『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』感想 堺屋太一さん、初めて読んだ

政治家で作家で、って方なんですね。マルチな才能ってやつか。

世に名将・名参謀と呼ばれる人物は数多いが、名補佐役はきわめて少ない――。激動の戦国時代、尾張の貧しい農民の出でありながら、野心家の兄・秀吉を天下人たらしめ、自らも“大和大納言”と呼ばれるまでにのぼりつめた男・豊臣秀長。この人なしに、秀吉は天下人になれなかったと言われる。本書は、卓越した実務能力と抜群の調整力、非凡な統治能力で、脆弱な豊臣家の体制を支え続けた、日本史上屈指のナンバー2と呼ばれる男の生涯を丹念に描く歴史巨編。

この本も、よく書けているかと言われると、そうでもないと思います。ただ、着眼点が素晴らしい。秀長とはね。いや、確かに名参謀は多いが名補佐役はあまり聞かないです。

勘兵衛・半兵衛もいいけど、秀長もね、ってね。

梢は高く、根は深く

位置: 1,190
「いや、小一郎。半月やないぞ」
と、続けた。
「信長様が半月と申されたなら、それよりも 早 ようやらんといかん。十日、いや七日で仕上げる。そうでのうては木下藤吉郎を御名指し下された殿の御意向にお応えすることにはならんわ」
「そんな、無理なことを……」
小一郎は、腹立たしくうめいた。この兄の言葉から、殿中で交された会話の 総てが「この人」にはまざまざと想定できる。

本著を通してそうなんですが、秀長を名補佐として描くあまり、あんまり秀長に人間味を感じないんですよね。なんだ、単なる天才か。ってね。

信長・秀吉像も、テンプレどおり。

位置: 1,409
丑造は意外な話に驚き「そんなつもりでは」とかうめきながらも嬉しそうに頭を下げた。その笑顔を見ながらも小一郎は、
「こいつ、いずれは追い出さねばなるまい」
と考えていた。補佐役たるもの、主役の出世を喜び、主役の出世でこそ出世し得るものだと心得ていたからだ。「この人」には、主役たる兄・藤吉郎の評判こそが大切だった。それに比べると、三百文が三貫目であろうと、大した問題ではない。

恐ろしい判断やで。
私心がまるでない人間、ってのも、稀すぎますね。だからこそ、名補佐役が稀なのかもしれませんが。そこをきれいに書きすぎると、人らしくなくなる。

位置: 1,503
戦国大名のほとんどが、たとえ不便でも本拠地から動けなかったのに、織田信長だけが、岐阜に、 安土 にと本拠を移し、天下取りに先駆けたはじまりは、実にこの小牧移転の成功にある。

なるほど、面白い指摘。
兵農分離も進むしね。

敵中に功あり

位置: 2,127
二千人を指令する軍政司令官という役割と四百貫という封禄とは、いかにもアンバランスだ。当時としては常識破りのこのやり方こそ、信長式である。この天才肌の 苛烈 な主君は、能ある者には重責を与え大軍をまかすが、封禄の方はそう気前よく増しはしない。それによって有能な成上り者と能力の乏しい累代の重臣との均衡を取っていたのだ。
「能ある者には権を、功ありし者には禄を」
という人事管理の要領を、若き日の信長は見事なまでに実行していたわけだ。

いかにも、それは長続きはしない。けれども、一時的にはそれが有用かもしれませんね。
あたくしはあんまり好きじゃないんだけどな、この考え方。
武将の方々には良いのかもしれません。

竹中半兵衛

位置: 2,561
〈よし、ここは一つ、半兵衛を大いに立ててやろう。大事の前の小事じゃわい……〉
小一郎はそう決心して、自ら下座に、それもかなり距離を置いた場所に座り、うやうやしく半兵衛に一礼した。
「御 丁重 なこと、痛み入る……」
竹中半兵衛は、小一郎の方に少し頭を下げて礼を返しただけだった。
その日の夜、兄は小一郎を長屋に訪ねて来て、
「小一郎、よう辛抱してくれた……」
と、礼をいった。
「なんの、俺は兄者の弟じゃからなあ……」
小一郎は笑ってそう答えた。

できた人、という言葉では簡単に片付けられないくらい、あまりにも非人間的。
なんだろうね。名人か。

「天下布武」走る

位置: 2,848
「明朝までに雑務を片付けるなどとても無理ですから、誰ぞに一隊をつけここに 留め、残務はまかせようと考えておりますが……。いかがでしょうかな、半兵衛殿」
小一郎は、半兵衛の顔を 覗き込むようにして、そう訊ねた。この種の男を喜ばせるのには七十点の所まで答え、残りは相手に語らせるのがよい、とかねがね兄から教えられていたからである。

半兵衛も秀長にかかれば手の上か。珍しいよね。だいたい半兵衛は知恵者として描くから。

それにしても秀長無双。

深慮の貧乏くじ

位置: 3,372
これより先、日本最大の商工都市・堺も信長に屈服した。去年、矢銭拒否の返答に行った堺の代表十人が岐阜城で逮捕投獄され、うち二人が脱獄のかどで 斬殺 されるという事件があった。堺の 会合衆 はこれに反撥して三好三人衆の反攻に手を貸した。阿波勢の上陸に港を利用させたばかりか、軍資金と鉄砲を提供したのである。だが、それも失敗に終ると市民の態度は逆転した。反信長派のべに屋、 能登 屋 らの 門閥 豪商が表面から退き、親信長派の 今井宗久、 津田宗及 らが町の代表格となった。堺の豪商たちは、新しい実力者・信長に取り入ろうとする政商と、政治から離れてひたすらに稼ぐノンポリ派とにはっきり分かれたのである。

偉いざっくり描かれていますが、面白いよね、この下り。
いや、当事者はたまったもんじゃないだろうけど。

位置: 3,453
さらに信長は、二日後の三月二十日に 朝山日乗 とフロイスおよび修道士ロレンソとに面前で宗論を戦わさせた。結果はフロイス・ロレンソ側に 分 があったといわれている。信長はその後も仏教各派に宗論を戦わさせているが、宗教を一つの理論思想として 捉える無神論的合理主義ならではのことだ。この男は、神も仏も恐れなかったばかりか、政治勢力としての宗教をも決して恐れることがなかったのだ。

これも面白い。信長らしいエピソード。

試練のとき

位置: 4,184
この日、織田軍の十三段構えは九段目まで破られ、信長の本陣で 辛うじて支える有様だったという。依然として織田信長の兵は 白兵戦にはひどく弱かった。信長がいち早く鉄砲に頼るようになった原因の一つは、 刀 槍 戦における自軍の弱さを認識したからでもある。

信長の戦下手は常識とはいえ、なるほど、こう書かれると理屈かもしれない。

強きに流れる

位置: 4,605
信長は、戦場での駆け引きの才は乏しかったが、全体的戦略眼は実に確かだった。

これも同様。

補佐役の気働き

位置: 4,931
つまり、この頃までに木下藤吉郎=羽柴秀吉の家臣になった連中には、戦さはできても天下を治める政権の中で働けるような人材はほとんどいなかったのだ。それだけに、この時期の秀吉を補佐して家中をまとめたこの人、小一郎秀長の才覚と苦心は誠に立派だったといわねばなるまい。

武官から文官へ。鎌倉以降常にある問題ですよね。
やや盛った表現ではあろうが、秀長が立派なのは間違いなかろう。

位置: 5,767
人質の受取りの仕事は小一郎が担当した。単に人間をもらい受けるだけではなく、差し出された人質と当主との続柄を調べ、人質としての価値を 吟味 する。もし、縁が薄く、人質の生死が当主の意思決定にさほど影響しないと思えば、人質の交代または追加を要求しなければならない。

そんな仕事もあるのか。知らなかった。よく考えればありえる話ではあるけどね。

捨てる者の心

位置: 6,161
毛利家は、先代元就以来 戦 さを好まず兵を動かすに 吝嗇 である。この家が大をなしたのは 専ら外交により相手を乱し 恫喝 によって 糾合 した結果である。特に、元就死後は 守成 を重んじ、高利貸が銭を蓄えるように安全第一の小稼ぎを重ねている。 殊に、この山陽方面を担当する小早川隆景は慎重だ。彼の配下は、商人気質で流動性の高い水軍武士が多く、形勢悪しと見れば離反する傾向が強い。今度の場合は殊更にそうだ。毛利方最大の大名・宇喜多直家の 向背 が極め難いのである。

勉強になる。確かにそういうイメージは合ったけど、文字になってそれを読んだのは初めてかも。

位置: 6,253
結局、織田方は形ばかりの攻撃を毛利の 堅陣 に加え、それが予想通りの失敗に終ったのを口実として高倉山を退き、もとの書写山へと移動した。
この時、小一郎は織田方の 殿軍 を務めた。深い柵の中に籠る毛利勢が追撃して来るとは思えなかったが、間近に来た援軍が何らなす所なく去って行くのを見つめているであろう 孤城 の尼子衆の気持を思うと、心が重かった。
小一郎の部隊が夕日を浴びた山頂を去ろうとする時、上月城からは万感をこめた怒声のように貝が鳴り、小一郎の気分を一層暗くした。この時、小一郎は、百姓を捨てて武士になったことに、かすかな後悔をさえ 憶えたものだ。
救援の見込みを失ったのちも、上月城はなお半月も持ちこたえた。この城が落城し、尼子勝久らが切腹したことを小一郎が知ったのは、七月五日の夜半である。尼子氏再興を悲願として最後まで生き続けた山中鹿之介も毛利の手によって処刑された。ここに、 出雲 の名族・尼子は全く亡び去ったのである。ただ、山中鹿之介の幼い遺児だけは生き残り、その子孫が清酒を発明、巨富を成して 鴻池 両替店を開くことになる。かつての 三和銀行の元祖である。播磨の山中で見捨てられた男の家系は、見捨てた者たちのそれより、はるかに長く栄えたわけだが、勿論これは、羽柴秀吉・秀長兄弟には何の関係もないことだ。

鴻池の始祖が山中鹿之介の子孫だった、ってのは初耳だわ。
意外な結びつき。

しかしこれは小一郎にとって嫌なシンガリだったろうなぁ。

補佐役の心得

位置: 6,612
黒田官兵衛の大胆な行動は、小一郎の悲観的な予測よりもさらに悪い結果となる。有岡城を訪れた黒田は、村重に会うことすら許されぬままに捕えられ、一年余にわたり牢に 繫 がれてしまう。
当時の城内牢は極度に狭く、日照通風も悪かった。入牢者は立つことも足を伸ばして寝ることもできず、湿った土間に座ったまま死か 奇蹟 的な救出を待つほかはない。その上、包囲攻撃が進むにつれ食糧も不足した。このため、この城が陥落して救い出された時、黒田官兵衛は頭髪が半ば以上も抜け、一方の足が曲ったまま伸びないほど変り果てていたのである。

国際法など無い時代の戦争ですからね。略奪当たり前。
当然、捕虜の扱いなんざ、相当だったでしょうね。しかし無惨な。

位置: 6,642
〈日向守と 兄者 の競争は、結局は中国筋で決る〉
ということだ。今や日本列島の中央部に巨大な 版図 を築いた織田家にとって、播磨や丹波、摂津での 戦 さは小さな極地戦でしかない。天下の雌雄を決する戦いは中国十一カ国を持つ毛利との間で行なわれる。ここでの功名こそ織田家第一の出世を約束するものだ。幸いにして兄・秀吉は中国攻めの 先鋒 として播磨にある。だが、光秀もまた、この戦さに加わり、大きな戦果をねらうだろう。光秀が担当している丹波・丹後からは但馬を経て、毛利領の 因幡・伯耆 に出られる。戦略眼を持つ光秀がそれに気づかぬはずがない。
〈明智殿より先に但馬を治めてしまわにゃならん……〉
そう考えると、但馬の入口、竹田の城を与えられている自分の役目の大きさを、改めて悟るのであった。

うーむ、鋭い。まるで後世の人間が想像で書いたような。

位置: 6,744
羽柴小一郎秀長の晩年は、この変質過程における新旧両派の調整に精力の多くを費やすことになるのである。この人の補佐役としての業績の中で、最も重要なものの一つは、これであった。

鎌倉幕府もこれが収められずに問題になりましたよね。
武人・文人、古参・官僚の対立は、幕府なら必ずある。そういう意味じゃ徳川幕府はうまくやったということでしょうね。ますます関心。

不吉の彗星

位置: 7,083
信長はここでも、「われ憤りを忍ぶこと十年、天下ようやく定まるに至り」と繰り返している。
要するに、この二十余年間、憤りを忍んで各人の罪業に目をつぶり、加増をしたり茶会に呼んだりしていたが、天下平定が進んで多少の反抗混乱があっても大丈夫になったから、この際気に 喰わん連中はみな追放するのだ、というわけである。

そんなことしてりゃ、謀反起こされるわな。

位置: 7,096
それにも増して諸将を脅えさせたのは、折檻状にある「天下ようやく定まるに至り」の一言であった。天下平定に必要な間は許しておくが、御用済みとなればさっさと 馘 というのでは 堪らない。佐久間信盛は本願寺を降した途端にお払い箱になった。「では次は……」という疑心を誰もが持つのは当然だろう。

それが明智の謀反につながっていく、というわけですね。

変事

位置: 7,429
この時、小一郎秀長は、改めて兄の強運に驚いたものだ。かつての墨俣築城の際にも、越前金ケ崎からの撤退の時も、近江で浅井長政を攻めている頃にも、何度か兄の運の良さには驚かされたものだが、今度ばかりは正に「天佑神助」というほかはない。もし、この雨が五日でも早く来ていれば激流と化した足守川を堰き止めることはできなかっただろうし、五日遅かったら毛利本隊との決戦は避けられず、勝負はどう転んだか分らない。いやむしろ、劣勢を感じていた羽柴勢は高松城の東北まで一旦後退していたに違いない。

それは本当に言えるよね。秀吉は強運。

位置: 7,531
この二つ──危ない芸当ができる度胸とそれを成功させる強運──こそ、小一郎が「兄こそわが主君」と考える最大の要素であり、また「生涯、兄のような立場にはなりたくない、補佐役でいたい」と思う理由でもあった。

これは本当にそう。しかし、秀長は秀吉と一蓮托生だから、すでに「兄のような立場」どころか一蓮托生のような気がしますがね。

位置: 7,651
『太閤記』など、後に書かれた文書には、本能寺の変の直後から羽柴秀吉は「主君の仇を討つ善玉」として描かれている。だが、それは徳川幕府成立以後の朱子学的倫理観による着色である。最も古い小瀬甫庵の『甫庵太閤記』の 跋文 が1617年、刊行は1661年であり、一般に流布した『 川角太閤記』の成立も1622、3年の頃だ。
しかし、現実に秀吉が明智光秀と戦った頃の世の見方は大いに違っていた。当時は、有力な部将が主君を殺害することは珍しくなかったし、それほど非難されることでもなかった。むしろ主君が十分な恩報を与えぬ時にはさっさと裏切り寝返りに走るのが常であり、主君が悪逆無道なら追放殺害に及ぶのも一種の正義とさえ見られていた。

そりゃ、討つよね、ってことだ。
そうかもしれないけど、それが当たり前だとしたら、信長はあまりに手薄じゃなかったかという疑問は残る。自分が討たれるとは微塵も思っていない、ようなタイプではないと思うんだけどなぁ。

江戸時代の朱子学的、というのはまさにそうだと思います。

位置: 7,678
黒田官兵衛の囁きは、秀吉が他の部将たちと同列に立って覇を争うことの勧めだったが、小一郎秀長の叫びは、「下賤の出」という劣等感を秀吉の心中から 拭うものだった。やっぱり秀吉を知る点では、黒田官兵衛よりこの弟の方が数段優っていたわけだ。
これ以降、黒田官兵衛孝高は次第に中枢から遠ざけられるのに対して、小一郎秀長はますます役割と所領を拡げ、豊臣政権に重きをなすのである。

面白い見方。
黒田官兵衛にはあたくしも「血なまぐさい」イメージがありますが、秀長と対比すると面白いかもしれません。

天下への坂

位置: 7,920
小早川隆景に宛てた書状の中で、光秀は信長殺害を知らせると共に、わざわざ足利将軍に対する忠誠について言及したのはこのためである。
このことは、信長殺害後の天下支配の形態として、明智光秀が描いていた構図を暗示しているようで興味深い。それは、有名無実の足利幕府をお飾りとして、各地の大名たちが 管領、守護として自立する中世的体制だったようだ。恐らく「西国のことは毛利にまかせるから、 上方 での自分の行動を支持して欲しい」と書いた光秀の言葉は、 噓 ではなかっただろう。この教養人には、信長の考えていたような中央集権的絶対王政は、あまりにも 斬新 で恐ろしかったのである。
だが、その毛利も、明智光秀には味方しなかった。たとえ、光秀の使者が羽柴の陣に迷い込んで捕われるようなヘマをせず、小早川隆景の陣に入っていたとしても、のちの歴史はさして変らなかったに違いない。

タラレバが面白いところだ。

位置: 7,975
天正五年ごろから、織田信長は、「方面軍制度」ともいうべき近代的な軍制を採用し、七人の重臣をその地位に 就けたことは前に述べた。だが、その後、荒木村重が 叛乱 に失敗して死に、佐久間信盛は信長の 勘気 に触れて追放された。そして今また明智光秀が敗死した。この結果、残る「方面軍司令官」級の重臣は四人、北陸方面軍司令官の柴田勝家、東国方面軍司令官として上州厩橋にいる滝川一益、四国方面軍司令官として進攻準備中だった丹羽長秀、そして中国方面軍総司令官の羽柴秀吉である。

清須会議の舞台は整った、というべき事態。
いやぁ、オールスターだ。

位置: 8,084
織田家の「東国方面軍司令官」滝川一益が、上野の 神流川で北条勢と戦い、大敗したというのである。頑固な反秀吉派の滝川一益を宿老の座からはずす絶好の口実ができたわけだ。これによって、織田家中における勢力関係も一挙に逆転したといってよい。
対峙 する毛利と素早く 和睦 して上方に駆けのぼった羽柴秀吉と、世間知らずの北条に絡みつかれて敗戦の憂き目を見た滝川一益との差は、正に運命的である。流浪の身から織田家の宿老にまで成上り、つい三カ月前には武田攻めを主導して功第一級とされた滝川一益も、これを境として没落の一途を 辿る。才能も野心も大きかったこの男は、その後も再起を目指して 足 搔 くが如くに動き回るが、やることなすこと裏目に出、小牧・長久手 の戦さの後で 剃髪、越前大野に 隠棲 して朽ちるように消えて行く。

大変に覚えめでたかった滝川一益が、ここで出世レース脱落。

こういうのみると、あたくしに出世は向いていないと心から思い知りますね。

位置: 8,124
そんな秀吉にとって、絶好の素材があった。織田信長が跡継ぎと定めていた長男信忠に三歳の幼児 三 法師 がいたことである。
当時の人々にとっては、三歳の幼児を大織田家の総領とするとは奇想天外の発想だったに違いない。日本において長子相続制度が確立したのは徳川幕府の成立後、三代将軍家光の頃からである。それ以前には、そんな規則は全くない。

これ、知っておくと清州会議がより面白くなる。

位置: 8,150
偉大な織田家を実在のものと信じ、その宿老筆頭を自認していた柴田勝家もまた、存在しない虚構を信じて失敗したのである。
そんな柴田勝家を慰めるものがあったとすれば、彼の支持した神戸信孝が、美人の 誉れ高い信長の妹・お市の方を、妻に与えてくれたことであったろう。
お市の方は、かつて織田と浅井の同盟の 絆 として浅井長政に嫁いでいたが、小谷城落城後は、三人の娘とともに信長の弟・織田 信 包 の保護によって 伊賀上野 城にいた。天文十六年(1547)生れだから、この時、35歳になっていたはずだ。当時としては中年も後半といえる年齢だが、なお容色は衰えていなかったというから、 噂 通りの美人だったに違いない。

このとき35歳か。

あとがき

位置: 8,716
その点、小一郎秀長の戦勝記録は 凄まじい。小一郎は生涯のうちに大小百回以上も戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。弱兵 寡勢 を率いる時はよく守って崩れず、大軍を持つ時はけれん味のない戦術で敵に乗ずる隙を与えなかった。何よりもこの人が得意としたのは、 兵站 と諸将の調整だ。

軍神かよ。これ、本当かしら。

位置: 8,760
氏素姓さえ分らぬ 下賤 の出のため、臣下第一等の地位に立つには 源平藤橘 に次ぐ第五の姓を創設する必要があったのだ。

豊臣氏の由来ね。確かに仰々しい姓よね。

位置: 8,773
そればかりか、秀吉の 逆鱗 に触れた多くの家臣が小一郎のとりなしを求めて来た。家来を抱え過ぎて破産した加藤光泰も小一郎のとりなしで旧に復したし、佐々成政も一度は 生命拾いをした。高慢な 千利休 などは何度となく小一郎の 邸 に逃げ込んだ。小一郎が生きていた間、秀吉は部下を 斬ることはほとんどなかったし、一族の生命を奪うようなこともなかった。秀吉が残忍な処刑を多発するのは、この人の死の直後からである。

皮肉よなぁ。

位置: 8,800
天正十九年正月二十二日、この人が大和郡山城で没した時、金子が五万六千枚、銀子は二間四方の部屋に棟まで積み上げてあったと『 多聞院日記』は書いている。尾張中村郷の百姓小竹であった頃から、銭に興味のあったこの人は、百十四万石を領する権大納言となったあとも、決して無駄な銭は使わなかったのだ。
小一郎の築いた大和郡山の城は、その巨封に比べて質素であり、その生活は、あまりにも豪華であった兄のそれとは対照的に地味だった。

1591年だから、文禄の役の前年ですね。
この人が生きていれば……と思わせる、いい亡くなり方。

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都内在住のおじさん。 3児の父。 座右の銘は『運も実力のウンチ』

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