これは間違いなく、比類なき傑作でした。
三度目の刑務所生活で、スリ師戸並健次は思案に暮れた。しのぎ稼業から足を洗い社会復帰を果たすには元手が要る、そのためには―早い話が誘拐、身代金しかない。雑居房で知り合った秋葉正義、三宅平太を仲間に、準備万端調えて現地入り。片や標的に定められた柳川家の当主、お供を連れて持山を歩く。…時は満ちて、絶好の誘拐日和到来。三人組と柳川としの熱い日々が始まる!第32回日本推理作家協会賞長篇賞受賞作。
間違いなく傑作でした。大傑作。
読みながらも、なお、読書の楽しさを再起させられるような、素晴らしい刺激に満ちた作品です。
文章のテンポ、作品全体に漂うユーモア、トリックのスケール、どんでん返しの大胆さ。どれも満点です。とにかく読んだほうがいい。これを読まずして何を読む、というくらい満足いたしました。
「あんたら、私をさろうて、金にしたいんやないですか。まさか、人殺しになりたいわけやないでしょう」
「何やて?」
かれらはぴくっとたじろいだようでした。それに追いかぶせるように、
「私はもう八十二歳だす。人間八十すぎたら命は惜しゅうないもんや」
と大奥さまは言われるのです。
「あんたら、力ずくでも、言わはるんなら、私この場で舌をかみ切って、死んでしまいます。あんたら、自分が殺したんやない言うても、あんたらに襲われたから死んだんやさかい、りっぱな殺人犯や。言いのがれるみちはあらしまへんで。うそやない証拠に、このとおりや」
そうおっしゃって、大奥さまは舌をべろりと出して歯でおくわえになりました。
男たちは、これにはほんとうにぎょっとしたようです。
肉色と白が顔を見合わせて、肉色があわてたように言いました。
「おばあちゃん。短気起こさんと、聞いてくれ。さらう言うてもな、さらって悪さしよう言うわけやないんや。ま、せいぜいが、男では目が届かんこともあるよって、おばあちゃんの世話でもさせようかと……」
「いけまへん」
大奥さまはぴしっと言われました。
「あんたらが何もせんでも、世間はそうは見いしまへん。さらわれたいうだけで、この子は一生傷ものになってしまいますんや。ええな、紀美はん」
ぎゅっと私の手を握られました。
「あなた、そないな肩身狭い思いして暮さんならんぐらいやったら、私と一緒にここで死んでしまいなはれ。若うて可哀そうやけど、八十二歳も一生、十八歳も一生や。最期を清うしなはれ。私が模範示してあげるよってな」
そう言ってまた舌をおくわえになったので、私もほんとうにそのとおりだと思いました。
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とし子刀自の胆力がまじまじと描かれた素晴らしい箇所。読み返しても凄みがあります。
事件全体のスケール、計画性、非常に顕著な自己顕示性、それからどこかに漂っているユーモア性……こういった体臭は、プロの犯罪者のもんでもないし、いわんやちんぴらグループのもんでもない。もっと老熟した、そして真剣に戦いながら同時にゲームを楽しんでいる、というような、ゆとりのある大らかな人間性を感じさせるんですな。獅子の風格と、狐の抜け目なさと、奇妙なことだがそれにパンダの親しさと、兼ね備えた人格ということでしょうかねえ。……そしてある日気がついたら、正にぴったりな人物が、事件の中心に座ってるじゃないですか」
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ここなんか、まさに読者がこの本に対して思っていることそのままですよ。これを劇中で見事に再現する巧みさ。ニクいね。
「人には分いうもんがあるんですなあ。おばあちゃんを見とって、つくづくわかりましたわ。あの方のすることなすこと……あれは何やら単位……金でいうたら億単位の人がすることや。おれらラーメン単位のもんは、真似しようかて真似できへん。下手に真似しよったら、てめえの首くくるだけや。こんどの何十億もその口ですがな。おれがそないな大金持ったかて、猿がヨロイ着たみたいなもんで、動きがとれへん。分に合わんもんはどもならんのです。一千万かてちょっとだけ似合わへんかいなと思いますけど、何百万かは早急に要るんやし、何とか背負うて行けますやろ。でもそれが限度や。それ以上はあればあるだけ身の毒や。一千万、ビタ一文よけいにはいただけまへんわ」
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この誘拐犯たちのコミカルで愛らしい描き方も好きですな。誰も悪人にしない、誰にも愛情を注いで描かれるこの世界に、祝福を。
とにかく日本ミステリー史に残る大傑作でした。いいもの読んだ。
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