『熱源』感想 直木賞受賞も納得の力作。アイデンティティの本質を問う。

この本自体もかなり熱源を感じましたね。寒い場所が舞台ですが。

樺太(サハリン)で生まれたアイヌ、ヤヨマネクフ。開拓使たちに故郷を奪われ、集団移住を強いられたのち、天然痘やコレラの流行で妻や多くの友人たちを亡くした彼は、やがて山辺安之助と名前を変え、ふたたび樺太に戻ることを志す。
一方、ブロニスワフ・ピウスツキは、リトアニアに生まれた。ロシアの強烈な同化政策により母語であるポーランド語を話すことも許されなかった彼は、皇帝の暗殺計画に巻き込まれ、苦役囚として樺太に送られる。
日本人にされそうになったアイヌと、ロシア人にされそうになったポーランド人。
文明を押し付けられ、それによってアイデンティティを揺るがされた経験を持つ二人が、樺太で出会い、自らが守り継ぎたいものの正体に辿り着く。

樺太の厳しい風土やアイヌの風俗が鮮やかに描き出され、
国家や民族、思想を超え、人と人が共に生きる姿が示される。
金田一京助がその半生を「あいぬ物語」としてまとめた山辺安之助の生涯を軸に描かれた、
読者の心に「熱」を残さずにはおかない書き下ろし歴史大作。

いや、これは大作でした。直木賞も納得。

第一章 帰還

位置: 531
だが、卒業して何をするのだろう。
ヤヨマネクフが知るアイヌの生活には、 生業 というものがない。生きるに足る食物を自ら山や海から獲り、生きるに要る道具を自ら小刀で削りだし、錦や宝玉、酒や煙草が要る分だけ 貂 や熊の皮を獲ってきて売る。そのような古来からのアイヌの生き方は、いつのまにか半ばを奪われ、半ばを自ら捨てようとしている。
自分たちではとても喰い切れない量の魚を獲って売り、着物やら時計やら米やらを買い、家族を養う。いままでは死んでいたかもしれない傷病者は医者が治してくれるようになり、 巫術 はめっきり行われなくなった。いまヤヨマネクフが着ている綿の着物は開拓使から支給されたもので、つんつるてんだが草皮衣よりも暖かく、慣れれば肌触りも悪くない。

文明の恐ろしさですよね。資本主義と言っても良いのか。足るを知った民族を、取り込んで己の価値観に変えてしまう。また生活の質が上がるように実感させるのも文明の恐ろしいところだ。

位置: 557
ヤヨマネクフの抱えている悩みを見透かしたような、けれど的には外れているような話だった。道守先生にとっては、日本への復帰だろう。だがヤヨマネクフにとっては、日本に吞まれるような立場なのだ。

我々が飲み込んだ、アイヌという人たち。
忘れちゃならないね。同化させてしまった、とまで思う必要はないように思いますがね。

江戸時代に松前藩との度重なる戦があったことは知っておくべきですが。

位置: 685
「親父さんは、立派な日本人なのか」
日本のために、という太郎治の最初の答えが引っかかった。立派な日本人たれ。学校で言われ続けているが未だに想像がつかない。
太郎治は「それはわからない」と首をひねる。謙遜するような可愛げは太郎治にはない。立派か否かを判ずる根拠を持たず、例の慎重さで立ち止まっているのだろう。
「ぼくにとっては、好きだけどちょっと困る人だね」
どこでこんな賢しらな物言いを覚えるのか、聞くたびにヤヨマネクフは不思議に思う。
「何が困るんだ?」
「ぼくはアイヌと和人のどっちなんだろうって父さんに聞いたことがあるんだけど」
「妙なことを聞くもんだ」
アイヌの村でアイヌと暮らして、今さらどうして気になるのだ。お前は本当に間が抜けている。そうからかおうと開いた口から、声は出てこなかった。自分が抱えている、アイヌでなくなりそうという不安の先に、元から居所を持たない太郎治が漂っている気がした。
「親父さんはなんて言ったんだ?」
「お前が決めろって」

アイデンティティの問題。

位置: 723
「文明ってな、なんだい」
ヤヨマネクフが前から抱いていた問いだった。開けた文明人たれとは、学校で散々に言われるが、それがどんなものかさっぱり想像がつかない。
「たぶんだが」チコビローの顔はやはり苦い。
「馬鹿で弱い奴は死んじまうっていう、思い込みだろうな」

ズシンと来ます。この時代の文明=欧米=帝国主義だろうから、まさにそうだろうなぁ。いまだってそうじゃないわけじゃない。

位置: 800
チコビローの微笑みは凍りついた。なおも永山氏は言い立てる。
「ここに並ぶ酒食も、国家から与えられたものが大半ではないのか。貴様らが税を納めず兵も出さず、未開にとどまり怠惰に暮らせるのは、誰のおかげか」  屯田兵を率いる永山氏なりに義憤があるのかもしれない。しかし村人たちの故郷を、自分のものでもないのに勝手にロシアにくれてやったのは永山氏のいう国家、日本だ。

人に対して「怠惰」と言うのは良くないよね。
このあたりも、明治政府役人の傲慢さや理解の及ばなさが露骨にでてる。

第二章 サハリン島

位置: 1,626
「どうしてもやるのか、カンチェル」
長く感じる時間が経った後、ウリヤノフが尋ねる。カンチェルは力強く頷いた。 「書くよ」ウリヤノフは言った。
「きみたちの命に、わたしは意味を作ろう」
ウリヤノフは数日かけてブロニスワフの下宿で綱領を書き上げ、幹部内での回覧用に数部を印刷した。
「きみは読むな。しばらくは会合に顔も出すな」

革命っつーのはホント、難儀なもんだ。
あたくしは絶対にそんな無骨なこと出来ないものね。そこまで自分に酔えない。でもこの台詞をやり取りしている間、生きているって実感はすごいだろうなぁ。

第三章 録されたもの

位置: 2,739
だがヤヨマネクフは、かく評される、もと悪人たちの顔を知っている。彼らは一様に疲れ、苛立っている。懲役囚は瘦せていて、時には 酷い体刑の跡がある。流刑入植囚や自由民は、ごく貧しい。ともに、凍てつくこの島の暮らしに慣れているとも思えない。島に送られる罪を得た理由も、ひょっとすると何かの矛盾によるものかもしれない。
島のロシア人たちは他ならぬ彼らの祖国から追い詰められているように思えたし、故郷だったはずの島は、人が生む矛盾と理不尽の集積場のようになっていた。

飢えと寒さってのは根本的に怖いものです。あたくしはやっぱり大嫌いだ。樺太のそれなんて、まさにだろうなぁ。

位置: 2,900
「〝サハリン〟がロシア領になる前のことは覚えているか」  ヤヨマネクフは首を振った。いくつかの記憶はあるが、ロシア風に島の名を呼んだバフンケの、その苦い表情に似つかわしい景色はたぶん見ていない。
「まだ 髷 を結っておった和人どもは、前借りしたわずかな米や酒を 形 にアイヌの男を 扱き使った。言うことを聞かなければひどく殴った。逃げれば追ってきた。女も男のように扱き使われるか、 妾 にされた。まるで奴隷だ」
ヤヨマネクフも何度も聞かされた話だ。 堕胎 薬に 和人薬、梅毒に 日本病 という異称があるのは、バフンケが語る時代の名残だ。

力を持っている方が従わせる、という構図。やっぱり21世紀に置いてくるべき価値観だなぁと痛感。昔の日本人だって平気でこういうこと、してたんだよなぁと思う。

位置: 3,479
「さっきも言ったけど、今日はお祝いだよ。呼ばれたぼくらだって、今日は構えなくていい日だ。それに、彼女は彼女だ」
きみの亡妻じゃないぞ、という意を含ませた。伝わったかはわからないが、観念したようにヤヨマネクフはチュフサンマの目を見た。
「似合うよ、きれいだ」
絞り出すような声だった。

諦観だなぁ。前向きな。
ヤヨマネクフ、かっこよいなぁ。

第四章 日出ずる国

位置: 3,801
「先に言うが、これを聞いてもきみにはどうしようもない。ヴラジヴォストーク来訪は、きみが選びうる中で最善の選択だった。それだけはわかった上で聞いてくれ。この話はぼくもさっき、号外で知ったばかりだ」
何のことかわからないブロニスワフは「どうぞ」と軽く応じた。
「三日前、サハリンに日本軍が上陸した。いまも戦闘が続いているらしいが、詳しい戦況は不明だ」
聞いたとたん、息が詰まった。
「帰ります」
踵 を返そうとして、肩を 鷲 摑 みにされる。

息を呑む。日本人が熱狂し、いまだに坂の上の雲として崇めているあの戦争のもう一つの側面。ガツンとやられるよね。

位置: 3,814
ブロニスワフは両手で頭をかきむしり、 腿 を叩く。食いしばった歯から獣のような呻きが漏れる。空を仰ぐ。視界はドーム状の高い天井に遮られる。爪を失った手足で這うように出廷した元老院を思い起こす。
最善の選択。その道を選んだ自分の 賢しさがブロニスワフは心底から憎かった。

分かるよ、己の小賢しさを呪う瞬間。
程度は違うが、あたくしもあります。読んでてぐっとくる。

位置: 3,997
「第七師団には、北海道のアイヌも出征している。あんたら樺太のアイヌもこうやって日本を懐かしみ、尽くしている。結構なことだな」
軍曹の無邪気な世界観が、ヤヨマネクフには不気味に思えた。

無邪気な世界観、誰もが持っていますよ。誰もが不気味。
あたくしだって、おんなじようなもんだ。だから勉強は大切。

位置: 4,482
二葉亭四迷 なる長谷川の筆名は、くたばってしまいたいという鬱屈した自嘲が由来らしい。たった一作で創作の筆を折り、以後は翻訳やら政治趣味やら外国語教員やら、書く気のない原稿料の前借りやらで身過ぎ世過ぎしてきたという。
意地悪く言えば長谷川は、ロシアの文学と政論に焦がれながら、異常なまでに内省的な自嘲癖からどちらにも近付けず、周囲をうろうろし続けるような人生を送っている。

位置: 4,529
「私は日本人だ。戦勝は嬉しいし、忠勇なる我らが将兵に感謝と尊敬の念は尽きない。同時に、私は人間だ。冷たい荒野の地平線まで埋め尽くす敵味方の死体を思うと身が 竦むし、その膨大な死によって生きながらえた自分が心底疎ましい」
「あなたが考えるべきことではない」
とっさに、ブロニスワフは口を挟んだ。
「あなたが始めた戦争ではない。止める力があったわけでもない。 惨禍、あえてそう言うが、この惨禍についてあなたが負うべき責任は何もない」

戦争とナショナリズムとアイデンティティと。今だって変わらぬ次元で人は悩んでいますね。戦争から距離をおけている日本人のあたくしだってそうなんだから、いわんやウクライナの人をや。

しかし二葉亭四迷が出てくるとはね。「くたばって死ね!」と父に言われたというのはデマらしいね。あくまで自嘲らしい。

位置: 4,617
「一冊しか書いていない私の小説を、たいそうお褒めいただいた。東洋の精神性と西洋の哲学性の 相克 が見事であると。早く次を書けとも」
辛そうに長谷川は答えた。褒められて傷つくというこの男の鬱屈はいつ晴れるのだろう、とふと心配になり、ここまで心を悩ませる文学というやつに縁のない人生でよかったと安堵も覚えた。

それを文学で読む、読者への挑戦ですかね。
面白い。二葉亭四迷、大隈重信、そして我らがブロニスワフ。すごいメンツだ。

位置: 4,654
「私たちは、いや私は――」
俯き、考え込む。サハリンの妻子と友人たちの顔が浮かぶ。やがて気付き、顔を上げる。
「その摂理と戦います」
伯爵は量るように目をすがめる。ブロニスワフは続けた。
「弱きは食われる。競争のみが生存の手段である。そのような摂理こそが人を滅ぼすのです。だから私は人として、摂理と戦います。人の世界の摂理であれば、人が変えられる。人知を超えた先の摂理なら、文明が我らの手をそこまで伸ばしてくれるでしょう。私は、人には終わりも滅びもないと考えます。だが終わらさねばならぬことがある」

ブロニスワフかっこいい。。。。

あたくしも、微力ながら日々、その摂理という思想と戦っていますよ。

位置: 4,721
ユゼフは言い淀んだ。
「容赦できない」
しない、とは言わなかった。ユゼフなりに、最後まで弟でいてくれようとしたらしい。

ユゼフも素敵……。

第五章 故郷

 位置: 4,792
「叙事詩を持つのは、西洋でもギリシャやローマのような優秀な民族だけです。失礼ですがアイヌは今まで、未開で野蛮な民族と見られてきました。けどハウキやユーカラは、アイヌが野蛮どころか偉大な民族である証です」

ここで金田一京助登場。
登場人物に急にメジャーが出てくるの、上手い。

位置: 4,861
ヤヨマネクフは愕然とした。
アイヌとして文明の中で生きていく知識を広めるために作った学校が、アイヌを日本人に作り替える場所にされようとしている。

これってまさにアイデンティティの喪失だろうなぁ。その覚える危機感は、想像に難くない。

位置: 4,920
「隊長は、ぼくだ」
赤ん坊は箱を覗き込みながら平然と言う。
やがて立ち上がり、 埃 を払うと手を差し出してきた。 「陸軍輜重兵予備役中尉、 白瀬矗 だ。

ここで「空よりも遠い場所」登場。

白瀬ですよね。ここで来たかー!ってね。

位置: 4,985
詩の才を持つ石川という同郷の友人がいて、たびたび金を無心に来るという。 「去年にロシアからの帰国途上に 客死 した二葉亭四迷という作家がいまして、石川はその全集の校閲をやっていたんです。仕事もきちんとできるし収入もぼくよりはるかによさそうなのに、どうも身持ちが良くないのです」

そして啄木。オールスター感がある。

まとめ

いや、とにかく大作でした。ロシアから「よりもい」まで。幅広く刺激してくる。
この本に出会えたことに感謝。

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