『落語と私』は落語入門書の最適解

これ以上にいい入門書を、寡聞にして知りません。

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p128
前座がしゃべったあとへ出た者は、一席しゃべったあと何かおどりを踊ってひっこ む。つぎの演者はマクラをいろいろとしゃべって(つまり漫談のようなもの)小噺を二つ三つ やっておりる。あとへ出た者はみっちり一席のはなしを演じきる。つぎがちょっとしゃべった あと、端唄や都々逸や大津絵などを歌ってはいれば、そのあとがたっぷりと人情噺を聞かせ ます。中には紙切りをやるはなし家もあり、手品を見せたあと、タネ明かしで笑わせてはいる はなし家もある。三味線の曲弾きをやる、声色物真似をやる、芝居噺や音曲、夏なら怪談 ばなし、おしまいに大勢が並んでいわゆる大喜利の、なぞかけやお題ばなしのようなものをつ けたり………、落語家ばかりが並んでいても、けっして落語だけをしゃべっていたわけではなく て、いろいろな芸を盛りこんで一晩の寄席興行を成立させていたわけです。

寄席興行のかつての形。噺家ばかり並んでも、やるものは歌舞音曲もあったんだそうな。余興も立派な噺家の芸のうちだったんですね。今は落語一本槍の噺家も多そう。もちろん歌舞音曲も学ばれているんでしょうが。

p167
そこへ明治維新、なにもかもがガラリと変わりました。円朝も壮年になりました。彼の偉い ところは、お客に喜ばれていた道具入り芝居噺を、このへんでサラリと捨てたことです。 「世の中も変わったし、これからは素噺一本でいこう、真の話芸を身につけよう、というわけ
で、これまでも自分ではなしを創作して演じていたのですが、さらにそれにうちこんで、つぎ つぎとすばらしい作品を、世に送りつづけました。
そこへ速記術というものが日本にも誕生したのです。若林蔵、酒井昇造という二人が日本の速記者の草分けです。
(中略)
当時の若い文 学者つまり小説家は、口語体の小説を書くのに大変苦心していました。それまでの文学作品といえば、むずかしい文語体の文章にきまっていたのです。二葉亭四迷という作家が、坪内 逍遙に相談したところ、円朝の速記本を参考にするようにいわれて、言文一致体と当時は呼ばれましたが、わが国最初の口語体小説、『浮雲』がうまれたのです。

圓朝は素噺と速記術を確立した、という話。
すごい人だ。言文一致体にまで話が及ぶんだから、米朝師匠の話はためになる。

そして漱石も大好きだった三代目小さん。

p177
人情噺の系列の、語調をしめてシトシトと語って聞かせる口調ではなく、あかるく開放的で、 人情噺風に対して、あくまで落しばなし風なのです。陰に対する陽です。この人の落語は、そ のまま今でも通用します。現行の落語で、この人の速記とほとんど変わらず、演出もそのまま
……というのも少なくありません。

滑稽噺の柳家、と言われる祖でしょうか。すごい人だったんでしょう。レコードが残っているってぇから、聞いてみたいような気がしますね。

そして話は柳家金語楼に入っていきますが、今回はここまで。

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