『社会契約論 ──ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』感想 言っていることは分かるが内容を理解するには至れなかった

突然やってくるルソーブーム。

私たちが暮らすこの社会は、そもそもどんなふうに生まれたのか。社会の形成・維持に不可欠なルールが、現にこうして守られているのはなぜか。政治秩序の正しさは、誰がどう判断すべきなのか。社会契約論とは、そんな素朴な問いを根源まで掘り下げて考える試みである。本書では、ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズの議論を精密かつ大胆に読み解きながら、この近代の中心的思想に新たな息吹をふき込む。今までにない視点から世界の成り立ちが一望できる、清冽な政治思想入門!

自分でも何故かはわからないけど、たまに読みたくなるんですよね。現代の思想の根底にあるものを知りたくなる時が、たまにある。

はじめに

位置: 97
つまり社会契約論は、人間社会が維持されるための最低限のルールとは何かを考える思想だ。そしてまた、そのルールが正しいかどうかを判断する際、人間自身が持つべき基準や手続きはどうあるべきかを考える思想なのだ。

王権神授説に対する考え方として、ってことで習ったような気がしますが、実際の現代では社会契約論がベースになっているわけでもないんですよね。かなり根底にある気がしますが、社会をクーリングオフなんて出来ないもんね。

位置: 116
戦争で大きな犠牲を出した日本では、戦いはもうこりごり、という雰囲気が人々の間に広がっていた。国土は荒廃し、生き残った人々の生活は苦しく、戦時期の軍国主義への反省から、新しい国のかたちについての希望や誇りが必要とされた。その希望の一つとして、社会契約論は民主主義国家の理念を体現する思想として読まれたのだ。
そこで社会契約論は、何よりも「民主主義における国家権力への歯止め」を示す思想として理解された。

んで、そういう時代を経て、現代ではどれくらい支持されている考え方なんですかね。

位置: 134
つまり社会契約論は、戦後の日本で進歩的、あるいは近代的で民主的な国家が要請され、戦前のような国家権力の暴走に対する歯止めが求められるときには、必ず念頭に置かれていたのだ。

引用してきたのが17世紀の思想ってのが、なんともアレな感じですが。
それとも17世紀にして完成した思想なのかな。

第1章 ホッブズ

位置: 265
試みる。ホッブズの主著『リヴァイアサン』の斬新さの一つは、この方法を政治社会がどのように生成するかを描く際に用いた点にある。つまり『リヴァイアサン』は、幾何学の証明法から影響を受け、それを政治と法の世界に応用するという、実に前衛的な試みなのだ。

極めて数学的なアプローチから産まれた政治社会論なわけだ。

位置: 298
マキャヴェリの『君主論』とホッブズの『リヴァイアサン』は、崇敬と嫌悪と恐怖とが入り混じった不思議な感情を惹起しつづける、近代政治思想の二大著作なのだ。

そうね。たしかにどっちも薄ら寒いものを感じましたね。

1 世界の運動論的把握とは

位置: 304
ホッブズという思想家には、何だか怖い印象がある。それはたとえば、「万人の万人に対する闘争」あるいは「人が人に対して狼」といった、『リヴァイアサン』の有名なことばからの連想でもあるだろう。
だいたい『リヴァイアサン』というタイトルが怖い。リヴァイアサン(レヴィアタン) とは、旧約聖書のヨブ記などに出てくる海の怪物で、その姿はワニやクジラ、また龍や蛇として描かれてきた。

ファイナルファンタジー育ちのあたくしには非常に馴染みがある。しかし、いつも「バハムートよりちょっと弱い召喚獣」扱い。もう少し強くてもいい。FF5では育て親だったか。

位置: 363
絶対王政の擁護者か人民主権論者か。機械論的無神論者か神への信仰の持ち主か。政治秩序を人工の機械として捉えたのか、それとも神による秩序として捉えたのか。これらは、ホッブズの分からなさからくる真逆と言ってよいイメージだ。そしてこの本を書くために、私がこれまで蓄積されてきたホッブズ解釈史を少しばかり調べてみて思ったのは、そのどれもが部分的には納得できるということだ。

ということは、それのどれもがすべてを物語るものではないということで、言ってしまえば本旨ではない、ということですね。

位置: 383
アリストテレス、およびその影響を受けた中世神学は、目的に向かう完成や成長のモデルで自然と人間を説明しつくそうとする。ホッブズは、たとえば植物の種子に完成体としての木が含まれるといった発想によって、出発点に目的を織り込んでいくアリストテレスのモデルを拒否した。自然現象は、その目的と切り離して運動として捉えられるべきなのだ。

うむ、アリストテレスより更に進んだリアリスティックな考え方。

2 政治社会の再構成とホッブズ問題

位置: 734
ホッブズにおける政治とは、人間たちがその共存の条件を自分たちで定め、共同性の行く先をその都度見つけていくような、外部の始源もなければ終極の目的もない活動なのだ。それは、死ぬまで運動をつづけ死ねば静止する運動体としての人間たちが、生きているあいだ他者とともに活動をつづける、彼らの居場所だ。

なるほど。首肯しますね。イデアみたいな考え方とは程遠い。

3 約束の力

位置: 980
ホッブズは、力と運動にまで世界をばらすことで、みなが平等にしょうもない存在だということ、そしてそれが人間にとって当然であることを示した人なのだ。だからこそ、その人間たちを前提に秩序を作るのが至難であることを、探求の出発点とした。

ふむ。もともと無理筋である、ということだ。納得ですね。

第2章 ヒューム

1 秩序の期限はどこにあるのか

位置: 1,119
だいたい、社会契約なんてリアリティのかけらもない。誰が契約したのか、したやついるなら手を挙げてみろ。これがヒュームの言い分だ。戦後の日本では、長らく国民=契約当事者=主権者という契約論的な前提はどこかで自明視されてきたように思う。私たち国民一人一人が主権者ですだとか、国の一員として政治意識を持ってだとか、主権者かつ市民としての責任ある行動と政府への批判の目を養うべきだとか、そういう語り方は今でもされている。
でも、誰も実際に契約した人などいないなら、こうした言説は全く無効になるのではないか。この分かりやすい疑問に答えることが、社会契約論にできるだろうか。契約した人などいないのに、契約こそが秩序の起源だと言うことに何の意味があるのだろう。

なるほど、説得力ありますね。

2 コンヴェンションとホッブズ問題

位置: 1,223
コンヴェンションとは何だろう。ヒュームは別の箇所で、それを「共通の利益に全員が気づくこと」と表現している。社会のすべてのメンバーは、この気づき=感覚を表現し、自分の行為を一定の規則に従わせるようになる。それがたとえば約束の遵守という規則である。したがってコンヴェンションは約束ではなく、約束より前にあるのだ。

ふーむ、そうなのかしら。
ちょっとむずかしい。

第3章 ルソー

1 ルソーの時代診断「政治経済論」

位置: 1,763
ルソーは、近代文明と富や市場の可能性を否定した。だが物質的繁栄が不平等をもたらし、そこにはびこる虚飾が根本的に底の浅いくだらないものだと見透かした人でもあるのだ。ルソーの反近代はしばしば前近代への回帰になり、古代への憧憬を語るアナクロ思想家のようでもある。だが、マルクスに先駆けて私有財産の弊害と資本主義における富の不平等を告発した先駆的思想家だと言われると、たしかにそうなのだ。

やっとルソー。しかし、マーカーを引いたところをあとから読み返しても、当時自分がなにに感銘を受けて引いたのか分からなくなるね。

第4章 ロールズ

黄色のハイライト | 位置: 2,289
社会契約論は、アメリカ革命とフランス革命という一八世紀の二つの革命において、象徴的な役割をはたした。その後も第二次世界大戦後の植民地の独立に至るまで、民族自決と国民国家形成の理論的支柱となりつづけた。ところが、国民国家形成が一段落し、それに伴って国民国家なるもののさまざまな矛盾や欠陥が露呈してくるにつれ、社会契約論自体が、「過去の思想」となりあまり顧みられなくなった。
こうした時代に、ロールズは『正義論』で社会契約論復興を試みたのだ。

社会契約論の復興を試みたロールズ、というレッテルでいいのかしら。

ちょっとむずかしい本でしたね。
少し寝かせてまた読んでみるかな。

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