判っていただけますまい。
新作落語ほど、はやく古くなる………これもまた真理であります。そしてそれに耐えて残って ゆく作品、幾多の演者の手にかかってすこしずつ改良されてかたまってきた作品、それが古典 の列に加えられてゆくのだと、わたしは思っています。

古典になる新作、今の世界にどれくらいあるでしょうか。1割くらいは来世紀まで残ったりするんでしょうか。謎ですね。

p215
落語は現世肯定の芸であります。
大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日が無事にすぎて、なんとか子 や孫が育って自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ………それでいいというような芸で す。 その基盤とするのはごく普通の「常識」、これであると思います。

まさに人生に寄り添う芸ですな。
業の肯定、とは家元のお言葉ですが、上方落語中興の祖の師の言葉もまた、現世肯定なわけです。常識の肯定とでもいいますか。

確かに奇想天外なことも起こりますが、最後には必ずオチる。サガる。それが落語だ、と言われているような気がします。

p215
前にも、「落語は正面きって述べたてるものではない」と書きましたが、汗を流して大熱演 する芸ではないのです。……実際は、汗を流して大熱演していても、根底の、そもそもが、 「これは嘘ですよ、おどけばなしなんです。だまされたでしょう。アッハッハッハ」という姿勢のものなのです。
芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。世の中の余裕、おあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした芸」なのですから、洒落が生命なのです。
わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。 『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやっ て一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生 懸命に芸をみがく以外に、世間へお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚 悟の前やで」。

いい言葉だ。洒落が生命。
この教えを胸に、洒脱で軽妙に生きていきたいですな。

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