『後世への最大遺物』はユーモラスな思想書だが、欲のかき過ぎでもある1

「三度鑑みる」から鑑三だそうですが、素晴らしい名前ですね。
とはいえ、それくらいしか知識はありませんでした。

しかし本著を読んでみると、なるほど、この人はユーモアの人だ。弁も立つ。思想家ですね。

明治の思想家・宗教家である内村鑑三が箱根・蘆の湖畔で1894(明治27)年にキリスト教徒夏期学校で行った講演の記録。初出は「湖畔論集 第六回夏期学校編」[1894(明治27)年]。人は後世に何を遺して逝けるのか。清き金かそれとも事業か、著述をし思想を残すことか。それとも教育者となって学問を伝えることか。しかし何人にも遺すことができる最大の遺物がある。それはその人らしい生涯を送ることである、と説く。ユーモアに満ちた語り口の中にも深い内容を湛えた近代の名著。

真心ブラザーズの名曲、『人間はもう終わりだ』を思い出します。

死んだ後も名を残したいなんて、欲のかき過ぎですよ。

位置: 105
しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、

しかし、鑑三先生はそうではない、持っても良いと言う。

位置: 114
しかしながら私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。

国や社会に対してならまだしも、山や河に向かっても。欲のかき過ぎだと思うなー。

位置: 127
しかるに今われわれは世界というこの学校を去りまするときに、われわれは何もここに遺さずに往くのでございますか。その点からいうとやはり私には千載青史に列するを得んという望みが残っている。私は何かこの地球に Memento を置いて 逝きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。

私は、私が。
そういう考え方を野暮だとかみっともないとか、そういう風には思わないんですな。やはり明治の人だ、という印象です。

位置: 269
さて、私のように金を溜めることの下手なもの、あるいは溜めてもそれが使えない人は、後世の遺物に何を遺そうか。私はとうてい金持ちになる望みはない、ゆえにほとんど十年前にその考えをば捨ててしまった。それでもし金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際問題が出てきます。それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、 事業 です。 事業とは、 すなわち金を使うことです。

また情けないことに、事業も金を使うことも、あたくしには能わぬような心持。
しかしちゃあんと、鑑三先生、続きをおっしゃっていますよ。

位置: 373
それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の 思想 です。

思想ね。思想を残す。
それも大切ですね。それは勝手にすればよろしい、と思います。

位置: 378
すなわちこれを短くいいますれば、 著述をするということ と 学生を教えるということ であります。著述をすることと教育のことと二つをここで論じたい。

講演の記録ですんでね、揚げ足を取るようなツッコみは避けたい。

位置: 396
しかし山陽はソンナ馬鹿ではなかった。彼は彼の在世中とてもこのことのできないことを知っていたから、自身の志を『日本外史』に述べた。そこで日本の歴史を述ぶるに当っても特別に王室を保護するようには書かなかった。 外家 の歴史を書いてその中にはっきりといわずとも、ただ勤王家の精神をもって源平以来の外家の歴史を書いてわれわれに遺してくれた。

頼山陽の『日本外史』が引用されました。この辺りはあたくしには、まだよくわからん。勉強が足りぬ。

位置: 433
そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰でも筆を 把 ってそうして雑誌か何かに批評でも 載 すれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは 惰 け書生の一つの 玩具 になっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに文学というものはまことに気楽なもののように思われている。

文学は気楽じゃだめだ、とのこと。
むむむ。

位置: 445
なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。

講演ですんで、あんまり細かいところは言いたくないですが、己の主張を強化するために何かを扱き下ろすというのは下衆の常套手段。『源氏物語』を悪くいうことが何か良いとは思えませんね。根こそぎ絶やしたい、なんてなかなか強烈な。

位置: 449
文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。それゆえに文学者が机の前に立ちますときにはすなわちルーテルがウォルムスの会議に立ったとき、パウロがアグリッパ王の前に立ったとき、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に 臨んだときと同じことであります。

吠えるねぇ。文学は気楽じゃだめだ、っていう人ですね。

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